▼ 融けない氷
「だ、だめ。絶対だめ」
「あ? 何だよキスくらい」
「良くない。日本人は簡単にキスしないんだから」
歳下の、綺麗すぎる顔をした『ロシアの妖精』を私は必死に押し返す。
でも簡単に力負けして、また壁に身体を押し付けられた。さすがアスリート、一見細くて折れそうな腕なのに力が強い。
「それ、昔の時代の話だろ」
「違うよ、ええと、英語で何だっけ……そう、『お国柄』だよ」
「うるせえ」
痺れを切らしたようなドスの利いた声。『妖精』という異名通りの綺麗な容姿とは裏腹に中身はガラの悪いヤンキーだった。今は目つきもおっかない。思い返せば地元の有名人、近所の勇利兄さんも何日か前に派手に蹴り飛ばされていたし。
「挨拶みたいなもんだろ」
「そんな軽い気持ちでしたくないよ、私にとっては、その……と、特別なものなんだから……!」
言い終わる前にぐいっと顔を近づけられて、慌てて首を捻ったら耳へキスが落とされる。思わずひゃっとなった。
ユーリの綺麗な金髪はさらさらで、くすぐったい。
「か、海外ならキスは誰とでもするものかもしれないけど――」
「『誰とでも』はしねえよ」
そう言われるとますますこの状況に訳がわからなくなる。
「ええと、それなら勇利兄さんや優子姉さんにはユーリもキスしないの?」
「するかよ」
そしてまた詰め寄られた。
「いいか?」
綺麗な色の瞳に思わず魅入る。宝石みたい。どきどきが、止まらない。
「そ、そんなにキスしたいの? ユーリなら、させてくれる人いっぱいいると思うけど……」
私はフィギュアスケートやその界隈の事情に詳しくない。近所の優子姉さんや勇利兄さんが昔から習っていたから、大会やシステムの、ほんの少しくらいしか。それでも目の前にいるのが世界に君臨するスケーターの一人だということは知ってる。つまり世界中にファンがいて、大人気なことも。
するとユーリは苛立ったような目付きになって、
「オレはお前としたい」
一体何がどうしてそんなことを思ってるんだろう。私にはわからない。五年ぶりに勇利兄さんが長谷津へ帰って来たと思ったらリビング・レジェンドと呼ばれるヴィクトルさんや目の前のユーリが立て続けにやって来て、私はと言うと平凡な女子高生で『ゆーとぴあかつき』の臨時アルバイトで名物のカツ丼を運んだだけの縁なのに。
「私は心に決めた人としかキスしないって決めてるの。大和撫子として唇を簡単に許すものじゃないんだよ」
「じゃあ心に決めろよ」
「と、歳下はちょっと……」
何年経ってもどうしようもないことを持ち出して威厳を出そうとするとユーリは馬鹿にしたように鼻を鳴らして、
「それがどうした。オレはお前よりしっかりしてるし将来も考えてる。何が問題なんだよ。言ってみろ」
「う……」
ぐさっと胸に刺さる。
確かに私はしっかりしてないしまだ将来のこととかちゃんと考えてないけど。
痛いところを突かれて落ち込んでいたら、
「ったく、仕方ねえな」
また綺麗な顔が近づいて、思わず目を閉じた。
もう覚悟するしかない。覚悟出来なくても待つしかない。
すると――ふわっと柔らかい感触が頬をかすめた。
え?
「これで我慢してやる」
やっとユーリが私から離れた。
「ど、どうして……?」
唇じゃなくてもキスされたことは恥ずかしかったけれど、でも、ほっとした。
「お前が心に決めるまで、待ってやるよ」
「ユーリ……」
うっかり私がときめいていると、
「明後日の『温泉 on ICE』終わるまでに決めとけよ」
短い! 待つと言ってくれた割に短いよ!
とりあえず、ロシア語の勉強を始めようかな、と思った。
(2018/03/06)