Novel
お前のすべては神のもの

「子種に問題があるのではないかと意見があった」

 この場にリヴァイがいなくて良かったと思うべきなのか。いや、リヴァイがいないからこの議員たちはそんなふざけたことを言えるのだろう。

「すべては私の身体に原因があります。夫ではありません」

 はっきりとリーベが言葉を返す。そこに感情はなく、冷静だった。

 既婚者でありながら、なぜいつまでも子供を産むことがないのか。原因は、どこにあるのか。

 それが今、この場での争点。

「試してみよう。服を脱いでそこへ横になれ」

 最初に「お前の同席は許すが黙っていろ」と命じられたから口を閉じていたけれど、私はもう限界だった。だから言ってやった。

「医者でもない人間が何を仰る。笑止千万とはこのことですね。我々はヒィズルとの会合がありますので失礼します。――行こう、リーベ」

 服を脱ぎ始めた議員を無視して、リーベの腕を掴んで部屋を出る。

「――毎回ああなの?」
「今日は一段と酷かったですね」
「……どういうこと?」

 絶句していると「医療班の診療中に当たり前みたいに入って来られて……まあ、見られただけですよ」と言われたけれど最悪だと思った。嘘だろ。リーベみたいな子が医者でもない他人の男に裸を見せるとか。

「ちょっと待って。今の話、私に報告来てないんだけど」
「医療班には特務隊長の権限で口止めをお願いしました。ハンジさんの……団長の立場を蔑ろにしてごめんなさい。……今の私にできるのは、皆に迷惑をかけないことくらいなので」

 平気ですよ、とリーベは言っていたけれど、そんなわけない。

「リーベ……」
「あの人には、言わないでくださいね」

 民間人である一方、王家の血を継いでいるリーベ。だから定期的に中央に召集を受けて、現状の報告が強いられている。身体の調子が知りたいなら医療班がまとめた報告書でいいだろうと申し立てたことがあるけれど突き返されて終わりだった。顔を見て、正確に把握する必要があると。医者でもないのに何がわかるんだよ。

「時間も迫ってますし、行きましょうか」

 私は、リーベが受けている苦痛を理解しているつもりだった。でも、本当は何も知らなかった。

 訓練を禁止されているだけじゃなかった。
 仕事を取り上げられただけじゃなかった。
 行動を制限されているだけじゃなかった。

 私は何も、わかっていなかった。




 ナイルに預けていたニケを引き取って、馬車で港の迎賓館へ。リーベは今じゃ滅多に外出が許されない分、外へ出られるタイミングがあるならその時に予定を詰め込まざるを得ないから忙しくなって申し訳ない。

 馬車にしばらく揺られていると、ニケが眠り始めた。起こさないように持ち込んでいた籠の中に入れて寝顔を眺めていると、リーベが探るように私を見る。

「何日寝てないんですか」
「え、私? 寝てるよ?」
「仮眠は睡眠に含まないでください」
「……忘れちゃったな」

 リーベが長く息を吐く。

「表向きには無理だとしても、私、何かさせてもらえませんか」
「ううん、大丈夫。ありがと」

 リーベにやってもらいたいこと、山ほどあるんだよ。モブリット仕込みの書類捌き、どんどん出しちゃって。

 そう言えたら、どれだけ良かったか。

「…………そうですか」

 リーベの静かな声で会話が終わって、それからはニケを起こさないように黙って過ごすうちに目的地へ着く。

「立派な建物ですね」
「この国の『顔』になるから気合入れろって御達しがあったから」

 建設中は一度も見に来られなかったもんね、と言いかけてすぐにやめた。彼女がどんな思いで壁の中で過ごしているか知りながら何もできなかった自分の至らなさに辟易しながら迎賓館一階の控え室に向かう。そこに待機していたコニーにニケを預けた。その頃にはニケも起きていて、機嫌良く笑ったり動く姿に私も頬が緩む。

「ごめんね、コニー。少しの間この子をお願い」
「弟たちの面倒見てたし慣れてるんで大丈夫ですよ。――ん?」

 リーベからニケを渡されるなりコニーが首を傾げる。

「手袋? 冬でもないのに?」
「うん。ほっぺ、引っ掻くようになっちゃって」

 ニケの手には小さな赤い布手袋がしてあった。手袋というか、ミトンだ。さっきから付けたり外したり何でだろうって気になってたんだけどそういうことか。

「こんなサイズ、よく売ってましたね」
「作ってみたの。通気性の良い布にしたけど、嫌そうにしたら取ってあげて。あと長い間付けっぱなしなのも良くないみたいだから適当に外してね」
「さすがリーベさん。服もすげえしっかりしてますね。これも作ったんですか」
「まさか。ナイル師団長のお嬢さんが昔に着ていたものを譲ってもらったの」

 リーベの柔らかい表情を眺めているとほっとする。やっぱり彼女には笑顔でいて欲しい。ニケを育てることになった時には大丈夫なのか心配だったけれど、むしろニケがいてくれて良かったと今となっては思う。

「そういえばニケって全然泣かないんだっけ。それって相変わらず?」
「そうなんですよね……」
「よし、俺泣かせてみます」
「やめてコニー、虐めないで」

 リーベがニケを取り返そうとすると、コニーが慌てて「冗談です!」と弁解する。

 そうするうちにタイムリミットになった。これ以上来客を待たせるわけにはいかない。

「リーベ、行こう」
「はい」

 リーベは明るく声を上げているニケのこめかみに軽くキスを落として、来客の待つ応接室へ向かう。

「すごい……これが、港……」

 二階に上がって、通路を歩きながら窓の外を眺めるリーベの目はきらきらしていて、眩しかった。
 もっと色々なものを見せてあげたい。島に広がりつつある新しい料理を食べさせてあげたい。他の皆と同じように、これまで知らなかった新しい文化に触れて欲しい。どうしてそれが出来ないんだろう。リーベには許されないんだろう。――私に力がないからだ。ナイルと束になっても、議員と憲兵上層部に勝てない。連中の言い分はわかるよ。リーベに何かあったら困るって。

 でもそれはリーベの心身の犠牲を当たり前に強いるものだ。

 それを到底受け入れられない私は、間違っているとは思わない。だが、結局連中に従っている。リーベから自由を奪う在り方を。

 歯噛みしながら応接室の扉をノックしてから開けると、エレン、アルミン、ミカサがキヨミ様とテーブル越しに話していた。キヨミ様の顔はミカサに向いていて、主に彼女と話していることがわかる。
 あとは壁際にキヨミ様の護衛やお付きの人たちが並んで、リヴァイが反対側の壁にもたれて立っていた。私たちを確認するなり壁を離れて、リーベの隣に立つ。
 私とリヴァイでリーベを挟む状態になって、やっとほっとした。私一人じゃこの子を守り切れるか不安だったから。リーベは強いってわかってるけどさ。ニケもいたし、右目だけじゃ死角が多いからとか言い訳して情けないな、私。団長としてどうなんだ。さっきの議員とのやり取りを思い出すと憂鬱だし、リヴァイに話すことを思うと気が重い。

「何があったか後で聞かせろよ」

 私の顔を見て察した様子のリヴァイが唸るように言った。釘を刺すような視線をリーベに向けられて、現実逃避したくなる。この場合、夫婦のどちらに味方すべきなのか。

「お久しぶりです、私を覚えておられますか?」

 いつの間にか立ち上がり、リーベの前までやって来ていたキヨミ様が言った。奇妙な挨拶だと思った。だって、リーベとキヨミ様は初対面に決まっているのに。

 リーベは一度瞬きをしてから、

「……お初にお目にかかります、リーベと申します」

 そう口にして、丁寧にお辞儀する。
 その様子に、キヨミ様は口元へ手を添える。

「――失礼致しました。あまりにも懐かしい方によく似ておられて……考えてみれば別人ですわね、彼女と最後に顔を合わせたのは二十年以上も昔になりますのに……」

 そこでキヨミ様は少し何か考える様子を見せて、リーベを凝視する。その瞳を、じっと。

「いいえ、まさか、そんな……しかし、あなたの瞳……。――リーベ様、あなたのお母様は?」
「母、は……」

 リーベの言葉が途切れる。

 リーベの母親。ウーリ・レイスと婚姻することなく彼と子を成した女性のことは、私もよく知らない。実はエレンの母親と仲が良かったらしいという話を聞いて、世間って狭いねと前に話したことがあるくらいだ。

 そこでエレンが動いて、私の代わりにリーベの隣に並ぶ。

「海の向こうの国にいました」
「エレン」
「はっきりさせた方が良いです、あなたの血統を」
「もう充分わかってるよ」
「父方じゃない。母の方だ」

 彼らのやり取りに、キヨミ様が息を呑む。その表情には歓喜があった。
 そして思わずといった様子でリーベの手を両手で包むように握る。

「やはり、あなたが『彼女』の娘なのですね。瞳を見ればすぐにわかりました。さらに王家の血筋まで継がれているとは……きっとお母上とお父上はすべてを理解しておられた上で愛し合われたのでしょう」
「いや、それは、あの、母は……」
「ああ、なんということでしょう。将軍家だけではなく、いにしえの血統までこの島に息づいていたとは……」

 言い淀むリーベを無視して、というか感極まっている様子のキヨミ様にエレンがさらに問う。

「何ですか、その血統とは」
「リーベさんも将軍家の血筋なのですか?」

 ミカサも立ち上がって、訊ねながらエレンの隣に並ぶ。彼女の問いにキヨミ様は首を振る。

「いいえ、将軍家の血筋とは異なります。将軍家の所有物である巫女の血筋です」

 所有物――その響きに嫌な予感がする。びりっとするくらいに嫌な気配が走って元凶を探すとエレンだった。滅茶苦茶おっかない顔してる。せっかくテーブルと椅子があるんだから座らない?とはとても言い出せない雰囲気だ。

 エレンの様子を介することなくキヨミ様は微笑む。

「いにしえの時代、神に寵愛を受けた女性がいました。彼女は巫女と呼ばれ、神と人間の橋渡しとなる存在となりました」
「……神、とは具体的に何を指しますか?」

 アルミンが訊ねればキヨミ様は「かつて世界を統べていた存在だと我が国の歴史書には記されています。その最後には『やがて我々人間に世界を委ね、神は去った』と」と話した。

 神――いつか聞いたオニャンコポンの話を思い出す。神の存在に関して、いなかったと証明することは出来ない。そんな神の在り方は、国によって大きく異なるということも。

 キヨミ様曰く、ヒィズルに伝わる神話では――神のいた時代、人間はその僕だったという。
 そして神と人間の橋渡しとなる存在に巫女がいた。神の愛した存在が。

「過去の時代について、あなた方の考えは理解しました。そして今ある世界が神の去った後だと定義していることも。――もう神はいないのに、なぜ巫女は未だに存在するのです? 神と人間の橋渡しだったのなら役割は終えているでしょう」
「神が去っても、巫女にあった力は消えなかったためです」

 顎を引き、ゆっくりとキヨミ様が続ける。

「巫女の力とは叡智の源であり、全知です」
「私は何も知りません。世界のことも、本当のことも」

 リーベの言葉にキヨミ様は鷹揚に頷く。

「ええ、ええ、そうでしょう。あなたは何もご存知ない。なぜなら神の去った時代に於いて、全知を手に入れるのは『あなたを殺した者』ですから。我が国では娘を産んだ巫女が将軍の手によって命を散らされることが慣例でした」

 すぐに理解できなかったのは私だけじゃないみたいで、アルミンが困惑しながらも訊ねる。

「巫女と呼ばれる存在を殺すことで、あらゆる知を得られる……そんなことが有り得るのでしょうか?」
「人間が巨人になれる世界です。在り得ない話ではないかと存じます」

 それを言われてしまえばその通りかもしれないけども。

「かつて世界に台頭し、去った神々が残した残滓の一つですよ。巨人も、巫女も」

 残滓。ならば、厳密には神の時代は終わってないという見方もできるな。巨人も、巫女も、この時代に存在している。神の名残が消えて、そこでやっと本当の意味で神の時代が終わることになるんじゃないか。

「――わからないことがあります」

 リーベが声を上げた。切実な響きに、その場にいる全員の視線が集まる。

「これまでの長い、長い年月……何人もの巫女たちを殺したことで、あらゆる叡智を手にした者たちがいるのなら――なぜ、世界は今このような有様なのでしょう?」
「……残念ながら、誰もが私的に力を振るい、私欲に利用した結果としか呼べません」

 つまり、誰かにとっては都合の良い世界が暫定的に構築され続けた結果が今ある世界ということか。巫女はその道具扱いされ続けていたと。

「元来、巫女の血筋は国の安寧への道を知るため将軍の手によって命を散らす経緯もあり細々としたものでした。しかし百五十年前、当時たった一人の巫女が国の友好を結ぶためマーレを往訪後、そのまま奪われる形となりました。取り戻そうにも我々ヒィズルの力は及ばなかった。マーレは巫女が娘を産むまで殺すことなく、細々と血統を紡いでいたようです」
「あの……一つ宜しいでしょうか。先程も『娘』と仰ってましたが、その叡智の力は女性でなければ発揮されないのでしょうか」

 巫女の血筋に娘が産まれるのは神の時代からの理ですよ、とキヨミ様が答えたけれど納得できない。性別なんてそんなもので決まるわけないだろ。

 納得できないけれど話を止めるわけにはいかない。黙っていると、キヨミ様は改めてリーベを見つめる。

「数十年前、私は当代の末裔にお目にかかりましたが、その後に彼女が死へ至ったと聞きました。……しかし、彼女は――あなたのお母様は逃げ延びていたのですね」

 キヨミ様が一筋の涙を流し、ハンカチでそれをそっと拭う。

「現マーレがかつて強大な力を奮ったのも、巫女を殺して得た叡智の力によるものです。巫女を失った彼らの現状が衰退を辿る様を見れば、その力にどれだけ頼っていたか明らかでしょう」

 海の向こうの英雄ヘーロスも巫女の力を頼り、彼女を殺すことで叡智を得てタイバー家と手を組み、巨人大戦を終息させる糸口を掴んだ。そして大偉業を成し遂げたという。

 もしかして私たちが直面しているあらゆる問題が、リーベさえいれば解決するってこと?

 でも、そのためには――

「つまり今ここで誰かが私を殺せば、行き詰まりつつある現状の打開策となる道を知ることができる……ということですね」

 リーベの静かな声に対して、キヨミ様が弾かれたように声を上げる。

「とんでもありません! あなたの命を『使う』など!」

 その言い方に引っ掛かりを覚えた矢先にキヨミ様がリーベの手を両手で握り、ぎゅっと胸元へ引き寄せる。近いな。『何か』あればリーベの初動が制限される。だけどキヨミ様は貴人だし、リーベは兵士だ。止めなくても大丈夫か?
 リーベも同じことを考えたのか、ちらりと周りへ目を配る。ヒィズルの護衛たちが武装している様を見ていた。

 そんな彼女へキヨミ様が訴えるように言葉を続ける。

「あなたはまだお若い。あらゆる可能性が御身にはあるのです。王家の血筋のこともありますし、婚姻という外交の手段もあります。結婚によって国と国を結び、子供を産むことで架け橋への一歩とするのです」

 ちょっと待って、話が大変な方向に向かってないか!?

「か、彼女はすでに結婚を! 夫がいます! そう、既婚者でして!」

 慌てて口を開いて、私はキヨミ様からリーベを離す。どうにか失礼にならないように、乱暴にもならないように努めながらも何とか素早く動けた。
 ヒィズルの護衛の面々が途端に身構えたけれどキヨミ様がそれを制止して、優美に笑う。

「あら、そうでしたか。ご安心ください、ハンジ団長。初婚にこだわる人間は多くありません。ましてや国の長や首脳陣であれば」
「い、いえいえいえ、その! 我々は自由恋愛を掲げておりまして!」
「たとえ王家の血を継ぐ者であっても、リーベさんもヒストリア女王陛下もご自分で婚姻の相手を決める自由があります」

 息切れしかけた私の言葉をアルミンが繋いでくれた。
 そこでキヨミ様は数回瞬きして、

「それは、まあ、随分と――」

 物言いだけなキヨミ様が私たちを眺めてから、再びリーベへ視線を戻す。

「リーベ様。ご結婚されているのでしたら、お子様は?」
「いません」

 リーベが即答する。彼女らしくないほど強い口調だった。初対面のキヨミ様なら気づかないか。
 確かにニケはリーベの子供じゃないもんね。この数ヶ月で彼らの生活風景がすっかり馴染んだからちょっと忘れそうになるけど。

 そうですか、とキヨミ様が落ち込んだ様子を見せながらも切り替えるように頷く。

「失礼致しました、つい……。殿方がおられるのでしたら、お若いですしこれからですわね。王家の血筋のこともありますし……全員が娘になりますが瑣末な問題でしょう」

 まずい。思考が緩慢になって来た。しっかりしろ、私。事実を整理して、確認するんだ。

1、『巫女』とは、将軍家とはまた異なるヒィズル由来の血筋である。
2、ヒィズルでは、巫女は将軍家の所有物とされていた。
3、巫女を殺した時に、その真価は発揮される。殺害者は全知を得られるという。
4、リーベは巫女の血筋。
5、キヨミ様はリーベを殺す気がない。
6、キヨミ様が望むのはリーベの子供。

 わからないなりにわかることがある。
 つまり――殺すために子供を生ませるのか?
 そんなの誰が許すんだよ。そんなこと、させられない。王家の血筋と別の意味で厄介だぞ。犠牲を強いる面では同じでも、ちょっと待ってくれ。
 それに、このことを知った誰か――キヨミ様以外の連中がどう出るかわからない。直接リーベが狙われたら? 彼女の命が危うい。毒を盛られた一件からわかったように、ただでさえ反王政派がいるのに――

「私は、人間ではないのですね」

 淡々としたリーベの声が響く。その声に、キヨミ様が応じる。

「あなたは神のものですよ。神なき現代は将軍のもの」
「……リーベさんは人間だ」

 エレンが言った。

「神だの、どっかの誰かのものじゃない。将軍だろうと何だろうと、誰もリーベさんを殺していい理由にならない」

 険しい表情のエレンに、キヨミ様は鷹揚に微笑む。

「巫女の死は、国と将軍一族の存続のために在るものです。あなた方も生きるために食べるでしょう。あらゆる生は、あらゆる死の上で成立し、維持されているのです」

 それは、つまり――兵士と似ているのだろうか。
 巫女と呼ばれる存在は、私たちが心臓を捧げるように死へ臨むのか。

 リヴァイの顔を見ようとしたら、真横だからかうまく見られなかった。

「あの」

 そこでミカサが声を上げる。

「私は……リーベさんを殺しません」

 そうだ、ミカサは将軍家の末裔。
 ヒィズルでは巫女を所有するという立場。

 だけど、そうだよね、ミカサはリーベを殺したりなんか――

「よく考えて、ミカサ」

 リーベが軽く数歩動いてエレンの隣に立つ。成長期のエレンはまた背が伸びたから、リーベが余計に小さく見える。その身長差を活かすように、リーベがエレンの顎下に――どこからともなく取り出した拳銃の銃口を素早く当てた。

「これでも私を殺せない?」
「っ……!」

 ミカサの顔つきが一気に険しくなる。

「リーベさん!? 何を……! お、落ち着いてください!」

 アルミンの説得もどこ吹く風で、リーベは銃を持つ手を緩めない。自身の護身用に武器の携帯が許されているからって、何てことを。嘘だろ。
 一方で銃口を突きつけられているエレンはじっとしていた。落ち着いた様子で、ただ真っ直ぐにミカサを見ていた。何かを見通そうとするみたいに。

 ミカサは今にもリーベに飛び掛からんばかりで、まさに一触即発だ。

 いやいやいや。
 ちょっと待ってよ。
 みんな、何やってんの?
 今それどころじゃないよね?

「お前ら、落ち着け」

 そこで間に立ったリヴァイの一声で、まずリーベが銃を下ろした。「ごめんね」と一言エレンへ謝ってから、

「ミカサは、一定条件下なら私だろうと誰だろうと手に掛ける相手を問わないよね」

 そして全員から距離を取った位置で、リーベはキヨミ様を見る。この騒動の最中、彼女は護衛の男たちに周囲を守られていた。

「キヨミ様。今の私は子供が望めない身体ですので、残念ですが――」
「何ですって!?」

 ちっとも残念じゃなさそうにリーベが言えば、キヨミ様が悲鳴に近い声を上げた。目を見開いて、護衛を蹴散らしリーベへ詰め寄る。

「『子供が望めない』? そ、そんな……!」

 絶句してから、はっとしたように息を呑む。

「リーベ様、以前はいかがでした? お身体の調子は? 一度でも、子供を産める状態だったことは?」

 それらの質問に一度眉を寄せてからリーベは口を開く。

「……そうですね。以前は……規則的に、毎月、問題ないものだったので……」

 繊細に扱って欲しい案件だけど、キヨミ様は止まらない。小さく何度も頷いて、

「ならば、現状に関して一つの答えを提示できます。今、子供を授かれる身体でない理由は――あなたから『愛する心』が失われているからではないでしょうか」
「は?」

 声を上げたのはエレンだった。そんか失礼な態度を咎めずにキヨミ様が続ける。

「『愛する心』は巫女が子供を宿すには不可欠のものでして」

 何だよ、それ。どうなってるんだよ、巫女とやらは。娘しか産めないことといい、まるで私たち――エルディア人の特性が『ユミルの呪い』と呼ばれるように、巫女の呪いなのか?

「神からの呪いであり、悪魔からの祝いであると我が国にはいにしえの時代より伝わっております」

 顔に出てしまったのか、キヨミ様が教えてくれた。神話だろうか。普通は逆じゃないか? 神が祝って悪魔が呪いそうなものなのに。
 神のいた時代に、何があったんだ?

「リーベ様。あなた方夫婦の間に愛はあるのですか。もしもそうでなければ、その結婚は世界にとっても不幸なものです」

 リーベの結婚相手を知らないヒィズルの面々を除いた全員の視線が、リヴァイとリーベに集まる。

 仲良しに見えるけどなあ。喧嘩もたまにはしてるけど痴話喧嘩だし、むしろ仲がいい証拠というか。

 リーベは考え込んでいる様子だったけれど、やがてゆっくり口を開いた。

「正直、夫と……過ごす時間が……最も安らげるものなので……キヨミ様のお話が私には納得できないところではあります」

 あ、なんかすごく申し訳ない。
 さっきの議員との会合思い出すだけで胸糞悪いし。
 アルミンもばつ悪そうに目を伏せている。わかるよ、義勇兵やら港やらでリーベの件はほったらかしにしてしまった面は否めないし。その間、中央の相手はリーベ本人にさせてしまった。その間、リーベの心とか誇りとか権利を全部無視される時間を過ごさせた。リヴァイも外に出てる時間が最近特に長いから、ニケだけがリーベに寄り添っていたんだ。

「リーベ様のお母様……言葉を選べず恐縮ですが、彼女は……マーレで慰み者のような扱いを受けておりました。何人もの男たちとの関係を強いられながら、しかし彼女が子供を宿すことはなかった。なぜなら彼女は、マーレを蔑んでいたから。しかし、この島へ来て彼女は『愛する心』を得たのです。故に、こうしてリーベ様がお生まれになられた」
「私の、母は……」
「あなたの夫がどこのどなたか存じませんが――」

 キヨミ様は笑った。

「あなたは彼を、愛しておられるのでしょうか?」

 誰も何も言わなかった。言えなかった。

 ここで発言できるのは、たった一人だけだったから。

 そして――沈黙だけがそこにあった。

 しばらくして、遠くから赤ん坊の声がした。ああ、ニケだ。

 これは、泣き声?

「リーベさーん! ニケ、泣きました!」

 コニーの朗らかな声と共に、その腕に抱かれたニケがやって来た。
 リーベの顔がはっきりと強張ったのがわかった。

「まあ、可愛らしい赤ちゃんですこと」

 全然泣かない子だったニケが滅茶苦茶泣いている現状に驚いていると、ゆったりとした声でキヨミ様が近づいてきた。

「お顔を見せて頂けますか」
「…………どうぞ」

 コニーからニケを受け取ったリーベが、迷いながらも一歩キヨミ様へ近づく。泣いていたニケはリーベに抱かれて泣き声が少し弱くなった。リーベに抱っこして欲しかったのかな? いや、今はそれより重要なのは――

「あら。本当にあなたの子ではないのですね」

 安堵したように息を吐くリーベと、憮然とするキヨミ様。

「ですが、リーベ様……私の言いたいことがわかりますね?」
「…………はい」

 そこで時間になった。キヨミ様との会合が終了して、彼女を見送るなりリーベはコニーを呼んでニケを託した。

「すぐに手紙を書くから、ニケをブラウス厩舎へ連れて行って。誰にも見つからないように。ブラウス夫妻にも注意するように指示して。人目のつかない場所でゲデヒトニス家の人を警備に手配するから。あとサシャにも話を――」
「え、あの、ちょっと待ってください!」

 コニーが目を白黒させる。その気持ちはよくわかる。

「どうしたんですかリーベさん、一体何が……何でニケを……」
「――このままだと、ニケが殺される」

 リーベの声が震えていて、泣いているのかと思った。でも、顔を見れば涙はなくて、ただただ蒼白になっていた。この子、どんな巨人を前にした時もこんなに怯えてなかったのに――ああ、そうだ、彼女がいつも一番恐れているのは人間だった。

「巫女の血筋の人間が殺されることを心配してるの? たった今『娘じゃない』ってキヨミ様に認めてもらったじゃないか」

 落ち着いてもらおうと話せば、リーベが険しい顔で私の前に立つ。

「私の瞳を見てください」
「へ? ええと、見てるけど……?」

 大きな瞳は焦燥と不安に揺れていた。

「私の母方の血筋の判別方法はこの瞳にあるそうです。何かわかりますか」
「えーっと……」

 わからない、と私が降参すればアルミンが声を上げる。

「つまり、ニケが『リーベ・ファルケの娘ではない』と判断できる人間が限られているということですね。事情を知っている人間やキヨミ様のように判別方法を持つ人間ならともかく、その他の人間は……」

 ニケをリーベの娘だと思ってしまうわけだ。

 その身を殺せば、何もかもを知ることができる。望む未来への道筋でも、秘匿された過去の真実も、あらゆる全知を得られる――ヒィズルの巫女の力を手に入れられる、と。

 ニケを危険に晒せない、とリーベが声を震わせる。

「これ以上私と繋がりを持ち続けることで、この子に何が起きるかわからない。巻き込むわけにはいかない。この子に何かあったら、私は……」
「落ち着きなよ。考えすぎだ。少なくとも兵団内は安全だし、皆リーベの味方で――」
「わ、私の馬がどうなったか忘れましたか……! ヒストリアと私にも、毒が……! しかもそれは母の血筋に関係ない理由が原因で、一体どこが安全ですか、私が私さえ守れないのに……どうして私、この子を危険に晒して……本当に、愚かでした」

 嗚咽することなくリーベが涙を流していた。

 まずいと思った。限界なんだ、この子は。

 だって、恐らく、いや間違いなく、彼女が一人で抱え込んでいることが多すぎる。

 リヴァイを横目に見れば、相変わらずその表情は見えなかった。

 リーベは頬の涙を手の甲で拭って続ける。

「馬に毒を盛られた時点で気づくべきだった。人間は手段を選ばないことに。私は、道具に過ぎないと。私は――人間じゃない」
「人間だ。リーベさんが誰かに従う理由も必要もない」

 怒ったようなエレンの言葉にリーベが弱々しくうつむいた。

「ねえ、エレン……母様は、どうして強く生きられたんだろう。私には、わからない。私には、できない。だから私は、私を殺して力を得て喜ぶ人たちのために殺されるしかなくて……ご先祖様たちはずっとそれを繰り返して、殺されても結局は誰かにとって都合が良い世界になるだけで、世界はこんな形になって」
「リーベさん」

 そこでエレンがリーベの両肩を強く掴んでその顔を睨むように見た。

「おい、離れろ」

 リヴァイがエレンの手を捻り上げた。そのままリーベから引き離して、自分の元へ寄せる。リーベはされるがままだった。

「リーベ。ニケを手放して、お前は後悔しないんだな?」
「……きっと、そうだと思います」
「――コニー、頼んだ」
「は、はい!」

 強く返事をしたものの、コニーはリーベを見ていた。その眼差しを受けてリーベが前へ出る。

「……元気でね」

 最後にそう口にして、リーベがニケの額へ口づける。

 途端にニケがまた泣き出して、リーベは手を伸ばしかけたけれどその手をすぐに引いた。

「行って、コニー。お願いね」
「……わかりました」

 コニーが部屋を出る。
 徐々に遠くなっていくニケの泣き声が、いつまでも聞こえているようだった。




 こうしてニケはブラウス夫妻が面倒を見てくれることになった。その人柄は以前から知っているけれど、快く引き受けてくれて感謝しかない。

 ニケが調査兵団を去ってしばらくして、私は中央から押し付けられた書類を手にリーベの暮らす兵舎へ足を運んだ。こちらとしては何度も受け取り拒否をしたけれど駄目だった。こんなものを持って行きたくなかったけれど、彼女の人生を左右するものを秘匿することはできない。

「ごめんね、急に来て」
「いえ。お疲れ様です、ハンジさん。お茶を淹れますので少しお待ちください」

 ありがと、と伝えながら不躾にならない程度に部屋を眺める。少し前まで小さな服や子供用品がいくつもあったのに、ニケがいなくなった彼らの住まいは随分こざっぱりしていた。多くの兵士と同様に、いつ自分がいなくなっても簡単に片付けられるみたいに。

「昨日、サシャのお母様からお手紙を頂いて。ニケ、元気みたいですね。カヤも面倒を見てくれているらしくて。……あの子のことはもう何も心配ありませんね。最初からこうすれば良かった」

 そしてリーベはカップをテーブルへ置き、腰を下ろして私の持ってきた書類に目を通す。

「当人の意思関係なく離婚ってできるんですね」
「……ごめん」

 どれだけ中央の議員と憲兵団へ掛け合っても駄目だった。アルミンの知略でも、ナイルの後ろ盾でも、外交に対するリーベの有用性を前にはどうにもならなかった。リーベの権利を侵害していると訴えても、彼女が王家の血を継ぐ以上は一般人と同じ扱いがされないという。

 こんな馬鹿なことがあってたまるか。私はまだ諦めない。いざとなれば――

「だめですよ、ハンジさん」

 私の思考を止めるようにリーベが柔らかい声で言った。

「それに、驚きませんよ。便利でしょう、私の血筋と立場は。私の人生は、私のすべては、私のものではない。ヒストリアは女王の立場があるので安易に『使う』ことはできない。……せめて結婚は彼女の意思を尊重するようにナイルさんへお願いしておきますね」
「どうして」
「え?」
「どうして、何もかもを受け入れて黙ってるんだよ。自由に外へ出られない。立体機動の訓練さえままならない。業務への関与も許されなくなった。愛馬を殺されて、自分にも毒を盛られたのに周りは未だ犯人を見つけられない役立たずばかりで――」
「お疲れのようですね、ハンジさん。最後にきちんと眠ったのはいつですか」
「挙句に中央は君たち夫婦を解体しようと動き始めた。私にはわからないよ、リーベ。君はどうしてこんな横暴まで受け入れられるの? リヴァイがどんな想いで……」

 リーベを王家の縛りから解くために、あいつは結婚へ踏み込んだのに。もちろんそれだけじゃなく、リーベのこと滅茶苦茶好きだったの知ってるけどさ。
 私の問いかけに、リーベは窓の外へ顔を向けた。静かで、穏やかな眼差しだった。

「私は知っているんですよ。私がいなくても、あの人が幸せになれること。どんな場所でも、他者と関係を構築してかけがえのない時間を過ごせること」
「……それは、君がいなくなって良い理由にはならないよ」

 私がそう伝えても、リーベの表情は変わらなかった。

「これからのことは不安ですが……今日明日にどうこうなる話ではないようですし、もう少しあの人と一緒に暮らせることは嬉しいです」
「…………」

 思い出すのは、リーベに向けられたキヨミ様の言葉。

『あなたは彼を、愛しておられるのでしょうか?』

 そんなの、疑いようもないことじゃないか。

 どうしたものか考えながら私はカップへ口をつけた。今までに何度も飲ませてもらったリーベの紅茶。それが最後になると思いもせずに。

「あの人と、ニケと……この部屋で暮らしたこと、一生忘れません」

 リーベは綺麗に笑った。


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