▼ 早くあなたと
「うまい!」
何を食べても「うまい!」だから作り甲斐があるのだかないのだか。
昼餉のおかわりはこれで七度目だと数えながら、わたしは米をよそったお茶碗を杏寿郎さんへ渡した。
杏寿郎さんはわたしより三つ歳上の殿方で、わたしは彼の許嫁だ。それは十年以上前から決まっていることだった。
まだ婚礼前だけれど、今の煉獄家には女手が足りないとのことで先月から生活を共にしている。婚礼の儀は来年の予定だ。
あなたのお父様がよく許されましたね、と胡蝶様には驚かれた。その父が杏寿郎さんを高く買っているので、そもそもの提案者は父だったことを話す他ない。杏寿郎さんの母上様が亡くなったのは何年も前で、それでも煉獄家の生活が回っているとはいえ少しでも女手があることは助けになるだろうと。
わたしも嫌ではなかった。父の選んだ殿方なら間違いはないだろうと信じていたから。
分別が付く以前から嫁ぐことが決まっていたならば「そういうもの」として受け入れる他ないとも考えていた。
ところで、現在煉獄家でわたしが与えられている部屋は個室だ。
衣食の生活のお手伝いはしているものの、杏寿郎さんの振る舞いもこれまで通り許嫁として接されていたものと変わらない。
杏寿郎さんはそういった一線はきっちりと守る殿方だった。
強くて、清廉。そしてよく食べる。
少し遅めの昼餉も、たくさん用意したのに見事に完食された。
「馳走になった! では、鍛錬へ戻る!」
「お待ちになって」
腰を上げようとした杏寿郎さんの腕を両手でぐうっと引っ張る。非力なわたしがそうしたところで何の障害にもならないのに、杏寿郎さんは止まってくださった。
「どうした?」
「しばしお休みになってください。食べてすぐ動くことは身体に毒です」
わたしの言葉に杏寿郎さんが首を傾げる。
「しかし食べてすぐに鬼と戦うこともある。その際の鍛錬になる」
「――では、今日は食べて少し間を置いてから鬼と戦う場合の鍛錬にしてください」
大きな力強い瞳を数回瞬きさせて、杏寿郎さんは「なるほど!」と納得してくださった。
そこでわたしはもう一度、杏寿郎さんの腕を引く。やはり彼は抗うことなく横になり、座るわたしの腿へ頭を預ける体勢になってくださった。
「食べてすぐ横になると牛になると聞くが」
「短い時間ならば良いのです」
「よもや! そうなのか!」
大人しく横になる杏寿郎さんを前にして、たまらない気持ちになる。
ほむらの色をした髪にそっと指先を絡ませて、わたしはそのままゆったりと彼の頭を撫でた。
あと少し。あと少しだけ。
この人と、同じ時を過ごしたい。
「思い出したぞ」
「何をでしょう」
「昔、母上に同じことをしていただいた」
「そうでしたか」
どのような方だったのか、わたしは知らない。
でも、こんなに強くて優しい杏寿郎さんの母上様なら素敵な方だったのだろう。
「お優しい母上様だったのですね」
「あたたかな方だった」
そろそろ引き留めることは限界だろうと感じて、「鍛錬へ行ってらっしゃいませ」と声をかける。
杏寿郎さんはすぐに起き上がった。
そして、次の瞬間。
わたしの視界がぐるりと回った。
今度はわたしが杏寿郎さんの腿に頭を乗せる体勢になっていたからだ。
「杏寿郎さん!? あの、なぜ……!」
「名前も休め。働き詰めは良くない。昨夜も遅くまで繕い物をしていただろう。部屋から漏れた灯りが見えたぞ」
「そ、そんな……。あの、食べてすぐ横になると牛になるので……!」
「短い時間ならば良いのだろう?」
う、と言葉に詰まってしまう。
確かにわたしは先程そう言ったけれど。
困っていると、指先まで硬く鍛えられた手がわたしの髪を梳いた。優しい手つきだった。
「父上に何か言われたか」
突然の問いに驚いて杏寿郎さんを見てしまう。
だって、まるで心を見透かされたようで。
あまりにもまっすぐな瞳を前にして、嘘はつけなかった。
「『お前はお目出度い奴だ』と……」
正直に答えてしまう。
「あなたの許嫁であることが否定された心地になってしまいました」
きっと、その言葉にはちゃんと理由があって、原因はわたしなのだと理解している。
だから、
「もしかしたらわたしの存在は……杏寿郎さんにとって迷惑なものではないかと思えて……」
わたしのような女が許嫁であることは許されないと考えた。この家を出なければ、と。
でも、それは悲しくて。寂しくて。
せめて最後に温もりに触れたくて。
視線を逸らしていると、頬に杏寿郎さんの手が添えられる。包み込むようなあたたかさを感じた。
「名前が許嫁で、俺は幸せだ」
「…………」
きっと、わたしでなくても、この人は相手を受け入れる。どんな許嫁でも認めるのだろうと思う。
だけど、それでも――わたしはあなたを心の奥底からお慕いしているので。
その言葉が、嬉しくて。
「婚礼まで、あと一年ですね」
「うむ。楽しみだな!」
早くあなたと夫婦になりたいと思うのです。
(2020/11/15)