▼ I can’t live without you.
「零くん、何これ」
「見ればわかるだろ」
「それは、そうなんだけど……」
私と零くんの間にあるものは婚姻届だった。実物を見るのは初めて。
もうほとんどの箇所が埋められていて、私はそこに書かれてある零くんの名前を指先でなぞる。
名前を書いてくれとペンを渡されたところで、私は口を開く。
「ねえ」
「何だ」
「零くんの仕事、ちゃんと理解できてないけど……ええと、警察学校に行ってたし警察の人だろうなあってことはわかるけど……でも、町のおまわりさんみたいな仕事じゃなくて……危なくて、色んなことを調べたり解決してるんでしょ?」
すると零くんは頷いて、
「その認識で良い」
「だから……そのうち誰かと偽装結婚? みたいなこととか必要だったりするんじゃない?」
参考にしていいのかわからないけれど、前に観たスパイ映画を何となく思い出して、私なりに考えて伝えれば、冷静な声が返ってくる。
「その場合は別に作った戸籍で成立させるから問題ない」
「え、ええと……」
戸籍っていくつも持てるものだっけ? 普通は一人に一つじゃない?
ますます零くんの仕事がわからなくなってきた。
とりあえず、
「私と結婚しても、零くんにメリットがないと思うんだけど……」
「名前はそんなこと気にしなくて良い」
「気にするよ?」
結婚って、双方に得るものがあってこそ成立するんじゃないかな?
独身だから、わからないけれど。
私がペンを置いて黙っていると、ぽつりと声がした。
「名前がいたら――俺は、今よりも、もっと頑張れるから」
その言葉に、私は婚姻届を零くんの前へ戻した。
「じゃあ結婚しない」
すると零くんは何とも形容しがたい顔つきになる。砂糖と塩を間違えたケーキを食べた時みたいな。
珍しい表情だなあと思いながら、私は言った。
「だって零くん、もうたくさん頑張ってるよ。これ以上頑張ったら、倒れて死んじゃうと思う。だから、あんまり頑張らないで欲しい」
そこで時計を見れば、そろそろ家を出る予定の時間になっていた。
「じゃあ、仕事に行くね」
「今日は休日のはずだ」
「休日出勤だよ、繁忙期だから」
身だしなみを整えるのは零くんが来る前に終わっているから、あとはジャケットを羽織って鞄を持つだけ。
「鍵、ここだから。ちゃんと戸締りして今度返してね」
足を痛めないと評判になっているのをネットで見て買った春色のパンプスを履いていると、ぐいっと腕を掴まれる。強い力じゃないけれど、振り払うには躊躇うような力加減だった。
「零くん?」
仰ぎ見た零くんは、何だか迷子になった子供のように見えた。
「俺が、俺に使える時間はない。それでも――名前と一緒にいたいから」
だから、と思い詰めたような声で零くんは続ける。
「名前の人生を、俺にくれ」
「……零くんの人生は、誰のもの?」
「この国の、ものだ」
その言葉に、胸が詰まる。
あらゆるものを捧げて働いて、零くんは生きている。その行いが報われることがあるのか、わからなくて。
報われなくて構わない、と零くんが思っているのだとしたら、それは私にとって苦しくて。
「……仕方ないなあ、もう」
そんな彼が、こんなにも求めるものがあるのなら――
「いいよ。私の人生、丸ごとあげる」
私が持っているものくらい、いくらでも渡したくなった。
「でも、頑張りすぎないでね。それだけ約束して」
「名前がいたら、いくらでも頑張れるけど――わかった」
嬉しそうに、安堵したように、零くんが笑った。
(2019/03/19)