Novel
【幕間】2000年後のあなたへ-857-【下】
「知ってる? 世界は海で繋がってるんだって!」
夜が来て、朝になった。日課の鍛錬を部屋でこなしてから、普段通りレストランに向かって歩く私の前を子供たちの無邪気な声が通り過ぎていく。
「…………」
この世界にニケはいるのだろうか。彼女が大きくなったなら、どんな子に育っているだろう。
探していないのは、自分の罪を直視できないから。
昔からずっと、私に子供を慈しめるとは思えなかった。母様が私へ抱いた感情のように、私も自分の子供へ死を願うのだろうかと思うと不安だったから。
だけど、自分の娘でなければ? そう考えて、あの子を育てたいと申し出てしまった。
ニケを引き取ってからは毎日が大変で、未知のことばかりで。それまでにない疲れに倒れてしまいそうな時もあったけれど、空虚だった時間はいつしか満たされていた。
かわいい子。すべてが愛しかった。私の支え。あの子がいてくれたから、私は閉ざされた世界でも生きていられた。
忘れられない、決して忘れることはない、私だけの罪。
「ん?」
まだレストランは営業時間前。『準備中』の札が掛けられた店の前に、ぐちゃぐちゃの紙が貼られていた。私は汚らしいそれを剥がして、扉を開ける。
「クソ! またかよ!」
更衣室でコックコートに着替えてから、二階にある事務室に入るなりニコロさんの悪態が聞こえた。
何があったか聞かなくても原因はわかる。最近多い、このレストランへの嫌がらせだ。どんどん評判になることに比例して、それは増えている。
「嫌がらせ、最近かなり増えてません?」
ごみになってしまった貼り紙をニコロさんに見せると、彼は顔を顰める。その手元を見れば、びりびりに破られた請求書の山があった。勝手に先にポストを開けられたんだろう。各取引先へ再発行依頼の手続きを思うだけで早くも頭が痛くなった。
「営業妨害です。憲兵に通報してください」
「先週したよ! だが証拠がないだの、現行犯じゃねえと動けないだの――」
「そのうちお客さんにも迷惑かかりそうなので悠長なことは言ってられないと思います。お客さんが襲われたらどうするんですか?」
エレンの行いによって戦争は終わった。根本的な解決ではなく物理的な解決――ううん、解決はしていないか。敵がいなくなったわけじゃないけれど彼らは生き続けることに精一杯で、当面はこちらを攻撃する余裕がないだけで。そしてそうはならないようにアルミンたちが尽力している。
仮初でも、平和がここにある。
だけど、と私は手元の紙を見る。せっかくカヤたちが綺麗に描いてくれたメニューの貼り紙がぐちゃぐちゃにされて、読むに耐えない罵詈雑言が書かれている。
人は人を傷つけることをやめられない。
人は人を攻撃することをやめられない。
人は人を蹂躙することをやめられない。
そして、人は人を虐げることをやめられなくて――人は人を殺すことをやめられないのだろう。
狭い範囲ですら、こんな諍いが起きてしまう。
世界なんて広い場所になれば、もうどうしようもないことなのかもしれない。
この世界から争いがなくなることはないのだろう。
きっと、人間がたった一人になってしまう日まで。
その時、窓の外から短い悲鳴が聞こえた。
ニコロさんは慌てて一階へ続く階段を降りて、私は二階の窓から外へ飛び降りる。
立体機動装置は装備していないけれど、この高さくらいなら何でもない。
それに、意味のあることだ。
まず、階段を使うよりも圧倒的に現場への到達が速い。
次に、相手の頭上――つまり相手の死角から初手へ持ち込むことができる。
わかるよ、エレン。
それはいけないことだとわかっているのに。
敵と会話する時間とか、敵とわかり合う時間とか。そんなの、自分が攻撃されようとしている時にやってられない。
「リーベ!」
ニコロさんがレストランから出て来た時には二人の大柄な男たちは地に伏していた。
「お前、何やった!?」
「えっと、普通に着地しただけです……」
説明を省いて、男たちが手にしていた刃物を遠くへ蹴っておいた。彼らがこれで何するつもりだったかなんて想像もしたくない。
ニコロさんにこの場は任せてレストランへ戻ろうとしたら、
「あの……男の肩に降り立つなりその頭を蹴っ飛ばして、続け様に隣の男の顔面に膝蹴りしてから着地するのは普通ではないかと……」
おずおずと、それでもはっきり話す声。ファルコだった。この数年で大きくなった。声も低くなった。優しい眼差しは変わらない。今は戸惑うように私を見ていた。
ふいに思い出す。レベリオで過ごした日々のこと。この子が小さな身体で、私を危険から遠ざけようとしてくれた時のことを。
「すごいですね、俺が動くより先に一瞬で……俺は驚くことしかできなかったのに。――ここで働かれてるなら元マーレ兵の方ですか?」
「え、うーん、違い、ます」
私はあまりファルコの方を見ないようにして答える。レストランへ戻るため、ゆっくり背を向ける。
「じゃあ義勇兵ですか?」
「ううん、そうじゃなくて」
「それなら、兵士の方?」
「ん、んー?」
『この世界』で私が兵士だったことはないし、答えに窮してしまう。
「兵士だろ」
断定する低い声に、心臓が竦んだ。
「空中姿勢が立体機動装置を操る兵士のそれだった」
「……いいえ、違いますよ」
私は、ファルコが押す車椅子に身を委ねた『彼』に向き合う。
この数年、遠くからその姿を眺めたことはあった。
でも、こんな風に相対することは初めてだ。
「私は心臓を捧げることができなかったので」
辛うじて声は震えずにいられた。
「お初にお目にかかります、リヴァイ兵士長」
もうその役職は降りた、と彼は肩をすくめた。
(2023/02/28)