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▼ 届かぬ閾値

 長い髪を操り襲いかかって来た鬼の首を斬り落とすと同時に夜明けとなった。鬼の出る時間は終わりだ。

「助けてくださりありがとうございました……!」
「うむ! 気をつけて家へ戻るように!」

 幸い、鬼に襲われていた少年に怪我はなかった。彼と別れ、山を下りることにする。
 次の夜に備え休息としたいが、ここから藤の花の家紋の家までは少々遠いらしい。

「仕方がないな! 歩くとしよう!」

 鎹鴉の要に導かれながら山を進む。

 山を一つ越え、二つ越え。

 三つ目の山中を進んでいると、かすかな水音を耳が拾う。ちゃぷちゃぷと不規則な戯れを思わせる音だ。

「む?」

 気になって足を向ければ、やがて美しい泉が見えた。澄んだ水で底まで見通せる。

 まるで絵巻から現れたような眺めを前にして、音の正体を見つけた。

 人間だった。
 襦袢だけを身に纏い、泉に浸かっている。

 知人だった。苗字だ。

 襦袢は水を含んでいるせいで身体の線がよくわかる。肌の色までも――いや、見てはならんな。あまりにも目に毒だ。

「キャアアアァ! ノゾキ! エンバシラ! ノゾキ! イヤアァアアァ!」
「むう!?」

 空から響く鎹鴉の声に、俺は遅ればせながら目を強く閉じることにした。

「こ、こら! 煉獄さんが覗きなんてするわけないでしょ!」

 苗字が自分の鎹鴉を叱り飛ばす。

「すまない! 水音に惹かれて来てみたらこのようなことになってしまった! だが今は強く目を閉じているので安心してくれ!」
「大丈夫ですよ! 私、襦袢を着てるので」

 襦袢は水を含んでいるせいで身体の線が露だった上に、肌の色までもよくわかる状態では何も『大丈夫』ではないな!

 そう口にしかけたのをやめにして、訊ねることにした。

「ところで苗字。君は何をしているんだ、こんな場所で」
「昨夜鬼と戦ったらすっかり汚れてしまって。でも藤の花の家紋の家まで遠いので、ここで清めていました。奥の方から湧いているので、そちらの水は綺麗ですよ。煉獄さんもいかがですか」
「――俺は後で入るとしよう! ありがとう! 俺が見張っているからゆっくりするといい」

 柱の方にそんなことさせられませんよ、と話しながらざぶざぶと泉から上がる音、布で肌を拭き、隊服へ着替える衣擦れ音――

 背中越しに聞きながら、俺は呼吸を意識して息を吐く。

「苗字。たとえ夜でなくとも隙を見せるのは感心しない。付け入れられるかもしれないからな」
「刀は近くに置いてますよ。とはいえ日光に強い鬼なんているでしょうか」
「鬼に限った話ではないんだ。君は女性だ」
「…………なるほど」

 濡れた髪をなびかせ、隊服に着替えた苗字が隣へやって来た。

「煉獄さんは、付け入ってくれませんか?」
「…………」
「――あ、ごめんなさい、えっと、私、変なこと言いましたね! では! 失礼します! ごゆっくり! あ、これカステラです! 昨日買ったんです、少しですが美味しいので是非!」

 言い終えると同時に苗字が走り去る。以前より速くなった。弛まず鍛錬しているのだろう。感心感心。

 泉で手を洗い、渡されたカステラを手に取る。うまい、と声に出た。包みにあった数切れはすぐに腹に入った。
 包みを畳みながら苗字の言葉を思い出す。

『煉獄さんは、付け入ってくれませんか?』

 そのようなこと、するものか。

 だが、答えを出すまで時間がかかってしまった。考えるまでもないことだったのにだ。

 どうも先程見た襦袢姿が記憶から消えないことも相まって、己の不甲斐なさに拍車がかかるようだった。

 鍛錬あるのみだな、と泉で喉を潤していると風が吹き抜けた。季節が移ろう中で、最近はぐっと冷えるようになった。

 ふと、苗字が濡れた髪のまま走り去ったことを思い出す。

『風邪を引かないように』と後で手紙を書こう。


(2021/09/26)


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