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いずれ夢の向こうへ往く君へ
「リーベさんが起きたああああああああああ!」
俺はあの時、サシャの大声が聞こえたくらい近くにいたんだ。
だが、会いに行くことはしなかった。
近くにいたハンジとナイルが走り出しても、その背中を見ていただけだった。
覚悟がなかったのかもしれない。
自分の選択が招いた結果を前にする、覚悟が。
たとえその選択に悔いがなくても。
十日後、執務室。
紙束の山になっている机で、書類を片付ける。
調査兵団の所属人数が激減しても課せられる業務量は変わらない。いくらやっても終わらねえ。暫定処理として諸々を省いてもこれだ。
やることがあれば余計なことを考えず済むとはいえさすがにどうなんだと思うような状態で、休まずに作業を続けて喉の渇きを感じた時、書類の向こうで控えめに扉を叩く音がした。
紙の山越しに「入れ」と応じれば静かに開いて、部屋に入る軽い足音の後に俺の手元へ紅茶が置かれた。
気が利くヤツがいるもんだと思いながら書類へ目を通したまま礼を言ってカップへ口を付ける。
味わって――思考が止まった。
もう二度と口にすることはないと思っていた味だったからだ。
驚いて顔を向ければ、
「お久しぶりです、兵長。ウォール・マリア奪還作戦お疲れ様でした」
リーベがいた。
全身のベルトは装着していないが兵服姿で、負傷した左足を庇うように松葉杖を突いている。
「リーベ、お前……」
「医務室を抜け出してきちゃいました。同室のサシャには後日ご馳走を作ることで偽装工作に協力してもらってます」
簡単に言ってやがるが、中央と兵団関係者、それに加えてなぜかゲデヒトニス家の護衛という名の監視の包囲網を潜り抜けることが容易だとは思えねえ。
だが、そのことをまるで他愛ない悪戯の内緒話でもするように、リーベがはにかむように笑って話す。
ずっと見たいと思っていた笑い方だった。
もう二度と見られないと思っていた笑顔だった。
そのことを想うと胸が詰まるようで、苦しくなる。
会いたかった。
それでもまだ覚悟が出来ていなかった。
もしもリーベを生き永らえさせたことを詰られた時、俺は――
「これ、凄いですよ。技術班の皆さんがお見舞いにくださった《武装松葉杖》です。色んな仕掛けと装備が――」
「何をしに来た」
心情を隠すために声が苛立っていると自覚していても直せなかった。
「あなたに、会いたくて」
そんな俺に対して、リーベの声は素直で、甘く、柔らかい。
「聞きましたよ、シガンシナ区で巨人化薬の注射を誰に打つのか……その一連のやり取り。あの場で意識のあった全員から、それぞれ教えてもらいました。――あなたは優し過ぎますね」
「……俺は、ただの私情にまみれた人間でしかない」
鮮明な記憶を思い出す。
『リヴァイ、ありがとう』
エルヴィンの声を、あの表情を覚えている。
それでも――
「エルヴィンはああ言っていたが、俺を恨む気持ちが一片もないとは思っていない」
人間の心すべてが同じ感情へ向くことは稀だ。
そんなことはわかっている。
「お前だってそうだろ、リーベ?」
「え」
「『あの時』、死んでおけば良かった――そう思ったことがあるはずだ。俺が応急処置しなけりゃお前は死ねた。この地獄から解放された」
「…………」
「俺が地獄にお前を連れ戻したんだ」
エルヴィンの時とは状況が全く異なっていたことはわかっている。
それでも俺は、リーベに生きることを強いた。
あの時は無我夢中で、生かす以外の選択しか考えられなかった。
こいつは終わりを受け入れていたのに、それを許すことをしなかった。
リーベは何も言わなかった。ただ、松葉杖が倒れないように壁へ立て掛けた。
そして両腕を伸ばして、俺の頭と肩を包む。そのまま緩く抱き締めた。
俺は椅子に座ったままで、自然とリーベの鼓動を聞く形になる。
よく聞こえる。生きている証だ。
全身から力が抜けるのがわかった。
心底安堵するその音とぬくもりに身を委ねていると、やわらかな声が降ってきた。
「そう思われるなら見ていてくださいね、私のこと」
リーベが言った。
「あなたが地獄と呼ぶ場所で、私がどんな風に生きるか――ちゃんと見ていてください」
「……難題言いやがる。お前はすぐに俺の目の届かねえ場所に行くからな。どこまで見てられるか、わかったもんじゃねえ」
「これからは違いますよ。――私はもう、どこへも行きませんから」
「…………」
違うだろ。
どこへも行かないんじゃない。
どこへも行けないんだ。
ゲデヒトニス家の秘匿していたリーベの血筋が明かされ、王家へ加わる裁定が下された結果がそれだ。
今でこそヒストリアは女王として在ることを自ら選択しているが、最初は俺たちが強いたように。
意識を取り戻す前から、目を覚ましてからも――当人へ何の意思を問うこともなく断じられた物事に対して、リーベは拒んでいない。受け入れている。
だが、望んではいないだろう。
リーベ自身がそう口にしたわけではない、俺の勝手な考えだが。
「…………」
ふと、足が悪いのにいつまでも立たせていることが気になった。
名残惜しいがいつまでも抱かれているのもどうかと考えて、リーベの腕を引き寄せて膝の上に座らせる。
途端にリーベは慌てて、
「あ、あの、私、立ってますから……!」
「いいから」
「そこにある椅子、持ってきます」
「動くな」
「あまり長居は……サシャにこれ以上迷惑はかけられません」
「明日あいつに美味いものでも差し入れる」
抵抗を無視して、体重を預けさせる。以前よりも軽くなっていた。
「痩せたな」
「そう、ですか? 感覚的にはすごく身体が重くて……筋力が落ちているからでしょうね」
落ち込んだ声だった。抗うことなく王家へ入る理由には、自分の身体のこともあるんだろうな。もう兵士を続けることは難しいから、とでも思ってそうだ。
「軽過ぎるから、ちゃんと食えよ。お前なら豚になってもいい」
「なりません。そんな風になるまで食べませんから」
ため息をつくリーベの髪を指で梳く。いつまでも触れていたい欲求に駆られた。もう二度とこうすることが出来ない気がしていたから余計にだ。
そのことを自覚して、途端に抑えが効かなくなる。それまで以上に強く身体を抱き寄せて顔を寄せれば身構えられた。
久しぶりだからかと思えば、本気で嫌がられる。
そのことに内心落ち込みながら「どうした」と訊ねれば、リーベが口ごもる。
「口内炎が、出来ているので」
「……痛いのか」
「うつるかもしれませんから――」
それ以上は言わせなかった。唇へ噛みつくように、食らいつく。
吐息も、柔らかさも、温もりも――何もかも、胸が締め付けられる程苦しくなる。
唇を舐めれば軽く口が開けられて、そのまま深く貪ると、リーベがか細い声を上げた。
仕方なく離れれば赤い顔で睨まれる。
「もう……。うつったら、どうするんですか……」
潤んだ瞳から目が離せなくなる。
心臓が鷲掴みにされるような気分だった。
頭の中がぐらりと揺れるのがわかる。
それらを抑えるために目を逸らせば、
「兵長? あの、どうされました?」
不安そうに顔を覗き込まれる。
「いや……お前の、目が……」
「目?」
「……あれだけ寝てたら目が溶けてるんじゃねえかと思ってた」
適当なことを言えば、リーベは何か思い出すような顔つきになる。
「目覚めるまでの間……色んな、長い夢を見ていました」
「夢?」
「母様と、話したり――知らない場所で、知らない人たちしかいなくて……私の作ったパンを美味しいって食べてくれる人たちの夢も見ました」
「何だ、それ」
「不思議な夢ですよね」
笑う顔を見て、思う。
俺の心臓も人生も全部捧げる。
これまで誓ってきた言葉通りに。
だが、リーベの自由は譲らない。
たとえリーベ自身が甘んじるとしても、為政者の傀儡にするつもりはない。
王家の血にしか出来ねえことがあるとしても、だからといって王家の席へ連なる必要はねえだろ。リーベを王家へ縛る理由はろくでもねえものばかりだ。
リーベの扱いにヒストリアからまた殴られるかもな。むしろそれで済むことがおかしいが。
いくら詰られてもいい。
それくらい、俺にとってリーベは――
「…………」
なあ、エルヴィン。
お前なら、何を言うだろうな。
リーベも捧げろと俺に言うだろうか。
いや、言わねえな。
なぜならリーベは俺のものじゃない。
だから俺に教えたんだろ。奪還作戦前夜に、リーベが王家の人間にならない策を。
「その方が、俺の力を引き出すと思ったんだろうが」
「兵長?」
「いや、何でもねえよ」
リーベを王家の籠から出そう。
そうしたら、こいつはまたどこか行っちまうだろうな。
二度と地下街へ現れなくなった、遠い昔のように。
調査兵団を飛び出して中央へ一人乗り込んだ時のように。
今度はどこへ行くんだか。
だが、それでもいい。
いいんだ。
今こいつが話したような夢の向こうのような場所だろうと。
たとえ水平線の先にあるような、海の向こうだろうと。
リーベにはそれが似合ってる。
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