Novel
『ごめんなさい』【中】

 夜はリーベを抱いて寝て、朝になったら一緒にメシを作って、それからは釣りに行ったり泳ぎの練習をしたり、サシャへの土産に燻製を作ったり――あっという間に三日は過ぎた。
 その間、リーベの泳ぎは大して上達しなかった。わかってた。知っていた。こいつは何でもすぐに上達するような質じゃねえ。何度もめげることなく繰り返して練習して、やっと開花させるんだ。今じゃ極上の味に淹れられるようになった紅茶と同じだ。

「浮けるならいいだろ。何かあれば俺が引っ張ってやる」
「それはどんな状況ですか……?」

 天気は一度も陰ることなく、防犯の備えで初日に施した鈴が鳴ることは一度もなかった。ただ穏やかに俺たちの時間は流れた。

 あっという間でしたね、と名残惜しげに言いながらもリーベはてきぱき帰り支度と荷造りする。
 朝の光に包まれた眩しいその姿を目に焼き付けるように眺めて、俺は前以て用意していた言葉を伝えることにした。

「俺は兵団に帰る。お前はこのまま逃げろ」
「――え?」

  リーベが動きを止めた。そのまま動かない。呆然と立ち尽くしている。俺は構わず言葉を続けた。

「ユトピア区に家を用意した。ゲデヒトニスもレイスも誰も関与してねえ。代理で手続きさせたから」

 最低限の衣服と武器だけを詰めたトランクを持たせる。こいつが好きな本や愛用している調理器具も入れてやりたかったが無理だった。可能な限り金を詰めた財布も押し付ける。

「あの、一体何を――」
「お前の死をでっち上げる」

 リーベが息を呑む。

「ユトピア区の件は誰も知らない。お前の足取りは誰にも掴めない。今まで色々あったがお前の顔が広まることはなかったから目立つことさえ避ければ問題ねえはずだ。いつだったか指名手配で顔出しされたのも俺だけだったしな」
「…………」
「俺の言う意味がわかるな?」

 地位も名誉も、そんなものは俺に必要ない。

 歴史に残る戦果もいらねえ。

 それでも、どうしても、お前だけは諦められない。

 お前を犠牲にすることはしたくない。

 俺たちが救われる方法は別の道を探すから。

 だからお前は逃げることを選んでくれ。

 心からそう望んでも、リーベの反応は鈍い。

「どうして……」
「このままだとお前は殺される」

 命や、公に捧げる心臓の話じゃねえ。
 お前の――心の、話だ。

 お前の血筋はお前の望む生き方には厄介だ。ケニーが最期に危惧していた通りになりつつある。
 王位に就いたヒストリアだって傀儡の意味が強い。
 中央の議員どもがリーベを都合よく使うことは想像に難くない。降嫁したところで血筋は変わらねえ。

 リーベが目を伏せた。

「――私が殺されたら、世界は救われるみたいですよ」

 リーベを殺した人間が得られる、全知の力。『道』を通って巨人の肉がこの世界へ送り込まれるように、その古い力も何らかの作用で発動するんだろう。ハンジやアルミンに考えさせれば答えは多くあるだろうが、俺にはこれが関の山だ。

 最初に聞いた時はどこの夢物語だと思ったが、ケニーの言葉とゲデヒトニス家の文書を照らし合わせると『事実』がどうあれ信じ切っている連中が多くいることが問題に思える。

 力を手に入れるために、力を示すために、人間は容易に人間を殺す。そのことを俺は昔から知っている。ケニーがこいつを殺さなかったことが今でも信じられねえくらいだ。

「リーベ。お前、わかってるだろ。お前が殺されて救われる世界は、お前を殺したヤツにとって都合の良い世界になるだけだ」

 リーベが胸の前でぐっと拳を握りしめる。

「……私は、あなたに殺されたい」

 俺はリーベに向き合い、口を開く。

「リーベ。――死んでくれ。それまでは、生きて、生きて、生き続けろ。何年も、何十年も。そして死ぬんだ。約束しろ」
「……何ですか、それ」
「俺はお前に生きていて欲しい」

 リーベは何かを抑え込むように唇を噛みしめてうつむいた。

「私はもう、充分です。あなたと二人で、こんな風に過ごせて……。だからこれ以上、幸せにならなくても――」
「俺は、お前に幸せになって欲しい」
「…………」
「お前は俺にどうなって欲しい」

 促すと、リーベがうつむいたまま口を開く。

「そんなの、決まってるじゃないですか。誰よりも、幸せに――」
「じゃあ自分がどうすればいいかわかるな」
「…………」
「諦めてくれ、不幸になることを。俺の望みを叶えて欲しい。苦しくても、難しくても、幸せになってくれ」

 リーベは黙っていた。それから首を横に振る。

「――私だけ逃げることはできません」
「リーベ」
「あなたが『二人で逃げよう』と言わない理由と同じです」
「…………」
「ヒストリアは自分にできることを努めて女王の座にいます。エレンは苦しみながらも戦おうとしています。そしてみんなはそれを支えている。――私も、考えないと。自分にできることを。逃げることではなく」

 リーベがゆっくり歩いて近づいて来た。そのまま俺の肩へ額を押し付ける。
 無意識に腰を引き寄せて、これ以上ないほどに俺たちの身体は触れ合う。
 リーベの体温と匂いに、身体の奥底にある何かがほぐれるのがわかった。ずっとこのままでいたいと思う感覚だった。だが、それが許されないことはわかっていた。

「ありがとう、あなた。――私は大丈夫。それに、たとえ幸せになれなくても、私は今これだけ幸せになれたから充分なんですよ」
「…………」

 結局、俺が折れた。一緒に兵団へ戻った。そうするべきではなかったと後々になって何度も思う。
 
 俺は、お前にずっと幸せでいて欲しかったんだから。

 危惧していた通り、その後のリーベはお飾りの役職に据えられて、兵士でありながら訓練は禁止されることになった。外出も中央の許可なしではままならなくなった。
 リーベの自由を奪う在り方――すべてはリーベの身を守るため。その身体に流れる血のため。それが連中の大義名分。
 特務の役職を与えたくせにしばらくしたら書類仕事さえも関与を禁じた辺り、中央はリーベが調査兵団を掌握して力を持つのが嫌だったんだろうとわかる。リーベを役に立たない人間にしたかった。
 現場の人間からすれば「ふざけるな」とも言いたくなる数々の制約に対して、諍いを避けるためにリーベに引いてもらうしかなかった。海の向こうにいるあまりにも大きな敵の存在が明らかになった以上、島の中での争いを避けてしまった。

 許可を得てたまに外に出られると思えば、愛馬が殺されて移動手段は潰されて。
 やっと外に出られたと思えば中央に歯向かう王家反対派に毒を盛られ、それを理由にさらに行動に制限を科されて。

 誰もがリーベへ自分本位の欲望と身勝手な立場をぶつけていた。

 それでも、リーベはいつも笑ってたから。
 広くはない兵舎の中で、明るく振る舞っていたから。
 だから俺は、いつも騙されていたんだ。

 俺の知らない場所で多くを強いられていたこともわかっちゃいなかった。
 中央の連中にとって用があるのは王家の血と、そしてその血を流す子供――そのせいで子供を産めない状態であることを詰られて、過度な検査と共にそれに耐えていたことも。

 港を作るだの外交だの忙しさにかまけて兵舎に戻れない日も増えた俺が知らないリーベの時間は増えるばかりで。

 折れそうなリーベの心を最後に支えて、最終的に折ったのがニケの存在だった。

「可愛いですね、とても」

 いつだったか、よだれまみれのニケの口元を拭いてあやしながらリーベが言った。

「怖いくらいに、可愛い」
「……怖い?」

 どういうことだと訊ねれば、リーベは淡く微笑む。

「この子のために、何でもしてあげたいと思ってしまう。いつまでも、ずっと見ていたい。――こんなに可愛い存在がこの世界にあったんですね」

 もうあの顔を見ることは二度とない。なぜなら俺は誤った。何度も。

 ヒィズルの連中から《預言の巫女》に関する話が中央へ回った時にもっと上手く立ち回るべきだった。前以てハンジやアルミンの知恵を借りるべきだった。

 だが俺はそうしなかった。

「どうして言ってくれなかったんだよ」

 後からハンジに詰られても「悪い」としか返せなかった。
 もっと早くこいつらに相談しなかったのはなぜか考えた。
 俺が、自力で解決したいと望んだんだ。無意識に。何とかしようと思った。俺がリーベを守りたかった。それがあまりにも愚かな考えだったと今ならわかる。
 だから何度も思い返す。新婚旅行の時、強引にでも逃がせば良かったと。

 リーベを守りたい。

 どれだけ強く望んでも、どれだけ巨人や人間を殺しても――最後まで、それは俺にはできねえことだったんだ。

「………………」

 もしも『二人で逃げよう』と言えたなら、また話は違ったんだろうか。


(2023/01/17)
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