Novel
比翼の鳥が飛べなくなるまで
交渉のために中央で暮らす議員の邸宅へ足を運んだ時、美しく手入れされた庭園に一羽の鳥が佇んでいた。一目で普通の鳥ではないことがわかる、純白の翼。恐らく議員の所有物なのだろう。
よく逃げないなと思っていたら「風切羽を切ってあるからな」とその議員は笑っていた。
もう飛べないように――自由を奪うために。
そうしないと、空高く、手の届かない場所へ行ってしまうから。
思い出したのは、リーベさんのこと。
努力によって培った能力や実績を積み上げたことで手に入れた権利、そして宝物のように大切にしていたものさえも次々に剥奪されていくリーベさんの姿は、空を飛ぶ鳥が羽をもがれていくようだった。
正直、見ていられなかった。
俺は見ていることしか出来なかったのに。
「はうわあああああおいしいいいいいい! リーベさんのどっしりもっちりパンケーキ! 最高ですううううう!」
「あ、サシャ、まだ苺ソース掛けてないよ」
「このままでも美味しいのであとちょっと食べてから掛けます!」
にぎやかな厨房を通り過ぎて、近くにいたフロックが首を傾げる。
「あの人はどういう素性なんだ? 王家の人間なのに強いし、あんなにも料理が出来るし」
生まれは王家。
育ちは使用人。
その実体は叩き上げの兵士だ。
俺がそう答えるより先に、リーベさんがこっちに気づいた。
「ジャン? 大丈夫?」
「え?」
「顔色が悪いよ。クマもひどいし、寝不足も原因かな? 今日は雷槍訓練はやめた方がいいんじゃない?」
「あー……でももう使用許可取っちまったんで」
管理の観点から武器庫へ戻す手続きもまた面倒な話だった。
指摘された通り二徹目だとどうも頭がスッキリしねえなあと眉間を揉んでたら、
「それなら私が代わりにやろうかな」
リーベさんの言葉で完全に目が覚めた。
「な、それは駄目です! だって――」
「冗談だよ。わかってるから、私は雷槍使用許可が一切ないこと。理由は『危険だから』」
調査兵団への再入団の際にリーベさんへ課せられた中央からの制約。その身に何かあってはならないからという理由で戦うことはもちろん、立体機動装置を装備することさえ許されていない。
リーベさんを守れるのは、リーベさん自身だけなのに。
実戦でいきなり使うような事態にならないことを願うばかりだね、とリーベさんが低く呟いた。
「納得してませんね、リーベさん」
「主観的にはね。でも、客観的にならよくわかる。誰かが今の私の立場なら、私は同じことを強いるよ」
せめて見学させてね、と俺の隣に並ぶ。今から一緒に訓練場まで来るらしい。
「サシャ、それ全部食べて良いから後片付けお願いね」
「了解でーす!」
リーベさんが厨房へ声をかけて、俺たちは歩き出した。
そういやフロックがいたなと思って近くを見たがもういなかった。
だから、周りを気にすることなくリーベさんに話しかけることが出来た。
「……すみません」
「どうしてジャンが謝るの?」
「あなたに、無理を強いていることを」
リーベさんは王家の血筋を引いている。
でも、民間人だ。降嫁して、王家を離れた人間だ。
だけど、俺たちはリーベさんを民間人扱いすることが出来ない。
何もわからなかった頃のように、兵士扱いすることが出来ない。
「これくらいで音を上げてたら今ここにいないよ」
「……違うんじゃないですかね」
「え?」
「あなたの今の苦しみは……これまでの苦しみとは異なる次元のものではないでしょうか」
血統なんて、自力で対処できるもんじゃねえ。生まれなんて、誰にも変えることが出来ないどうしようもないものだ。
王家の血筋に『何か』あれば困る。
ヒストリアも、リーベさんも。
いざとなれば――。
「…………」
そこでリーベさんが感情を誤魔化すように笑う。
「せめて――立体機動の訓練、やりたいな……」
吐息のような呟きは、ほとんど声になっていなかった。
でも、隣にいた俺には聞こえた。
そして俺は何も言葉をかけることが出来なかった。
翌日。早朝四時。
朝の会議資料の最終チェックのために兵舎を出て本部へ向かう。
訓練場へ顔を向けて、人影に気付いた。まだ薄暗い時間から何やってるんだと気になって近付けば、兵長とリーベさんが組み手をしていた。どちらも本気と呼ぶには物足りない、けれど真剣な動きは正確な動作を身体へ刻んでいる風に見えた。
見入っていると、
「おはよう、ジャン。今日はちゃんと眠れた?」
リーベさんの明るい声。
隠れていたつもりだったのに、俺がいることはとっくにバレていた。
「おはようございます。……あの……毎朝、こんな時間から鍛錬を?」
「雨の日以外はね。この時間帯なら人もいないし」
気兼ねなく動けるということか。
それにしても、よくこんな時間から二人とも起きていられるな?
夜は何時に寝てるんだ、この夫婦。
だって、ほら。新婚なら色々あるだろ。つまり、その、変な意味じゃなく、営み的な何というか――
「ジャン」
「おわ!? いえ、何も変なことは考えてないです本当に!」
「あ?」
兵長の低い声に飛び上がって否定すれば、怪訝な顔をされる。
何度も首を振っていると、兵長に信号銃が入った木箱を渡された。
「え? 兵長?」
俺の声に応えることなく、兵長は自分の立体機動装置を手早く装備する。リーベさんの方は少し離れた木の枝に膝裏を引っ掛けて逆さまになって上半身を捻っていた。何をしているんだろうと考えて、立体機動の三次元的な動きを忘れないようにしているんだと気づく。
「リーベ、下りて来い」
兵長の呼びかけにリーベさんは枝から足を外して、そのまま落下する。難なく着地した。
「次は何にしますか?」
立体機動装置の装備を終えた兵長は答えることなく歩いて、そのままリーベさんの真後ろに立つ。近すぎる距離だ。
「あなた?」
リーベさんが怪訝そうに振り向いて首を傾げる。
「両手を挙げろ」
言われた通り、リーベさんは小さく両手を挙げた。
すると兵長は自分の立体機動装置の右手のレバーをリーベさんの右手に、左手のレバーをリーベさんの左手に握らせた。そして後ろからリーベさんを抱きしめた。細い腰を、ぎゅっと。
ん? 俺は何を見せられてるんだ?
「離さない。絶対にだ」
そう話す兵長の顔は俺から見えなくて。リーベさんの顔はよく見えた。戸惑いから驚きに、そして少し泣きそうな表情になる。
「でも、あの……」
「お前に許可されていないのは『立体機動装置を装備した立体機動の訓練』であって、『立体機動装置を装備していない立体機動の訓練』じゃねえだろ」
「どんな理屈ですか」
「いいから」
「あなたが責められるのは、嫌です」
「それがどうした」
「……だめ。できない」
それから兵長が俺を見る。
「ジャン、見張ってろ。誰か来たら音響弾だ」
「――は、はい!」
俺は慌てて信号銃に弾を詰めた。周りを見て、今が『その時』ではないと確認する。
「リーベ」
兵長の呼びかけに、リーベさんはゆっくりと呼吸を整えて――引き締めた顔つきで頭上を仰ぐ。
「……行きます」
そして二人は呼吸を合わせ、同時に地を蹴って――一気に上空へ飛んだ。
立体機動装置の二人乗りは珍しいことじゃない。それでもこのパターンは初めて見た。普通は装備している人間が操作も行って、もう一人はその後ろをしがみ付くだけだ。
それなのに、リーベさんは兵長の装備する立体機動装置を難なく操作している。
木から木へとアンカーの射出、ワイヤーの回収、旋回、回転――すべてが滑らかな動きだった。リーベさんが次にどんな操作を行うのか打ち合わせでもしていたかのように、兵長は全部わかっているみたいに重心移動を行う。
一心同体――そんな言葉が浮かんだ。兵長がその手を離したら、リーベさんは怪我どころじゃ済まないとわかっているのに、そんな不安を一切感じさせない。
何て言うんだったか、こういうの。
すぐに思い出した。
比翼の鳥だ。
飛びながら、二人が何やら会話していた。さすがに俺のいるところにまで聞こえねえけど。
それでも、充分にわかった。
兵長がいれば、リーベさんは大丈夫だって。
リーベさんは外出も禁止されていた。中央からの召集でなければ、たくさんの許可を取らないと兵団敷地内から出られない。王家の血を流すその身に何かあったら大変だから、だとよ。
暮らしているのは兵舎で、働くのは兵団本部、行動範囲は兵団敷地内。生活のすべてをそこで完結することを強いられていた。
もしかしたらヒストリアの方が自由が効くんじゃねえか? 王都と孤児院がある牧場の行き来は活発だ。視察の名目であちこち行ってるし。
まあ、ヒストリアは王家という『縛り』がどうしてもついて回るんだろうが。
「不自由だけど、兵団敷地内も狭いわけじゃないし。仕事があると気にしてる暇もないよ」
それでもまともに外出したのは数ヶ月前の新婚旅行が最後で、次の週末は久しぶりに自分の愛馬で兵長と遠出するんだと話すリーベさんの顔はいつにも増して嬉しそうだった。
そんなやり取りをした、翌日。
リーベさんの馬に毒が盛られた。
連絡を受けて俺が厩舎に向かった時には虫の息だった。他の馬は無事で、リーベさんの馬だけがなぜそんなことに――なんて、考えるまでもないことが頭を過ぎる。
だって、仮に無作為だったとして、こんな偶然は有り得るのか?
有り得ねえだろ。
リーベさんを、外へ出したくない連中の仕業だ。
「リーベ」
必死になって愛馬の名前を呼ぶリーベさんの所へ兵長が来た。その他には、剣。対巨人用の折れやすいブレードじゃない。鍛えられた剣だ。
それを見て、リーベさんの顔から表情が消える。すぐに剣へ手を伸ばした。
「私がやります」
兵長は抗わなかった。剣をリーベさんへ渡す。
一体何をしようとしているのか――介錯だとわかった。だって、こんなに苦しんでいるなら楽にしてやらないと。
愛馬へ刃を押し込むリーベさんの顔を、俺は見ることはできなかった。
馬の血に染まった兵服しか見られなかった。
そして――リーベさんが話していたように遠出することは、ついぞなかった。
最期まで、ずっと。
(2021/04/29)