Novel
【幕間】2000年後のあなたへ-847-

 くらくなると、ぶたごやのそばでねる。まわりには、だれもいない。いつ、きょじんになるかわからない、とみんないなくなっていた。

 だからひとりでぼんやりしていたら、さっきのおんながやってきた。

「さあ、終わらせましょう」

 なにを?

「あなたの中にある神の失せ物に出てきてもらうの」

 うせもの?

「忘れ物ということ」

 わたしのなかに?

「そう。出てきてもらう」

 いたいの?

「痛くないわ。少し違和感はあるかもしれないけれど、じきに消える」

 そのときになって、へんだときづいた。

 だって、したがきられてから、わたしはなにもはなせないのに。

 おうがいったから。どれいにことばはいらないって。

 なのに、どうしてわたしのこえがわかるの?

「だって、すべて知っているから」

 おんなはわらっていた。

 また、せなかがぞわぞわした。


◆ ◆


 訂正。ここはエレンの記憶の世界じゃなかった。 
 なぜなら彼から遠く離れた場所や彼のいない場所でも、人がきちんと存在して日々を生きている。そこではエレンが知る由もないであろう出来事も起きていた。

 では過去の世界なのかと思えば、そうでもなかった。

 じゃあ、一体ここはどこなのか?

 その答えは、私――リーベ・ファルケのいない世界だった。

 どこを探しても私がいない。東方訓練兵団や調査兵団本部、ゲデヒトニス家――そもそもゲデヒトニス家自体がなかった。アインリッヒ大学へ向かってもアルト様も見つからない。つまり存在しないのは私一人だけの話ではないらしい。結局、一体何がどうなった世界なのかはうまく説明できない。

 そして――なぜ、私は今ここにいるのか。

 この世界の現時点で『始祖』を有するフリーダ様に会えば何かわかるだろうかとレイス領まで会いに行ったけれど、彼女も他の人同様に私を認知することはなかった。
 その状態のまま845年、ウォール・マリアが破壊された夜にエレンのお父さん――グリシャ・イェーガーにフリーダ様は敗れた。

「…………」

 あの時、礼拝堂地下で起きた殺戮を傍観して、違和感があった。
 グリシャ・イェーガーは人を、そして子どもたちを殺すことを土壇場で躊躇っていたのに――結局、ロッド・レイスを除いた全員を殺していた姿。
 あの刹那の瞬間、彼に何があったのか。
 いくら考えても人の心の中なんてわかるわけがないけれど。

 そういえば違和感を覚えた瞬間は他にもあって、ウォール・マリアが突破された際のこと。超大型巨人から離脱したベルトルトが無垢の巨人と間近で接触したのに、その巨人はベルトルトではなくエレンの元へ向かい、最終的にエレンのお母さんを捕食していた。あの巨人は、なぜベルトルトを無視したんだろう。

 疑問は疑問のまま、今は847年。
 エレンたちの所属する南方訓練兵団では、炊事実習なんか行われていなかった。
 みんな元気に切磋琢磨して、日々の訓練に臨んでいた。
 未来がわかった上で過去を眺めていると、アニとライナー、ベルトルトが協力体制であったことがよくわかった。三人の覚悟と責務の重さが窺えたけれど、次第に起きたライナーの『異変』にベルトルトは困り、アニが苦労していたこと――あの頃は、一切わからなかった事実を前にすると、彼らは年齢相応の子供たちだったのだと思い知らされた。改めてマーレ上層部作戦立案者の正気を疑う。

 ところで、今の私は空腹になることもないし、眠くなることもない。
 まるで時間が経過していないみたい。

『道』について、タイバー家の秘蔵本に書いてあるものを前に読んだ。『そこに時間の概念はなく、何年も経過しているようで刹那にも満たない』と。
 私の現状には、同じルールが適用されているのかもしれない。つまり、ここは『道』の一つ?

 そんなわけで、この三年間で私が得たことはとても少ない。
 徒に時間だけが過ぎてしまった。

 どうすれば『座標』、せめて元いた世界に戻れるか試してみたけれど何の成果も得られない。
 レイス家秘蔵の書物で何か調べたくても、私が触れられるものは何もないし。
 高い場所から飛び降りても、次の瞬間には地上に立っている奇妙な現象になるだけ。
 後は自死を試すくらいしか思い浮かばないけど、どうしたものか。

 太腿のホルスターに収めている銃を何となく手に取る。せっかくマーレ最新式の大口径銃を買ったのに、全然使う機会がない。まあ、そんな機会はないに越したことはないけれど、それなら違うものを買えば良かった。

「……楽しかったな、パン屋さんで働くの」

 外の世界を知りたくて始めた生活、レベリオでの日々はとてもにぎやかだった。病の娘がすでに死んでいるのに周りへ公表していないという夫婦をキヨミ様がどこからか見つけてきてくれて、お金で彼らに協力してもらえたことは大きかった。おかげで周りに馴染みやすかった。いきなり他人が入り込める環境ではなかったし。
 突然何があってもいいように、最低限の荷物と武器をお腹に詰めて生活していたら妊婦に勘違いされて、以降はそれで通していた。少しずつそれまで以上にお腹に詰めて、子供を産めない身体なのに我ながら皮肉だった。
 鬱々として過ごしていた私に、パン屋のおじさんも奥さんも、お客さんたちも、ファルコも、コルトさんも、みんな私に優しくしてくれた。ガビとゾフィア、ウドはどのパンも美味しいといつもたくさん食べてくれた。
 エレンに声をかけられた時は驚いたけれど、彼は私を慮ってくれた。『あなたはずっと正しかったし、今も間違っていないと俺は思う』と言ってくれた。誤りだらけの、私の生き方を。

 結局、私は寂しさに弱かったんだ。
 だから、パラディ島でろくに外へ出られずに議員たちの言いなりになって従う不毛な日々の中、あの人も忙しくて兵舎に戻らないから一人きりの生活に耐えかねてニケの存在に甘えたせいで――あんなことになってしまった。

「…………」

 しばらく訓練兵団の彼らの日々を見守ってから、調査兵団の本部へ足を踏み入れる。
 私がよく片付けて綺麗にしていた調査兵団二階の奥の倉庫とか使われていないいくつもの部屋は掃除されないまま放置されていてがっかりしたけれど、それでも特に問題はないようだった。綺麗にしていたら皆が使ってくれて重宝される場所だったのに。
 そんな風に思いながら食堂にいる人たちを観察して回る。もう二度と会えないと思っていた人たちの中を歩いていると、

『ちょっとオルオ。それ、いい加減にしてくれない?』

 懐かしい声に息を呑む。何があったのか、ペトラは呆れた顔で隣のオルオさんを見ていた。二人の元へエルドさんとグンタさんも合流して、何やら声を上げて笑っている。

 こうして眺めていると、誰もが若かったり幼かったりして驚いた。当時の私には誰もが大人びて見えたから。

 あの人も、それは同じだった。兵長、とみんなに呼ばれて慕われている姿は変わりない。だけど、当時からひどいと思っていた目の下のクマは今に比べるとずっとマシで可愛いものだった。

 この世界に私がいないなら、一体どんな恋人ができるのだろうと気になったけれど――浮いた話は少しもなくて。

 私なんかを好きになってくれたのは、私なんかと結婚してくれたのは、この人の優しさでしかなかったのだと思い知らされるようだった。

 そうして世界は私がいなくても滞りなく回る。ずっとわかっていたことだけれど、目の当たりにしてやっぱりそうだと思えた。

 そして、私のせいで困る人、苦しむ人、悲しむ人、傷つく人、絶望する人がいない。

 そのことに、とてもほっとする。

「私のいない、世界……」

 ここは、私の夢見た世界だ。




 いくらこんな状況とはいえ、私生活を覗き見るような真似は良くないと思う。だから一人きりで過ごすような時間と場所は避けつつ、兵士長用の執務室へ入った。
 室内ではモブリットさんが大量の書類を順番に机へ並べていた。

『兵長、回覧等お待ちしました。こちらの稟議はお早めに確認をお願いします。特に壁外の水路工事に関する予算と工程、それぞれお目通しください』
『それは駐屯兵団の管轄じゃねえのか』
『壁内なら仰る通りですが、壁外なので我々になります。技術者と専門家に同行してもらうので、基本的にはその護衛を――』

 モブリットさんとやり取りする横顔を眺めながら、思う。

 この人を、こんなに近くから眺めたのはいつ以来だろう。

 そう考えて思い出したのは、レベリオ収容区から離脱しようとした矢先のこと。

 おい、と低い声が背中へぶつけられた瞬間、それまで歩いていた屋根の上を一気に転がるように身体を倒したっけ。ほとんど勘で動いた行為は功を奏して、伸ばされた手からうまく逃れることができた。だけど一瞬で詰められた距離を離すのは容易ではなくて、ナイフで動きを牽制しつつ片脚を狙って相手の体勢を崩そうとしたらその目論見は見抜かれた。すぐに屋根へ組み伏せられてしまった。

 そうなると、あの日に伝え損ねた言葉を言うしかなかった。

『ごめんなさ――』
『そうじゃねえ』

 苦しそうな声で、あの人は言った。

『違うだろ、リーベ』

 私は――何て言えば良かったんだろう。
 約束も何もかもを捨ててパラディ島を去った以上、謝る他ないと思ったから。
 今でもわからないことは、当然あの時もわからなかった。黙っていることしかできなかった。頭の中がぐちゃぐちゃだった。

『話は後だ』

 逃げ損ねた私は返事もできないまま、入れられた箱の中で小さくなることしかできなかった。
 それからはすぐそばで響いたいくつもの銃声で我に返って、着陸するなり動乱に乗じて飛行船を一人離れた。釘だらけで封じられた箱を、サシャがほとんど開けてくれたおかげでできたことだ。

『前に他の連中が話してた「水中兵服」はこういった時に使うのか』
『ええ、そうです。しかし兵長には対巨人戦に集中して頂きたいので不要かと…………ですが、一着備えておきましょうか。備えあれば憂いなしですし。かなり身体に沿うデザインなので、一人一人に合わせて採寸が必要でして』

 モブリットさんの気遣いで、この人の水中兵服は発注されたらしい。
 新婚旅行で初めて見た時、兵士の基本装備品の一つだから全員へ支給されるのが当たり前だと思っていた。

 芋づる式に新婚旅行のことを思い出してしまう。

 愛されて、愛した時間だけがあった時のことを。

『今、子供を授かれる身体でない理由は――あなたから「愛する心」が失われているからではないでしょうか』

 キヨミ様が話していた『愛する心』とは何だろう。
 レイス領礼拝堂地下での一件までは子供を産める身体だったということは、過去の私は持っていたらしい。今の私にない『愛する心』を。

 それが何か、どれだけ考えても思い当たることがない。

 だけど――私がこの人を愛していないなら、今この胸に込み上げる感情は何だろう。
 変化があるとすれば、積もり重なるばかりで、深くなるだけなのに。

「…………」

 母様が、ケニーではなくウーリおじ様との子供――私を産んだ理由は、よくわかる。

 同じことが、私にできない理由も。

 だって、ずっと聞こえるから。

 泣き声が。

 十二歳の頃の自分の声と――ニケの声。

 殺されるために生まれてきた子供なんて、いて欲しくない。

 それがわがままで、独りよがりの願望だとしても。

 だから私は、母様と同じ道を歩めない。

『助けてって言えば良いのよ』

 それでも、母様の声を思い出してしまう。

『俺はリーベちゃんのことも助けるよ』
『いつか、ヒィズルへいらっしゃい』
『約束します。貴女に自由を与えると』
『一緒に逃げよう。俺が、君を守るから……!』

 ジークさん、キヨミ様、タイバー卿、コルトさん、そして、あの人も――。

 それぞれのやり方で、私を救おうとしてくれた。
 そこから背を向けたのは私だ。
 救われる方法を選り好みしている私に、助けてもらう資格はない。

 だから、誰も私を助けてくれなくていい。

『私』のいない世界で、みんなが幸せでいてくれるなら――私はそれで、充分だから。


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【下】(2022/05/14)
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