Novel
あの日、雨は降っていなかった
給仕係が私とリーベさんの前へカップを置き、一礼をしてから部屋を出た。
「…………」
「…………」
二人きりになってからも沈黙は続く。
窓の外はまだ昼前なのに曇り空のせいで暗かった。
扉の向こうから聞こえる足音が離れてから、外の景色を眺めていたリーベさんが口を開く。
「みんな、もう海に着いたかな」
エレンのお父さんの手記にあった、海の向こうの真実――マーレは遠からずやって来るだろうと踏んで待機している仲間たち。
調査兵の多くがそこへ詰めているけれど、私はもう調査兵じゃない。兵士ですらないからここにいる。
今は女王で、この孤児院の院長。
降嫁したリーベさんは元通りの兵士だけど――
「何だろう、今の私って」
調査兵団特務隊長は、前線への出撃が一切許されていない。
『王家の血を引く人間』が女王の私だけになるのは困るという意図が働いていることは明らかだった。
私の父ロッド・レイスの弟ウーリ・レイスの娘がリーベさんだから、私たちの関係は『従姉妹』になる。血縁関係を意識したことはないし、まだよくわからないけれど、
「私はリーベさんがいてくださって心強いです」
もしも『王家の血を引く人間』が私一人だけだとしたら、きっとまた『クリスタ』になる気がした。
『女の子らしくって、何?』
『そうだね……女の子らしくってのは、この子みたいな女の子のことかな』
フリーダ姉さんから聞いた昔話をふと思い出していると、リーベさんが小さく唸る。
「私、『いる』だけだよ?」
リーベさんの馬が毒殺されて、犯人が捕まらなかった結果リーベさんの囲いはさらに狭まったように見えた。
リーベさんを守るためにリーベさんの自由を奪う在り方。
リーベさんが単身で憲兵団へ乗り込んだ時のことを思い出すに、この人は斥候向きなんだろうなと思う。いつだったか、エルヴィン団長も似たようなことを言っていたっけ。リーベさんは女王の控えに据えるよりも適した場所があるって。今となっては誰もそれを覚えていないのか、なかったことにしてリーベさんを閉じ込めているけれど。
「調べ物だけしてすぐ帰ってくるから、ちょっと海の向こうまで行かせてもらえないかな」
「そんな近所へ買い物へ行くみたいに……」
「今じゃ近所に買い物すらいけないのにね」
私が何も言えなくなると、リーベさんが肩をすくめる。
「出られるなら、少なくとも世界の地理は頭に入れておきたいな。言語に関してはエレンのお父さんの話を踏まえると同じ言葉が使えるみたいだから良かったよ。――あ、ごめんね。今日は違う話をしに来たのに」
時計を確認したリーベさんが姿勢を正す。私も改めて背筋を伸ばした。
「――ヒストリア。私に訊きたいことがあるよね。いいよ、何でも答えるから」
柔らかな眼差しに、私は躊躇う。もう一度促されてからやっと口を開く。
「……子供を作ることについて、どう考えてますか」
『王家の血を引く人間』が私たちしかいない限り、付いて回る問題。
リーベさんは答えてくれた。
「順番に話すね。まずは現状に関して。――私の身体の問題について」
「身体の問題?」
「実は……」
レイス領の礼拝堂地下で重傷を負って以来、月経がないという。
「医療班の見解では身体がまだ回復途上にあるからだろうって」
「その話、中央には……」
リーベさんは首を横に振る。
「報告したら間違いなく二十四時間監視下に置かれて食べるものから睡眠時間まで管理されるのが関の山だって止められた。最悪、ベッドに拘束されて回復だけに努めさせられるだろうって。向こうは母方の特性を知らないから、もしかしたら脳機能を取られて植物人間にされるかもね。胎さえあれば良いだろうから。植物状態で産めるのか怪しくて調べたけど、クィンタ区の病院で前例があったよ。その人は三年以上植物状態だったのにそんなことになって、強姦事件に該当するから憲兵団で保管されてる事件管理簿に掲載されているし、中央も把握しているだろうね」
中央がその気になれば、王家の人間には人権がなくなるらしい。
私を巨人にしてエレンの巨人を継承させようとする動きをこの前アルミンが阻止してくれたけれど、またそのうち同じような考えを持つ人間が出てくることは想像に難くない。
外の世界の脅威が明らかになった現在もこの島は一枚岩ではないから厄介だ。調査兵団と憲兵団、中央の軋轢だけではなく未だに王家反対派も存在するし、これから私たちはどうなるんだろう。
「子供を持とうと選択することに、意味なんてなければいいのに」
リーベさんの呟きに、ユミルからの手紙を思い出した。もう何度読み返したかわからないから、すべて覚えている。
『どうもこの世界ってのは、ただ肉の塊が騒いだり動き回っているだけで、特に意味はないらしい。そう、何の意味もない。だから世界は素晴らしいと思う』
意味のないことを為す。
誰かのためではなく。
世界のためではなく。
産みたいなら、産む。
産みたくないなら、産まない。
そんな選択が、私とリーベさんに出来るだろうか。
「あ、降ってきちゃった」
リーベさんの声に窓を見れば、ぽつぽつと水滴に濡れ始めていた。これから激しい雨になりそう。
「この調子だと海でも降るだろうね」
案じる表情のリーベさんが、ふと何かを思い出したような顔付きになる。
「あの日も降ってたよね。大変だったんじゃない? 私は昏睡してたから降り始めしか知らないけど。ほら――」
リーベさんが挙げた日のことは、すぐに思い出せた。
生涯忘れることはないだろう。
あの日のことはよく覚えている。
巨人になった父を殺した日。
そして私が女王を名乗った日。
あの日は――
「雨、降ってませんでしたよ」
「え?」
リーベさんが私を見る。
「本当?」
「はい」
私がはっきり頷けば、リーベさんはまた窓の外を見た。
「………………そう」
リーベさんが考え込みながらカップへ口をつける。
私も喉が渇いたから紅茶を飲もうとすれば、そのカップはリーベさんに叩き落とされる。
派手な音を立てて、カップは床で割れた。
「……飲んだ?」
「いえ」
「火傷は?」
「してません」
横へ払うようにされたから、割れたカップも中身も私の隣に散らばっている。
「あの……?」
どうしたんですか、と訊ねる前にリーベさんが床へ倒れた。
「リーベさん!?」
蹲って血を吐き始めたリーベさんに、やっと何が起きたか気づいた。
毒だ!
(2021/05/09)