Novel
【幕間】2000年後のあなたへ-857-【完】

「お見苦しいところを失礼致しました。改めまして――いらっしゃいませ、本日ご予約のお客様ですね? お待ちしておりました」

 ゲデヒトニス家仕込みのこの上なく優美に見える一礼を披露する。身体に染みついていなければ立ち尽くしてしまうところだった。危なかったと思いながら呼吸を挟み、堂々と顔を上げる。

 目の前にいるのはブラウス夫妻。そして彼らと共に生活している子供たち。あとはファルコ、オニャンコポンさん、そして車椅子に身を委ねたあの人がそこにいた。
 隻眼になっても、その眼差しの鋭さは変わらない。

 私が唇をきゅっと引き結んでいると、

「遅くなってごめーん!」

 そこでガビが遠くから走ってやってきた。ファルコと同じように、この子も大きくなった。

 それにしても、昨日ニコロさんが話していた『大口の予約』って彼らのことだったんだ。

 報連相を怠ったことを痛感しながら、店の中へ案内することに徹した。それからはウェイターへ引継ぎをして、私は厨房へ戻る。不届者はニコロさんが憲兵へ引き渡した。

「ふう……」

 顔を合わせた時はどうなることかと思ったけれど、これでよし。もう問題はない。これから私は店の奥でひたすら料理を作るから、もう話すこともないし。
 意識を切り替えて、手洗いと消毒を済ませてから自分の仕事に取り掛かる。

「何これ美味い……!」
「両手で食うなよガビ」
「ファルコも食べてみてよ!」
「オレは順番に――ふごっ」

 にぎやかな声が時々厨房にまで届いて、頬が緩む。嬉しい。レベリオでの日々を思い出す。美味しいと言ってもらえるのが嬉しくて、材料が許す限り彼らにパンを作った頃のこと。
 ウェイターから合図をもらい、下ごしらえを終えていた肉へ火を通す。これで完璧なタイミングでテーブルに並べることができる。

「こら、二人とも落ち着いて食べないと」

 カヤの声も聞こえる。サシャを思い出す。味付けに迷ったところで、彼女好みの味付けを施してみた。ご両親や家族の皆も同じものを美味しいと思ってもらえるといいんだけど。
 懐かしい声を聞きながらどんどん料理を仕上げて、食後の紅茶まで淹れ終えた。
 全部運んでもらってしばらくすると、ガビとファルコ、そして子供たちが出ていく賑やかな声が遠ざかり、一気に店内が静かになった。入口近くからサシャのご両親とニコロさんの声だけが聞こえる。会話の内容は聞き取れないけれど。

 食器を片付けていたら、見送りを終えたらしいニコロさんがやって来た。

「お疲れ様です、ニコロさん」
「お疲れ。食後の紅茶だけ頼む」
「あれ? もうお帰りになったんじゃ?」
「まだいるし、紅茶はお代わりだとよ。――あと、お前に指名だ。シェフを呼べとよ」

 うわ、と顔をしかめてしまう。

「そういうものは断ってくださいよ。いつも断ってくれてますよね?」
「言ったけど今回は別。貴族様にはそれで通るけど、あの人には無理だ」

 誰だろう、と顔を見るまで気付けなかった私は本当に馬鹿だった。

「お前か、この紅茶を淹れたのは」

 あの人が――リヴァイ兵士長として名を馳せた彼がそこにいた。まだ残っていたとは思わなかった。一人で車椅子の操作はできるのだろうか。

「お代わりをお持ちしました。お待たせ致しました」

 なぜわざわざ私が呼ばれたんだろうと考えながら、新しい紅茶のカップを置いた。
 早くこの場所から離れたくなるけれど、呼ばれたからには留まらないと。
 何となく、逃げ場を求めるように窓の外を見てしまう。
 ここは窓からの景色も楽しめるテーブル席だけど、今日は生憎の曇天だ。雨は降りそうにないけれど、ずっしりとした雲が空を覆っている。
 そんな風に意識を無理やり外へ向けていると、

「さっきから何だ。言いたいことがあるなら言え。クソが詰まった顔されちゃせっかくの紅茶が不味くなる」

 呼ばれたのは私の方で、私が言いたいことなんてないんだけれど。

「…………」
「…………」

 部屋には私たちしかいない。
 少し緊張しながら口を開くと、勝手に言葉が出てきた。

「――わからないんです。どうして私は皆のようにエレンを許せないのか」

 まっさらになった大地が目に焼き付いている。一面が血と肉で満たされた、あの光景。

 エレンのしたことを肯定できない。だけど、エレンに他の選択があったとも思えない。

 時間の問題。
 手段の問題。
 そして、タイミングの問題。

 私もすべて誤った。

 思わずうつむいてしまう。自分の行動を顧みて拳を握り、胸の奥にさざめく感情を宥める。

「だけど、矛盾を感じるんです。アニがペトラたちを殺した時、私はアニを責められなかった。ガビがサシャを撃った時もそう。ジークさんの投石で何人の仲間が死んだかも数えられないくらいで、ケニーだってニファさんたちを殺した。でも、私は――彼らの行為を、非難できなかった」

 なのに、どうしてエレンに対してだけ、こんな感情を抱いてしまうのだろう。許せない、なんて。
 エレンだって、私に親切にしてくれた。たくさん私の料理を食べてくれて、私に優しくしてくれた。みんなのことと同じように私のことも救おうと奮闘してくれた。

 事情を知らないこの人にとっては、頭のおかしな人間の話にしか聞こえないだろう。現に彼は怪訝な顔で、それでも黙って耳を傾けてくれた。

「……ケニーだのペトラだの、あいつらの名前を挙げるお前が何者か、俺にはわからねえし、お前の選んできた人生がどんなものだったのか俺は微塵も知らねえ。だが――それでも、わかることはある」

 この世界のこの人は、私のことなんて何一つ知らないのに。

 どうして、こんな風に見透かすように話すんだろう。

 カップを置いて、彼は続ける。

「愛していたからだろ、この世界を」

 隻眼が、まっすぐに私を見据える。

「誰も彼も、状況次第でお前も同じように相手を殺していた。だから実際そうした連中を責められない。だがエレンのしたことだけはお前にはできないことだった。なぜならこのどうしようもねえクソみてえな世界をお前は愛している。それをエレンに壊されたから今は耐え難いんだ」

 少しずつ、視界が滲むのがわかった。
 言葉が、沁み入るように。

 どうして私は泣きそうになっているんだろう。

 ふいに窓の向こうが明るく感じた。見れば、雲が途切れて太陽が顔を出していたから。まばゆい光が眼下へ降り注いでいる。
 
 世界の輝きが、眩しい。

 窓から風が吹き込む。頬を撫でるような、柔らかい心地だった。見えない手に、包み込まれているみたい。

 私がその感覚に身を委ねた時――

「う」

 軽い眩暈と共に、身体の内側に鈍痛が走る。何これ。

 ううん、知ってる。

 何年も無縁の感覚――ずっと、忘れていた痛み。

 あと、眩暈。

 どうして。
 どういうことなの。

 混乱に呻きながらテーブルに縋り身体を小さくすると、

「何だ、腹が痛えならさっさと便所でも行け」
「いえ、これ、違」

 どういうことだろうと考えて、唐突に思い出す。

『今、子供を授かれる身体でない理由は――あなたから「愛する心」が失われているからではないでしょうか』

 そうか。
 そうだったんだ。
 キヨミ様の言葉がやっと、やっと理解できた気がする。

 レイス領の地下礼拝堂で私は『世界の真実』を知ったから。だからそれまでに無意識に抱いていた想いは絶たれた。

 だけど、今は。

「そっか……」

 私は世界を愛している。

 ずっと忘れていた感情。無意識に抱いていた想いを、取り戻した。思い出せた。

 だけど、

「……私には、何もできない」
「重要なのはそれじゃねえだろ。お前が何を、したいかだ」
「…………」

 それなら、わかる。

 私は重い下腹を宥めて姿勢を正す。鈍痛は消えないけれど、耐えられるくらいだ。

「――もう行きます。お話、ありがとうございました」

 やるべきことはわかった。そのためにどうすればいいのかも。

 あと必要なのは覚悟だけ。

 少し迷って、お願いすることにした。

「最後に、握手をして頂けませんか」

 私のお願いに怪訝な顔になりながら、それでも手を差し出してくれた。

 欠けた指。私の知らない掌。そして――強くて優しい手。

 この感触を、忘れずにいよう。

 私はどうしようもない人間だけど、まだ戦いたい。

「これから何をしに行くんだ」

 静かな問いかけに、少し迷ってから答える。

「世界を救いに」
「この世界を?」
「いいえ、『私のいる世界』を」
「……それは、お前が犠牲になるのか」

 この人は何も知らないのに、どうしてすべてを把握しているように訊ねるのか。

「私は私の選択を犠牲だとは思いません」
「エレンも自分の選択をそうは思わなかっただろうよ。見方の問題だ。……お前は何をするつもりだ」
「きっと、エレンと同じようなことを」
「人類の八割を滅ぼすのか?」
「いいえ、滅ぼすことはしません。パラディ島もです」
「上等じゃねえか」
「でも、酷い選択です」

 見方を変えれば、私がやろうとしていることは何もかも過ちだ。こんなことはしてはいけない。許されない。誰にも、決して。
 だけど、私は――その道を選ぼう。

「そうか。――だったらその上で、俺からの命令だ」
「私はあなたの部下じゃない」

 わかってる。この人の『命令』が私の心を守るためのものだと。
 だけど、今の私はそれに甘えるわけにはいかない。

 だけど、彼ははっきりと言った。

「幸せになれ。誰から見ても」

 優しさと確かな真摯な感情が声に込められていた。

「難しいだろうな。世界を救うよりも。だが、お前はそうするべきだ」
「……どうしてでしょう」
「――これだけ美味い紅茶を淹れられるなら、その権利はある」

 長い時間が過ぎて、私はやっと口を開く。

「――善処します」

 そう答えて、やっと私たちの手は離れた。

「さようなら。どうか、お元気で」

 振り返らずに、店を飛び出す。借りている部屋に戻ってから三年前のあの日以来袖を通していなかった兵服へ着替える。ミカサとニコロさんに宛てた別れの手紙を簡潔に短く書いて、全財産の財布と部屋の鍵をミカサの暮らす兵舎のポストへまとめて入れた。最低限の衣服や日用品で生活をしていたから捨てるものも多くならずに済んだ。

「これでよし」

 立つ鳥跡を濁さず。完璧には無理でも出来るだけそうしたい。ミカサにすべてを説明することは出来なかったけれど、『私のいる世界』と『私のいない世界』の話なんて、彼女には必要ないとも思う。

「――行こう」

 やるべきことは決まった。私は馬を借りて目的地へ向かう。

『知ってる? 世界は海で繋がってるんだって!』

 どうすればこの世界から出られるのか、今朝に聞いた子供たちの声を思い出すと、その答えがわかったような気がする。十三年もわからなかったのが嘘みたい。

 馬から降りて、海岸に立つ。ありがとう、と首筋を撫でれば、馬は元来た道を戻っていく。賢いからちゃんと帰ってくれるだろう。
 周りには誰もいない。
 深呼吸して頭上を仰ぐ。空は夕陽の色に染まっていて、夜の帷が近づいていた。

 立体機動装置を使うのは久しぶりだけど大丈夫、身体が操作を覚えてる。不安はない。

 愛おしい空の下。
 十三年の旅路の果て。

「さよなら。――行ってきます」

 立体機動装置の推進力を利用して、私は空高くから海の中へ飛び込んだ。泳げない身体は、どんどんと深く沈んでいく――落ちていく。

 息苦しいなと感じながら頭上を仰ぐ。水面のきらめきが夜空のそれに変わった時、私は砂の上にいた。

 視界いっぱいに星の海原。綺麗。こんな状況でなければ、いつまでも眺めていたいくらいに。

 ここは『座標』。すべてのエルディア人が通じる道。やっと着いた。目指したこの場所へ。

 それまで忘れていた呼吸を思い出して、咳き込む。苦しい。ずっとここで寝ていたみたいに身体が強張っている。

 終わってみると、あっけない。
 何もかもすべて、夢だったみたい。


「リーベちゃん……?」

 顔を向けると、上半身裸のジークさんが驚いたように私を見ていた。
 名前を呼んでくれた。
 ここは――『私』のいる世界だ。

「はい、リーベです」

 砂まみれの身体を起こして、私は笑ってみることにした。




 変な女だったと思いながら、一人残された部屋でカップへ口を付ける。美味い。

「……この紅茶が飲めなくなることは惜しいが」

 見知らぬ女の笑った顔を思い出せば、悪くないと思えた。


(2023/11/04)
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