Novel
今そこにある危機
目の前を忙しなく馬車が通り、人々が行き交う雑踏の中、ふいに美味しそうなパンの匂いがした。
思い出すのは、ほんの何ヶ月か前のこと。
『ピークさあああん!』
『パン買ってきました!』
『最近評判のヤツです!』
『人気過ぎて即完売のパンです!』
一緒に食べましょうと誘ってくれて、パンツァー隊のみんなが持ってきてくれたっけ。
確かにあのパンは美味しかった。評判になるのがよくわかった。
そのパンを作った、みんなが噂していた『リーベさん』――コルトが好きになった人を、私も一目見てみたかった。ポッコが未亡人だと話していたけれど何の根拠もなかったし、私は彼女のことを何も知らない。
これからも知ることはないだろう。
エレン・イェーガーに強襲されたレベリオは、一夜にして死体と瓦礫の山になった。彼女のことを一切話さなくなったコルトを見るに、今はそんな状況ではないだけではなく、きっと彼女は死んでしまったに違いないから。
もうあのパンが食べられないのは残念だ。
『英雄エレン求む声多数』が見出しに書かれた新聞を畳むと、
「パンはいかがですか」
澄んだ声だった。突然隣から声をかけられた。
顔を向ければ見知らぬ女性がいた。小柄で、私のように外套のフードを深く被っている。その手にはパンの袋を抱えていた。周囲に漂う香ばしい匂いの原因は彼女らしい。
「……いえ、手持ちがありませんので」
「無料です、差し上げます」
「……なぜ?」
すると彼女は「焼きすぎてしまったので」とはにかむように笑う。あたたかな雰囲気に、心を和ませてくれる人だと思った。
だけど、中身のわからないものを見知らぬ他人から受け取る気にはならない。ましてや体内へ入れるものなんて。
「せっかくですが空腹ではないので」
「――朝から何時間もここにいるのに?」
内心舌打ちする。自分が見られていたことに気づけなかったなんて。目の前を市井の人間が行き交う活発さに、自分へ向けられる視線を疎かにしていた。
曖昧に笑って、私は言葉を探す。頭から爪先まで観察しても、彼女は何も知らない一般的な庶民にしか見えないから誤魔化せるだろう。
「私、あまり食べる方ではないので」
事実だ。『車力の巨人』を継承して以来、一度巨人化すれば何ヶ月もその状態を維持することが多くなったせいか体質が変わった。
私はもう、人間ではないのだから。
そうですか、と彼女は身を引いた。しかし立ち去ることはしなかった。
追い払うのもおかしくて、私が立ち去るのも得策ではないように思えた。結局、私は彼女と並んで座ったまま会話する。
警戒を続けていたが、私たちの間にあったのは取るに足りない、つまらないやり取りだった。
例えば好きなパンの種類だとか、美味しいトウモロコシの食べ方とか、神話で伝えられる神様の愚かしさとか。
あとは私が持っている新聞に書かれた世界のこと、政治のこと――中身のない、こんな世界の端っこで話していても仕方のないことばかり。
それでも、いつまでも聞いていたくなるような澄んだ声は胸に沁みるようで心地良かった。
やがて彼女が腰を上げた。
「――では、さよなら。これからの時間帯は冷えますので気をつけて」
「ありがとう、あなたも」
別れてから、気付く。彼女の名前を聞いていなかったと。
だけど、些末なことだ。
もう二度と、彼女と会うことはないに違いないから。
(2021/10/23)