Novel
誰が人間なのか?

 最初会った時は、血に塗れたガキだった。夜の闇の中でも殴られた痕が痛々しかった。裸足で冬空の下に立っていた哀れな姿をよく覚えている。

「よしよし、ニケは今日も可愛いねえ」

 今は陽だまりの中で、赤子を抱く女になった。穏やかに、あたたかく笑う顔は幸福の象徴そのものだ。

「そんなに溺愛して、自分のガキならどうなるやら」
「――そんなことないと思いますよ。ニケだから、こんなに可愛い」

 リーベは柔らかく笑って、よだれまみれのニケの口周りと顎を柔らかい布で拭う。ニケは丸い目でリーベをじっと見て、うあうあと言葉になっていない声を上げていた。
 余計なこと言っちまったなと頭を掻いて、俺は馬車の外を見る。俺の自宅があるウォール・ローゼの東から、調査兵団の兵舎まではまだ少し時間がかかるだろう。今日は天気が良い上に陽射しが柔らかいからこのまま昼寝でもしたくなる。
 リーベも窓の外の陽気に目を細めてから、隣にある荷物へ視線を向ける。

「今更ですが、こんなにたくさん頂いてしまって良かったのでしょうか」
「古着で悪いな。娘たちが昔に着ていたヤツで」
「いえいえ、どれも綺麗で布もしっかりしてますし助かります」

 大袋に詰めた荷物は三つ、すべて馬車へ一緒に積んである。どれも俺の娘たちが赤ん坊の頃に使っていた服やら玩具やらだ。
 リーベが引き取った赤ん坊、ニケの話を聞いてマリーが提案したのがきっかけだった。荷物を送り届けるのではなくリーベに取りに来させたのは、今じゃ滅多にない外出の機会を作ってやるためだろう。聞けば調査兵団の連中は港造りと関連する諸々に忙しいとかで、それに携わることが出来ないリーベは寂しい思いをしているんじゃないかとマリーは話していた。彼女の話を聞かなければ俺はちっともそのことに気付けなかったから自分が情けなくて仕方なかった。
 反王政派の毒殺未遂事件があってからはリーベの意思で外へ出ることも許されない状態だ。ったく、壁の中、いや、島の中で未だに俺たちは一つになれねえのか。
 鍛錬はどうしてるのかとさっき訊けば、室内での基礎訓練だけ秘密裏に行っているだとか。内緒にしてくださいねと念押しされた。いざとなればリーベの自衛に頼るしかねえのに置かれている環境を思うとやりきれなくなる。特務隊長を飼い殺しとはな。役職を与えたかと思えば名ばかりのお飾りに仕立てやがって。最近じゃ書類業務からも外されたと話に聞いた。調査兵団から回って来る書類にミスが増えたと部下たちがぼやいていた件と無関係とは思えねえから俺も頭が痛え。

「正直、この子を育てることを反対されると思ってましたけれどすんなり許されましたね。どうしてかと思って訊けば母性が促されて胎が正常になるかもしれないとか」
「な……」
「子供を産むことだけが今の私の価値だから無理もありませんね」

 クソ。議会での内容を漏らしたのはどこの誰だ。女の身体を何だと思ってやがる。議会の場でも嗜めたが一向に効いてねえ。あの連中に俺が言って聞かせるのは無理なのか。

「ヒストリアに何かあった時の保険にしたい気持ちはわかりますよ。私に代わりが出来るわけないのに……いえ、私の能力ではなく身体を求めているだけですよね。私自身と、私の血を引く子供を」
「…………」
「言いなりになるのはどうかとも思いますが……言いなりになることしか出来ないですよ。勲章授与式の時にあの人が『お前は何だって出来る』って言ってくれましたけど、私にそんなこと……ケニーもサシャも、似たようなことを言ってました。一体何を根拠に『出来る』とか言えるのか……」

 愚痴くらい聞いてやろうと耳を傾けていたが、その言葉に引っかかった。
 俺はそいつらがどんなヤツかろくに知らねえが、連中がリーベに感じる『何か』にはピンと来た。

「いや、俺にもわかるぞ。お前は『出来る』って」
「……どういうことですか」
「決断力と行動力、どっちも振り切れてスイッチが入ればお前はやっちまうじゃねえか。兵士になった時もそうだし、調査兵団飛び出して憲兵団へ転属した時もそうだ。何かガツンとしたきっかけがあるかないかだけだよ。指針さえ定まったら、お前はそこへ向かって突き進む人間だからな」
「きっかけ……指針……」

 小さく言葉を繰り返してから、リーベが首を振る。

「仮に、そうだとしたら……私が意思を貫くと、ただでさえまとまってないこの島が何分裂もしてその間に海の向こうからの攻撃に全員死ぬ未来しかなくなりそうですね」

 大義のために人一人を蔑ろにすることは今に始まったことじゃねえ。俺にできることは、何もない。苦笑するリーベの顔は見られたもんじゃねえのに、俺には何も出来ねえんだ。

「上層部の方たちを責めてるわけじゃありませんよ。だって、仕方のないことです。どうしようもないことで……ごめんなさい、こんなこと口にすべきじゃないのに。ナイルさんにはつい甘えてしまって」
「どうしようもなくない。仕方なくないことなんだから、言いたいならいくらでも言え。気休めでも言葉にしてぶつけたら少しは気が晴れるだろ。俺の方は気にするな」
「……ありがとうございます」

 そこでニケが声を上げる。うあう、と短く話してから口を開けていた。

「おう、どうした」

 通じないとわかっていても声をかけたくなるのは何でだろうな。赤ん坊ってのは不思議だ。
 捨てられていたならどれだけ弱っているかと思ったが、俺が見る限りニケは肌色も良く健康だった。赤ん坊ならではのむちむちとした肌につい触れたくなる。

「こうすると、この子よく笑うんですよ」

 そう言ってリーベはニケの足裏を指の腹で軽く押す。そのまま踵からつま先の方へと動かした。楽しげに声を上げるニケの声に俺も破顔するしかなかった。

「もう子育てには慣れたか」
「いえ、全然。この子、ちっとも泣かなくて困ってます。普通ならお腹が空いたり、おむつが濡れたりしたら不快になって泣くものですよね」
「手が掛からなくて良いじゃねえか」
「たくさん泣いた方が肺が強くなるし、運動になるんですよ。泣かなさすぎるのもどうかと思います。感覚が鈍いのかな……何かの病気でなければ良いんですけれど」
「医療班が『問題なし』って言ってるなら大丈夫だろ。泣きたくなったら泣くだろうよ。俺の娘なんか好きな毛布とか大事なもんから離された時とか大泣きして困ったもんだ」

 リーベの腕の中で、ニケのよだれが相変わらずすげえ。リーベがそれをまた丁寧に拭う。
 懐かしいな。娘たちにもこんな頃があった。それからあっという間に大きくなっちまった。もっと色んなことをしてやれば良かったと今になって思う。

「前から不思議だったんです。赤ちゃんの瞳はどうしてこんなに綺麗で澄んでいるのか。――ずーっと、見ていたくなる」

 柔らかい表情で顔を寄せたリーベに、ニケが無邪気に手を伸ばす。その指先をリーベがそっと握った。

「ナイルさん」
「何だ」
「この子に何かあった時は、助けてあげてくれませんか」

 思わずリーベの顔を見る。リーベは相変わらずニケを見つめていた。その眼差しに込められたものの深さに息を呑む。生半可な返事は出来ないと思った。

「……お前には調査兵団の盾もゲデヒトニスの庇護もある。王家の力を借りることも出来るだろ」

 憲兵団師団長の役職とはいえ、俺に出来ることは限度がある。
 こうして馬車の外の護衛と俺自身が付き添うことで外へ連れ出すだけで精一杯だ。

「私の身の上は偉い人の言いなりになるだけです。ニケの面倒を見られるのも、この子が歩けるようになるまでの期限付きですし」

 この子には幸せに生きて欲しいんです、とリーベが続けた。

「――ナイルさん、私のお父さんみたいなものじゃないですか。ファルケの苗字を与えてくれて、私が訓練兵になる時の手続きとか、あの人と結婚するって話になった時も言い立ててくれましたし」
「お前の親父さんが王様だったと思うと恐れ多い話だが、まあ、そうだな。……俺も、お前を娘みたいに思ってるよ」

 気恥ずかしくなるが、ちゃんと言わねえと駄目だと叱咤して言葉にして伝えた。

 リーベ、お前は俺の娘だよ。たとえ血の繋がりがなくたって。
 それならニケは俺の孫だな。
 わかったよ。何かあれば助けるよ、ちゃんと。

「――ありがとうございます、ナイルさん」

 リーベが指の腹でニケの足裏に小さな円を描くように揉むと明るい声が満ちる。やがて、ゆっくりと馬車が止まった。もう調査兵団の兵舎へ着いたらしい。
 降りる準備をするより早く、外から扉が開かれる。そこにいたのはリヴァイだった。

 何でお前がここにいるんだと俺が驚いていたら、リーベもはっと息を呑む。

「どうして……ここに、いるんですか」
「この時間なら入れ違いになるだろうからここで待ってた」
「そうじゃ、なくて……」

 リーベが弱々しく首を振る。

「今日は、海で港完成のお祝いが……みんなが楽しみにしてたから知ってるんですよ、私。美味しいもの、たくさん……海の向こうの知らない料理もたくさん用意されて……見たことのないような飾り付けと、義勇兵の方たちの催しもあるって――」

 え、何だそれ。今日そんなことやってんのか? 俺、知らねえけど? 港の竣工会は来週だろ? あ、わかった。調査兵団の内輪だけでやってるんだな。だったらリーベも入れてやれよ。蔑ろにしてんじゃねえぞ。

 リーベがぎゅっと唇を引き結んだ。それからまた口を開く。

「気を遣ってもらわなくても私は大丈夫ですよ。今はニケがいてくれて、やることもたくさんあって。ほら、見てください。ナイルさんがたくさんこの子の服を――」
「リーベ」

 早口になるリーベを遮るようにリヴァイが名前を呼んだ。

「わかるだろ。俺が、どこにいたいと思うのか」

 そう口にして、リヴァイがリーベの頬へ手を伸ばす。その輪郭を撫でる指先の動きだけでわかっちまった。この男が抱える感情に。滅茶苦茶リーベに惚れてるんだな。こいつが誰かを愛することとか慈しむとか絶対ねえだろと思っていたが、それは誤りだったと思い知らされる。

「あ、あの……」

 リーベが小さく震える。

「夕ご飯、私、何も用意出来てなくて……残り物の、シチューにするつもりで……」
「充分だろ」
「昨日、サシャにたくさん食べてもらったのでお肉もう残ってなくて」
「仕方ねえな」

 リヴァイがニケの足の裏に手を伸ばして、指先で軽く揉む。ニケが笑って両手をばたばた動かした。
 その様子に、沈んでいたリーベの表情がほぐれる。それからリヴァイを見た。

「おかえりなさい、あなた」
「ああ、ただいま」

 リーベがはにかむように笑うと、ニケがぐんにゃりとのけぞるもんだから慌てて腕に力を入れていた。そこでリヴァイがニケを引き取って抱き上げる。

「泣いたか?」
「いいえ、全然」
「クソはしてるか」
「さっきおむつ替えました」
「――元気なら、良いか」
「私もそう思います」

 仲良く寄り添って、ニケを眺める姿に目を奪われるのは何でだろうな。

 俺が思う、人間にとっての最大の不幸は、自分の人生を自分で決められないことだ。
 リーベは今、それを強いられている。
 降嫁できたタイミングはギリギリだった。
 あの時、俺は結婚に反対したが――今となってはこれで良かったと思う。

 唯一、リーベが人間らしくいられる時間と場所があるのなら。

 そうでなければ、他者に生き方を制限される存在は人間と呼べるのか俺にはわからない。

 エルヴィンがいれば、もう少しリーベの存在と立場を上手く活かして、生かしたように思う。なあ、そうだろ?

「ナイルさん」

 馬車を降りたリーベが俺を仰ぐ。

「私は大丈夫ですよ」
「……そうか」

 まあ、先行きは不安だがリーベは大丈夫だろ。

 ニケとリヴァイがいれば。


(2022/01/22)
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