Novel
いつか誰かを愛する朝が来る

 エレンが蓋を開けて、あたしは狭い箱の中から外へ出た。夜だった。月明かりもない。あたしには充分な明るさだから気にならないけれど。

「成功したみたいね」
「ああ」

 あたしたち二人が立っているのは楽園送りになったエルディア人の処刑台。堤防のようなその場所で潮騒に耳を傾けながら、

「はっきり言ってうまくいくとは思わなかったけれど――ねえエレン、どうしてあたしを逃がしてくれるの? あたしは別にエルディア復権派の協力者でも何でもないのに。いつまで経っても子どもを生まない欠陥品だから哀れに思ったの?」
「……俺が思うに、だが――」

 エレンが話し始めた。

「お前の一族が子を成すためは『他者を慈しむ心』が必要なんじゃないか。俺はお前の両親を知っている。とても睦まじい夫婦だった。……最期は無念だったが」
「…………」

 何言ってるのかしら、こいつ。

「確かにあたしは子どもを産むことを強制され続けてきたのに結局誰の子も宿すことはなかった。その理由が『誰も愛していなかったから』? 随分と非現実的で非医学的で非化学的な話ね」
「巨人も本来そのようなものだ。それを巨人化学として研究していても限界がある。――そしてお前のような存在も計り知れるものではない」
「だとしたら、色々な可能性を試してみるべきかもしれないわね」
「それより先にお前は死ぬだろう。――今後お前へ行われる予定になっていたマーレの実験計画資料を見たが、あんなものが実行されたら長くは持たない」

 あたしはエレンの顔を見た。

「……そんなことを考えなくても今ここであたしを殺したら終わりなのに。『力』が手に入るわよ。エルディアの未来のために使おうとは思わない?」
「お前を殺せばその血が絶える。俺の一存でそれは出来ない」
「どうせ遅かれ早かれ絶えるものなのに。……まあ、好きにしたらいいけれど」

 ため息をつけばエレンが船から馬の手綱を引いてきた。港からここまでゆっくり階段を登らせる。
 どうやってこの島まで馬を連れて来たのかと訊けば実験の一環だと押し通して運んだらしい。一体どんな説明をしたのかしら。どうでもいいけれど。

『処刑台』の上をしばらく歩いてからエレンが操るロープで砂丘へ降り立つ。もう海は遮られて見えない。

 身体の一部だけを巨人化させてどうにか馬を下ろしたエレンがあたしの首に何かをかけた。紐を通した小さな磁石だった。

「この方角へ進め。島の中心にフリッツ王の築いた壁があるはずだ」
「巨人って朝になったら活動するんでしょ? あたし、食べられると思うけど」
「食べられないようにすればいい」

 何でもないことのようにエレンが言う。

「壁の中へ入れたら、誰かを愛せ」
「は?」
「誰かと結婚するのもいい。周りの人間を愛するんだ」
「はあ?」

 あたしが眉を顰めてもエレンは表情を変えることなく、

「そうすることが出来ればきっと――世界は、これまでと変わるはずだ」

 エレンが手を伸ばして、あたしの身体は軽々と持ち上げられた。そのまま馬へ乗せられる。

「お前の子が生まれるなら、それはエルディアの希望の一つになる。その点で、お前がマーレの支配下で子を産まなかったことは幸いでもあった。奴らが新しい戦力を得ることはなかったからな」
「別にエルディアがどうなろうと知ったこっちゃないけれど――」
「マーレを憎んでいないのか。お前を虐げ貶め続けた連中を恨んでいないのか」
「許してはいないけれど、憎み続けたり恨み続けるのは疲れたのよ」
「…………」
「でも、あたしをここまで連れて来てくれたあなたへの感謝として壁の中のフリッツ王へ伝令くらいしてあげる」
「頼む」
「……じゃあ、さよなら。エレン・クルーガー。あなたが最後まで務めを果たせますように」

 そしてあたしは彼と別れた。あたしへ宛がわれた男の中で、唯一あたしを抱かなかった男と。




「――それで? どうやってお前は壁の外へ出たんだ? それも馬に乗ってただろ? ここ最近で門が開いたことはねえし、ありえねえよ」
「ええと……よくわからないわ。あたし、酔っ払ってたのかも?」
「なるほどな。道理で顔色が悪い。それで住所は? 名前は?」
「んー、どこだったかしら……まだ酔っ払ってて頭がすっきりしなくて」
「わかるわかる、俺もだ。昨日飲み過ぎちまってよ。――それにしても、たまたま巨人が周りにいなくて良かったな。おかげで門を開けることなく俺が単身リフトでお前さんを引き上げることが出来たわけだし」

 どう見ても怪しいあたしに対して、門番らしい酒臭い男が街へ出してくれた。助かったけれど、どれだけ適当な連中がこの壁の中に生きているのか不安になった。でも、少し街を歩けば心配する必要はない程度の秩序があった。
 他にもわかったことがある。この土地はシガンシナという名前らしい。

 人々がのんびり行き交う広場を見つけて、適当な花壇の端へ腰を下ろした。目の前を通り過ぎる人たちを眺めながら考える。――さて、ここからどうしようかしら。

 三重の壁に囲まれた中心には王都があるらしい。そこではフリッツ王家が生活しているそうだけど、『本物』はもう名前を変えているだろうからこれは影武者に違いない。それでもまずはそこへ行くしかなさそう。
 でも、移動手段がない。馬は壁の外で放ってしまった。

 こうなったら――

「娼婦にでもなって稼ぐしかないわね」

 そうしようと声に出したら、目の前を通り過ぎようとしていた女――あたしと同じ歳くらいの彼女がびっくりしたような顔をして足を止めた。じっとあたしを見て、

「……お金が必要なの?」
「そう、王都へ行くためのお金」
「それで……身体を売るの?」
「ええ、他に出来ることないし」
「嫌じゃないの?」
「仕方ないわよ。生きているあたしに出来ることなんてこれくらいだもの」

 すると彼女は少し考えて、

「じゃあ私が働いているお店でしばらく一緒に働かない?」
「え?」
「給仕よ。お客さんに食事や飲み物を運ぶの」
「……あたしに出来るかしら。そんなの、やったことない」
「出来るわよ。最初は慣れないかもしれないけれど、大丈夫」
「うーん……」
「最近人手が減ったから手伝ってくれると助かるわ」

 少し迷ったけれど、あたしを見る彼女の大きな瞳が気に入った。とても綺麗。

「じゃあ、そうさせて? ええと――」
「私はカルラ」

 彼女が名乗った。

「カルラ? とてもいい名前ね」
「あなたは?」

 訊ねられて、あたしは曖昧に笑うことにした。

「……あんまりいい名前じゃないのよね」




 半月後。カルラとまた会う約束をしてからシガンシナを離れて、無事に王都へ降り立った。

「さて、と」

 簡単に本物のフリッツ王と会えるとは思ってない。偽物とさえ難しいだろうし。とりあえず王の権力に一番近いのが教会だと知って早速足を踏み入れる。広くて、とても静か。信者や司祭の囁くような会話も耳をすませば聞こえそう。

「…………よし」

 荘厳なその場所で、あたしは深呼吸をする。そして――大声で叫ぶことにした。ここがパラディ島だとか、100年近く前に壁が築かれた真相だとか、フリッツ王の思惑とか、とにかく叫んだ。
 何も知らない人なら妄言だと思うだろうし、『真実』を知っている人ならあたしを放っておくはずがない。

 目論み通り、すぐに背後から誰かに口を塞がれて、そこで意識が途切れた。




 目が覚めると、ひどい気分だった。無性にコーヒーが飲みたくなる。でもこの壁の中にないから諦めるしかない。いつだったかカルラへ頼んだ時にきょとんとした顔をされるまで気づかなかったけれど、考えたら当たり前だった。この限られた土地であんなものが作れるはずない。

 ゆっくり身体を起こせば、部屋には不思議な瞳をした男がいた。

「……あなたが本物のフリッツ王ね?」

 一目でわかった。この人が『始祖の巨人』を宿していると。

「この壁の中ではレイスを名乗っている。ウーリ・レイスだ」
「こんにちは、ウーリ。あたしは――」

 自分の出自を明かそうとするより先に、ウーリは呆れたようにため息をついた。

「教会で騒ぎを起こしたことは賢い選択ではなかった。信者の中には君を殺そうとする者が大半だったんだ。何者であろうと関係なく……君の場合は身分を明かしたところで真偽を問うため結局殺されていた可能性が高かっただろうが」
「ええと、あたしが『何』かわかってる? 生きている限り証明は出来ないけれど」
「瞳を見れば私にはわかる」
「あ、そうなの?」

 これといった特徴のない瞳に対して、そんなことは初めて言われた。マーレの連中は昔から拘束、監視することでこの血筋を証明していたし。

「壁の中の秩序を脅かさなければ徒らに命を奪うことはしないが……君の目的は何だ」
「あたしは逃げて来ただけよ。だから匿って。生活を保障して。一日五食おやつ付きでどう?」
「誰もそんな贅沢はしていない。――君が壁の外からここまで来たその手段を聞かせてくれないか」
「ああ、それはね」

 順番に説明する。あの国であたしが置かれていた環境と、これからされようとしていたこと、そしてエレンが考えて実行した作戦について。
 ついでにエレンの伝言を伝えたけれど、特にこれといった反応はもらえなかった。わかっていたとはいえ胸の中で一応エレンへ謝っていると、

「――君が海を越えられたのは協力者がいたからだと理解した。だが、この壁へたどりつくまでにいた巨人を突破した方法は?」

 その疑問にあたしは首を傾げた。

「この世界で、少なくともこの壁の中で一番巨人に詳しいのはあなたよね? どうしてわからないの?」

 巨人の特性についてわかりきっていることをわざわざ説明する気にならなくて、ベッドから降りた。裸足のまま大きな窓からバルコニーへ出てみる。朝日が眩しかった。向こうでは基本的に夜に生活していたし、カルラと働いている時も夜の時間帯が多かったから朝の空気は新鮮だった。

 緩くまとめていた髪を解いて、風に遊ばせる。

 周りの景色を見れば、牧場が広がっていた。本物の王様は王都とはかけ離れた自然の多い場所で暮らしているみたい。

 胸の位置にある手すりに腕を置いてぼんやりしていたら、眼下を歩く影に気づいた。
 背の高い男だった。長いコートに帽子を被って、ポケットへ両手を突っ込んでのんびりした足取りで歩いている。

 なぜか目で追ってしまう。

 少しして、小太りの男が背の高い男の背後へ忍び寄るように現れた。手には短剣。あらあら物騒。それで相手を切りつけようとした矢先、背の高い男の方が素早く動いた。まるで後ろが見えていたみたいに、いつの間にか持っていたナイフの一閃で相手の首を裂いた。

 瞬きする間もなかったその瞬間――胸がざわめいた。

「……ん?」

 何かしら、この感覚。よくわからない。

「……ねえウーリ、あの人は誰?」

 目が離せずにいるとウーリも隣へやって来た。近くもなければ遠くもない距離で、あたしが見ているものを眺める。

「死んでいる人間はわからない」
「生きている人間を知りたいの」
「先ほどの質問に答えるなら教えよう。どうやって巨人に襲撃されず壁までたどりついた?」
「簡単よ、簡単。誰にでも出来るわ」

 説明すればウーリは眉を寄せて、

「……なるほど。簡単なことではないが納得した」
「教えてウーリ、あの人は誰?」
「――ケニーだ。ケニー・アッカーマン」
「アッカーマン? それって『あの』アッカーマン? 強い?」
「自分で確認するといい。強さの基準はそれぞれだ」
「強いわよね、だって今すごかったのよ、首を一気に」

 あたしなりに動きを再現していると、

「《切り裂きケニー》の異名は伊達ではないということだ」
「何それ?」

 話を聞きながら、あたしはもう一度彼を見つめる。ナイフを布で拭きながら今は欠伸をしていた。

「ケニー……」

 小声で名前を呼ぶと、また胸が締め付けられるのがわかった。

 何かしら、この感覚。

 熱くて、もどかしくて、切なくて、狂おしい。

 よくわからない。知らない。初めて感じるものだった。

 戸惑っていると、まるで応えるように声が聞こえた。

『壁の中へ入れたら、誰かを愛せ』
『誰かと結婚するのもいい。周りの人間を愛するんだ』
『そうすることが出来ればきっと――世界は、これまでと変わるはずだ』

 ねえ、エレン。
 これが、そうなのかしら。
 わからないけれど、だとしたら、あたしも誰かを愛することが出来るみたい。
 今まで何とも思わなかったけれど――悪いものじゃないわね。むしろ嬉しい、自分にこんな感情があることが。

 だから、ありがとう。
 あなたがいたから、あたしは今この場所にいる。
 もう、あなたにこの言葉を伝えることは出来ないけれど。

 でも、あなたが言った通りに誰かを愛してみたいと思う。この場所なら、きっとそれが出来る。

『お前の一族が子を成すためは「他者を慈しむ心」が必要なんじゃないか』

 もしかしたら、子どもだって産めるかもしれない。
 だって、あの人のために、子どもを産んでみたいと思うから。
 でも――あの人の子どもなら、誰にも殺されずに生きてほしい。

「どうすればいいかしら……」

 悩んだらすぐに閃いた。名案だった。

「ウーリ。あたし、子どもを産むわ」
「君が望むなら好きにすればいい」
「それでね、あなたの子どもを産もうと思うんだけど、どうかしら?」
「…………」

 ウーリは怪訝な顔をして、あたしを見た。

「もしかして奥さんがいるから困る? 王様なら妾の一人や二人いてもいいと思うけれど」
「私は結婚していないし、するつもりもない。次の継承は兄の子へ託す」
「それなら構わないわよね? あたし、あなたのことも気に入ったし――あなたもあたしを気に入ってくれたら嬉しいんだけど?」

 ウーリは眼下の景色へ視線を移した。その瞳の中に、悠久の時を感じた。この人の中へ受け継がれているものの大きさについて考えていると、

「――君の目から見て、この壁の中で暮らす人々はどうだった」
「え? どう、って……」

 あたしも外へ顔を向ける。空と、牧場と、死体と。

「一部の人間からすべてを判断するほど馬鹿じゃないわよ。善人もいれば悪人もいる。時と場合によってそれさえ入れ替わる。そういう存在が人間だもの。人種の違いなんて関係ないわよね。現にあっちにもこっちにも気に食わない人はいくらでもいたし。あ、『心臓を捧げよ』って壁の外へわざわざ死にに行く人たちは興味深かったわ」

 空を仰げば大きな鳥が飛んでいた。どこから来たのかしら。これからどこへ行くのかしら。そう思わせる『自由』が、彼らにはある。

「自由と解放を求める心が生まれるのは、不自由と閉塞を強いられる屈辱が不可欠の条件よ。だから彼らのようにこの壁から出ようとする人がいる。誰もが籠の中で生きられるわけじゃないのよね。――でも、誰だって籠の外で生きられるわけでもないの。だから、壁を築いたフリッツ王、初代レイス王の思想は間違ってはいない。正しくもないけれど、それでいいの」
「……私は楽園を築きたかったんだ。だが、それは出来なかった」
「そんなことないわ。あたしはこの場所で過ごせて幸せよ。あたしがあたしらしく生きられる。……ここへ来られて良かった、本当に」
「――ありがとう」

 これまでの声とは少し違うように聞こえた。何となく。

「ねえ、子どもの件だけど」

 あたしが話を戻せばウーリは一息ついてから、

「なぜそんな奇妙な提案をするのか理由を聞きたい」
「ええと、一言で説明すると――」

 あたしがケニーに対する想いを伝えても、ウーリは表情を変えなかった。

「……少し、考えさせてくれ。理解が追いつかない」
「いいわよ、時間はあるし――そういえばあと何年残ってるの? あなたの時間次第ではあるけど」

 外を見れば、ケニーがこの屋敷へ向かっているのが見えた。こっちに来るの? それならこうしちゃいられない。早く着替えて、綺麗にしなきゃ。

 そしていつか、あの人のために子どもを産もう。

 これが、あたしの愛情。誰かを慈しむ心。

 駆け出そうと足を踏み出して、一度止まる。あたしらしくない不安が胸を過ぎった。

「……ねえ、ウーリ。もしかしてあたしは間違っているのかしら? 初めての感情だからよくわからないの」

 すると彼は少しだけ目を細めた。初めて垣間見た、人間らしい眼差しだった。

「その感情に正解はない。――だから君は間違ってはいないだろう」
「……ありがと」

 それなら良かった。あたしはほっとして今度こそ足を踏み出す。

 そしてよく晴れた空を仰ぐ。

 誰かを愛することが出来る朝は素晴らしいものだと思った。


【上】(2017/05/13)
【下】(2017/05/21)
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