Novel
凶は巡り未来へ続く
「これが……『こめ』ですか」
ヒィズルから持ち込んだ米を炊き上げて、ようやくリーベ様へ振る舞うことが出来ました。
「味は……しませんね……あ、噛み続けると……少し、甘みが……? パンのような役割をヒィズルでは果たすのでしょうか」
いくらかお痩せになったようですが、表情は明るいものでしたので安堵しました。
私は頷き、食事の説明を続けます。
「ええ、その通りです。主食となります」
リーベ様の隣ではサシャさんが出される食事を次から次へと平らげていました。あら、もう箸の使い方を習得されておられる。「ヒィズルの料理は箸を使って食べた方が美味しいですよ」と話してからナイフとフォークを離して持ち替えておられましたが、凄まじい習得速度ですね。
リーベ様はフォークに米を乗せて、ゆっくりと口へ運んで味わい、今度は味噌汁に着手しました。魚介をふんだんに使ったアズマビト自慢の一品です。
「わ、あ……」
戸惑いの声を上げつつ味わう様は微笑ましい。
「おいしいです、とても」
「それは何よりです」
あなたにもヒィズルの血が流れているから馴染むのでしょう、とは口にしないでおくことにしましょう。
「――パラディ島と、ヒィズル。その文化によく似たものはとても多いのですよ。例えばリーベ様のお好きな紅茶と、我が国の緑茶ですが同じ種類の葉ですし」
「ええと……先ほど淹れて頂いたお茶が、ですか?」
「はい」
「……とてもそうとは思えません」
「発酵の度合いが違うのです」
やがて食事が一段落して、まどろむサシャさんを横目に私たちは向かい合いました。
「そういえば、養子に出されたそうですね。先日の、可愛らしい赤ちゃん」
リーベ様が深く慈しんで育てていることは一目でわかりました。肌艶や、衣服を見ればそれだけで。瞳を見なければ、彼女の血を継いだ子だと思ったことでしょう。
「……私の娘ではなく、一時的に預かっていただけなので。彼女を立派に育てられる家へ移しました」
「そうでしたか。まあ、瞳を見ればわかりますもの。あなたの血を継いでいないことは」
「…………」
「リーベ様。私にはあなたの懸念が理解できます。その上で申し上げましょう。――たくさんの養子をお迎えなさい」
ひとりの子供に固執しても視野と行動と選択が狭くなるだけ。
ならば多くの子供がその手元に存在すれば良い。
そして、いつか。
あなたが『愛する心』を取り戻し、ご自分の子を宿すことになったなら。
その子供たちを隠れ蓑にすることもできるでしょう。
「……どうして犠牲になる可能性の高い人数を増やすのですか」
「より多くの人間が犠牲にならないためです」
リーベ様がご自分の掌を眺めます。小さな手。そして武人の手でした。
今でも信じられません。誕生の時より囲われ、守られて育つだけの一族が武力を手に生きていたなど。どうやら彼女の血筋は『殺されるだけの弱き者』ではなかったようです。
現在は兵士としての訓練を禁止されていると聞きましたが、室内でも彼女が鍛えていることは見てわかります。私もヒィズルの武術を修める端くれですもの。
「私に流れる血は、何でしょうか」
「神が一人の人間を愛した証です」
リーベ様が考え込むように顎を引きました。
「『かつてこの世界を統べていた存在』ですね。そして、去った……」
「その通りです」
「……神の愛とはどのような意味と行為を伴うものでしょう」
「我々人間のそれと、神のそれは異なるようで」
神の理屈、神の道理を人間が理解できるはずはない。ましてや今はとうの昔に神の去った時代ですからね。
「神は《預言の巫女》の胎へ娘を贈りました」
「…………どうやってですか?」
「神の力の為せる業でしょう」
「……つまり、ヒィズルの神話では……《預言の巫女》の血筋は……神の血筋でもある……?」
「学者によってその見解は異なります。そもそも神に血はあったのかどうか」
そこで一度喉の渇きを癒し、私は言葉を続けました。
「そして神は《預言の巫女》と娘が死へ至ることを望みました。少しでも早くそうなるよう、殺されることを望みました」
「……あの……意味が、よくわかりません」
「神と《預言の巫女》は同じ世界に存在しながら同じ場所では生きていなかったのです。常世と現世に別れており、死だけがその境界を越えるものとされておりました」
リーベ様は困惑そのものの表情でした。
理解に努めようとされているようですが、神の話を人間の物差しで考えるなど不可能ですのに。
「……神は……自分がこの世界を去るから、愛する者に早く側に来てほしかった……ということでしょうか……?」
そしてリーベ様は続けて問います。
「なぜ神は巫女を愛したのでしょうか?」
「――愛することに、理由は必要でしょうか」
リーベ様が黙り込み、食後の茶を静かに置きました。
「巫女は――神を、愛していたのでしょうか」
「…………」
私が口を開くより先に、サシャさんが跳ね起きました。何か話されているようですがエルディア語ではないようで聞き取れません。彼女の言葉に首を傾げていると、扉が勢いよく破られました。
すぐに部屋の隅に控えていた護衛たちが私たちの盾となりますが、現れたのはコニーさんでした。息を切らしながら声を上げます。
「ニケが、いなくなりました」
一瞬で険しい表情に変わったリーベ様が素早く立ち上がります。
「いなくなったってどういうこと? あの子、まだ歩けないのに――」
そこで言葉を止め、苛立った様子で首を張りました。
「そういうことじゃ、ないよね。誰かが、あの子を連れ去った」
「……そうです」
「状況は? ブラウス厩舎の皆は無事? 子供たちも?」
「ニケだけです……夜の、間に……朝になったらいなくなってたって……」
掠れ声になりながら、コニーさんが続けます。
「リーベさん。誰の仕業か、わかりますか……? それを訊いて来いって言われて、俺……」
そこでリーベ様から一瞥を向けられて、私はその眼差しの意図がわかりました。
「《預言の巫女》の話は、あなた方調査兵団幹部様と、中央の議員様にしかお話しておりません」
「あの子は私の娘ではありません。孤児だったところを一時的に預かっただけです」
議員の方が、或いはその傘下にいる方がニケ様を連れ去ったとして、何をしたいのでしょう。リーベ様とニケ様に血縁関係がない以上、ニケ様を殺したところで叡智を得ることはできませんのに。
「なのに、どうして……ニケと私の血は、繋がっていないのに……」
リーベ様の疑問は尤もです。
「これは推測になりますが、中央の皆様は私の話を理解できなかったのかもしれませんね」
預言の巫女の力はヒィズルの神秘。本来は外へ明らかにするものではないのです。おかげでマーレは彼女らの『使い方』を誤り、挙句にその血統を滅ぼしかけたくらいですから。
或いは、ニケ様がリーベの実子ではないことが『虚偽』である可能性を得たか。私には彼女らの瞳を見れば一目瞭然ですが。
何であれ、浅慮な方々が何をしようとしているのかは容易に想像がつきますとも。
問題は『どこで』それをしようとしているのか。
私と同じことへ考えが至ったのか、リーベ様がすぐさま扉へ向かいます。
「コニー、ヤルケル区の北側にある避暑地とユトピア区の一等地、二手に分かれて捜索を指示して。前に休暇で使ってた話を聞いたことがある。あとはナイルさんにも協力してもらって中央が秘匿してそうな場所を探して」
「了解です」
「私もすぐに行くから」
「いえ、俺たちが行くのでリーベさんはここに……」
「――じっとしていられるわけ、ないでしょ」
行き先を塞がれ、低い声音でリーベ様が訴えました。冷静ではいられないご様子。
お気持ちは推察できますが、危険な目に遭われるのは私としても困ります。
「リーベ様。ここで私と報告を待ちましょう」
「私のせいです。私のせいで、ニケは――」
「きっと無事です。兵士の皆さんを信じましょう」
「私も、兵士です」
「いいえ、あなたは――」
巫女の末裔。
将軍家の所有物。
殺されることで価値を持つ。
その言葉は、どれも彼女が望むものではないのでしょう。見ているだけで彼女の在り方がわかりますから。
育ちとは厄介ですね。
それを矯正することは容易ではない。
「リーベ様。お立場を弁えるべきです」
「……弁え続けた結果が、酷すぎる」
愛馬を殺され毒を盛られ、幽閉され外へ出ることもままならない。構築した夫婦の仲は裂かれ、今は私との外交に利用されている。
あなたにとって、それは当たり前ではないのですね。
あまりにも自由に、あなたはこれまで生きてきたから。
言葉を選ばず申し上げればあなたは将軍家のための『道具』に過ぎないのに。道具に意思は不要で、むしろ邪魔でしかないものですのに。
「世を司る為政者と民のためです」
「彼らがニケを拐っても、それを許さねばならないと?」
「ええ、その通り」
小さな背中が震えて、今にも倒れてしまいそうでした。
それでも彼女は立ち続け、瞳に強い力を宿します。
《預言の巫女》の血を継ぐ者故か――それとも、この島の兵士故の強さなのか。
「すべては私の問題です。あの子は関係ない。巻き込まれることはあってはならない」
「――ひとつ、良い物をお持ちしましょう。少しお待ちくださいね」
この島での滞在用に与えられている賓客用の部屋に一度戻り、書物を一冊選びました。ヒィズルならではのあれこれが綴られたものです。今は新しいものが彼女に必要に違いないと考えたのです。狭い場所で同じことを考えているのでは身体にも悪いものですから。
そう、視野が狭くなれば人間は何をするかわかったものではない。
「リーベ様、お待たせしました」
戻った部屋の中は空でした。
そこに残していた私の護衛は全員が倒れていました。気を失っています。血は少しも見えません。一体どのような戦い方をしたのか見てみたかったものです。
「――仕方のない方ですね」
ですが、こうなることはわかっていたような気がします。
さて、コニーさんへお声掛けして私も参らねば。
その前に、一つ手筈を整えておきましょうか。
まだ間に合うでしょう。これまでの『準備』の甲斐があったというもの。
リーベ様が望むのなら、パラディ島――この小さな壁の中から出られるように。
何もおかしなことではないでしょう?
彼女はヒィズル国に属するべき存在なのですから。
兵士の皆さんが移動するまま同行しましたが、ここはどこなのでしょう。
避暑地を思わせる自然に溢れた土地。周りには何もなくて、立派な屋敷が一つ。
こんな事態でなければ、しばらく静養したくなるような場所。
もうすぐ陽が沈もうとする中で馬車を止め、ハンジさんが目的地を見据える眼差しはとても厳しいものでした。
「すぐに突入する。リーベが先に踏み込んでいるならどんな状況かわからないし」
ここへ至るまでの合流と計画の打合せに時間を取ってしまった我々と異なり、リーベ様の行動が迅速であったのは単独で動かれたからでしょう。
そしてハンジさんは私へ向き直ります。
「キヨミ様はここへ残ってください。あなたにもしものことがあると……」
「いいえ。ご一緒します。リーベ様に何かあっては祖国へ顔向けできません。私には護衛もおりますのでご心配には及びません」
「しかし……」
その時、銃声が轟きました。何発も、連続して。
「リーベさん……!」
ライフル銃を手にしたサシャさんとコニーさんが血相を変えて馬車を飛び出し、屋敷へ突入しました。銃声はまだ鳴り止みません。
「待てお前ら!」
「私たちも行くよ!」
ジャンさんとハンジさんも馬車を離れ、私も数人の護衛と共に後を追うことにしました。
やがて、銃声が止みました。
奇妙なほど静かです。
「リーベ様……」
あなたに死んでもらっては困るのです。とても。
巫女が武力を有することはヒィズルでは御法度ですが――こうなると、今のあなたがそれをこの島で培ったことは果たして幸いなのでしょうか。
二階へ続く階段を登り、先行した四人の背中が見えました。全員が広い廊下に立ち尽くしていました。
なぜ?
不思議に思いながら、私も歩いて近づきました。そして彼らの視線の先を辿りました。
廊下から見えるのは、広間のような空間。調度品からして談話室でしょうか。
その中は夕陽が強く射し込んでおりました。
だから最初はわからなかったのです。
その色のほとんどが、血で埋め尽くされていたこと。
床も、壁も、そして天井も。
むせかえるような血の臭いが押し寄せて、呼吸を躊躇うほどでした。
そんな部屋の真ん中に、リーベ様がひとりで立っていました。
「良かった、ご無事で――」
言葉の続きは声になりませんでした。
リーベ様の周りには血まみれの肉塊がいくつもあり、不気味に動いていました。『それ』が人間だとわかったのは自分でも不思議でした。どれも四肢がなくなっており、両目は潰れ、口からあふれる血の量を見るに舌も切られているのではないかと思うような状態で――
「……………………」
少し前まで確かな人間だったもの。正直、まだ生きていることが信じられない『もの』が血の海の中で散乱していました。
リーベ様も全身が真っ赤で――そのほとんどが返り血のようでした。顔には殴られたような跡もあります。
彼女の衣服は見ていられないほどに破られて乱れており、肌のほとんどが露わになっていました。早く上着をお渡ししなければと思うのに、私の足は動かない。誰の足も、動かない。
「リーベ、さん……」
コニーさんが何があったのか訊ねようとして声にならなかったのは、わかりきっていることだからでしょうか。
このような、リーベ様を人間と思わない連中がすることなど。
リーベ様は、ゆっくりと私たちへ顔を向けます。
その腕の中には、小さな赤い何か。肉の塊。
しかし周りに転がっている肉塊と異なり、それは少しも動きません。
「不思議。まだ乾いていない血はあたたかいのに――こんなに冷たい」
もう二度と、あの小さなぬくもりに触れることはできない。そう話す口調は茫洋としていました。
思わず声を上げかけて、私は堪えました。
誰も、何も言いません。静かな部屋でリーベ様は続けます。
「――ケニーが言ってた通りだった。昔から、今も、そう」
か細い声は、それでも静かな部屋でよく通って聞こえました。ケニーがどなたかは存じませんが、この場に於いて些末なことでしょう。
「やっぱり私は、私を殺そうとする人しか殺せない」
確かに周りの肉塊はまだ生きています。死んではいません。――しかし、『これ』は生きていると呼べるものでしょうか。
「結局、私は自分のことしか考えていなくて、どうしようもないから、こんなことになって……」
「――帰ろう、リーベ。まずはシャワー浴びて、ゆっくり眠ろう」
ハンジさんが武器を納め、ゆっくりとリーベ様へ近づきます。
「ニケは私が預かるよ。大丈夫、うん、大丈夫、だから」
赤い塊が、ハンジさんの腕の中へ移って――両手の空いたリーベ様はふらふらと何歩か後ろへ下がりました。私たちから距離を取るように。
そして、落ちていた拳銃を流れるような動きで手に取ります。
「リーベさん……?」
掠れた声で、ジャンさんが問いました。
「――あの人へ、伝えて」
リーベ様の顔には、疲弊の色だけがありました。
気力も、体力も、すべてが擦り切れたような表情でした。
「『ごめんなさい』、って」
そう口にして、リーベ様は銃口を自分の頭へ当てて――引き金を引きました。
銃声が二回連続で部屋に響き、リーベ様の身体が後ろへ傾きました。
そして彼女は受け身を取ることもなく、ひどい音を立てて床へ倒れて――その頭と、肩から血が流れておりました。
私は、見ていることしか出来ませんでした。
噎せ返るような血の臭いに、混ざる硝煙。
誰も何も言わない時間が過ぎて、
「撃……ちゃっ、た……」
サシャさんのか細い声でようやく理解しました。今し方の銃声が、二回連続で聞こえた理由を。
サシャさんがリーベ様の肩を撃ったのですね。
そうしなければ、リーベ様が死んでいたから。
肩を貫いたサシャさんの弾丸でリーベ様の銃口が逸れ、リーベ様の撃った弾丸は彼女自身の額を掠めただけで済んだ。
紙一重。
本当に紙一重でした。
「わ、私……リーベさん、撃って、う、あ、ああああ……!」
サシャさんが、動かないリーベ様に縋り付きました。
「死なないで、死んじゃやだ! リーベさん、リーベさん!」
完全に気を失っているリーベ様から流れる血によってさらに赤くなった部屋の惨状。全員が立ち尽くしていると、窓の外に影が――外からガラスを蹴破り、影が室内へ着地しました。ここは二階のはずですが。ああ、立体機動装置でしたっけ。
とにかく――リヴァイ兵士長がようやっとお見えになりました。
これだけ到着が遅れたのは、先程二手に分かれたことが原因ですわね。
リヴァイ兵士長は部屋の惨状に顔を険しくして、血の海へ躊躇なく踏み込みます。
「サシャ、離れろ」
ご自身のハンカチやクラバットでリーベさんの傷を順番に止血しながら、ご自分のジャケットで彼女を包みました。
「ハンジ、医療班は古株の連中にだけリーベに付かせろ。中央から派遣されたヤツらには漏らすな。行け」
「っ、わかった!」
「ジャン、コニー。転がってるヤツらを医療班が来るまで死なせるな。右奥のヤツから時計回りに手足の止血だけでいい。布はそこのカーテン使え。サシャは……。……おい、遅えぞアルミン、サシャをここから離れさせろ。後はジャンたちを手伝え」
そこでリヴァイ兵士長の鋭い眼差しが私へ向けられました。
「――私は、この子の埋葬をお手伝いさせて頂きたく存じます」
ハンジさんから引き取った、私の腕の中にある小さな亡骸を見て、彼は口を引き結びました。
頼む、と小さな声を聞いて私は頷きました。
リーベ様。
今回の一件で、よくわかったことでしょう。
あなたにこの島は相応しくないと。
あなたを『石女』呼ばわりする人間ばかりに囲まれていては、生まれるものも生まれません。
これだから閉ざされた未開の地は。
島を牛耳る中央や議員も男ばかりで、女の身体を知らぬ者しかいない。子供を産むこと以外に価値がないとあなたを愚弄する男たち。ヒストリア女王をも傀儡として扱おうとする愚か者どもばかり。
けれど、おかげで良い点もある。
完全に『巫女』を政府中枢へ封じていたマーレに比べれば、容易い。
彼女の真価を、理解していないから。
故にこの島は彼女を殺すことしかできない。
その命だけではなく、心を。
お助けしなければ。
やがてはアズマビト家の救いにもなるだろう。
彼女を失ってはならない。
小さな命を弔いながら、想う。
「あなたの死を無駄にはしませんよ」
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