Novel
喧嘩するほど夫婦は仲が良い【下】

 数日後。

「もっと早く『これ』を思い出すべきだった……」

『これ』――湯着を手に、長く息を吐きながら私は浴室へ向かう。

 湯着とは入浴の際に身につけるもので、袖のないワンピースみたいな白い衣服だ。裾は太ももが露わになるくらい短いし、下着もなくそれ一枚きりなので心許ないけれど、あるとないとでは大違い。布もしっかりしていて、水に透けない優れものだった。兵団では一人で入浴困難な怪我人が使用している。

 兵長に先に入ってもらってから脱衣所で湯着に着替える。当然身体の線は出るけれど、透けないことを重視しているからこれで良い。

「リーベ、さっさと入れ。湯が冷めるぞ」
「すぐ行きます――ってもう身体洗ったんですか」

 早いなあと思いながら中へ入る。浴室には蒸気が充満していて心地良い。光石のおかげで充分な明るさがあって、兵長はもう浴槽に浸かっていた。

 先日の一件以来、ハンジさんやジャンからなぜか入浴剤を多くもらうようになった。今日は湯の肌触りが良くなるという白く濁ったタイプのもの。うっすらと花の香りがして、落ち着く。
 泡がたくさん出る入浴剤もあるとかで、すごい。今度使うのが楽しみだ。

 私も身体をざっと洗い、浴槽に身体を沈める。二人で入っても狭さを感じない。足も伸ばせる。

「ふはあ……」

 じんわりと身体が弛緩して、思わず意味のない声が漏れる。
 いくら夫婦用の兵舎には浴室があるとはいえ、キッチンで沸騰させた熱湯を浴槽までバケツで運んで水で熱さをゆるめるという原始的なものだ。だけど、いっぱいに満たされた湯はまだ結構熱い。これから冷めるだろうけれど、まだしばらくは熱さを楽しめるということだ。

 確かに肌触りが良いなあと入浴剤のとけた湯を腕に滑らせていると、視線を感じる。見れば、兵長が何を言うでもなくじいっと私を見ていた。そんな風に見ないで欲しい。湯着を着ていても落ち着かない。お湯が白くて良かった。

「あの……」
「何だ」
「兵長の髪を洗ってもいいですか」

 確認すれば、好きにしろと浴槽の縁に頭を預けてもらえた。よし、と気合を入れて、まずは予洗い。お湯だけで頭皮と髪を洗っていく。そっと指で髪を梳く。

「――ずっと、こうしたかったんですよね」

 旧本部で過ごした時は、私が洗ってもらったから。

 そう話しながら、今度は兵長の頭を泡だらけにする。爪を立てないように気を付けて、髪だけではなく頭皮を揉むように指へ力を込める。そうしてできるだけ丁寧に全体を洗う。

「かゆいところはありませんか」
「ない」
「のぼせる前に、教えてくださいね」

 この人は基本的に『カラスの行水』の言葉そのままの入浴スタイルだ。お風呂掃除している時間の方が確実に長い。

「…………」
「…………」

 この人との沈黙は苦ではない。

 ずっと、こんな風に穏やかな時間を過ごしていたいと思うくらいに。

 泡を綺麗に洗い流して、ひと段落。
 満足した心地で、それからは浴槽にもたれて目を閉じて全身を包む感覚に身を委ねていると、

「俺に遠慮してどうする」
「……え?」

 目を開ければ、呆れたような眼差しがあった。
 どういうことだろうと瞬いて私が見つめ返していると、

「俺はお前に遠慮しない。お前もそうすればいい。俺は自分がしたいから掃除する。それでいいだろ」
「…………」

 考えてみれば私はどうかしていた。

 楽しいのに。お風呂掃除は。他の掃除と同じように。

 それを、この人から奪おうとしていたなんて。

「――ごめんなさい。掃除のことも、茶葉のことも……視野が狭くなっていたみたいです。何かしていないと、自分を保てなくて」

 レイス領礼拝堂の地下崩壊でぼろぼろになった身体はもう完治した。でも、まだ安静にするようにと言われるばかりで、一向に訓練の許可が降りない。
 この身体はもう戦力として期待されていないことがわかる。
 それなら、なぜ私はここに存在しているのか。

 わかっている。王家の血を継ぐ肉体『だけ』を求められていることは。
 自分の思考、行動――その無意味さに向き合う時間は苦痛だ。

 せめて、何か違うことを考えていたい。身体を動かしていればそんな余計なことは考えずに済む。その一心だった。

 良くないことだと思う。兵士なら、上の指示には従わないと。『待機』が命令なら、それを全うしなければ。

 なのに私はそれができない。

「皆が忙しくて大変なのに……私一人だけ……すごく、遠くにいるみたいで……仕方ないことだと、わかってるのに……わっ!」

 唐突に、湯着の上から身体の線をなぞられる。

「な、何ですか……!」
「余計なこと考えるくらいなら、違うこと考えさせた方がマシだ。あと茶葉のことはもういい」
「え、あの、え!」

 どうしよう。ぞくぞくする。全然嫌じゃなくて、困る。だけど、真面目な話をしている時にこういうのは良くない気がする。でも、流されてしまいたい私もいて、どうしようもない。

 布一枚隔ててこれなら、素肌にされたらどうなってしまうんだろう。

 ここでふと我に帰る。

 今まで兵長と夫婦らしきことは何もしていない。
 私が全快ではないから気を遣ってくれていたのかもしれない。

 だけど、もう私の身体は元気なわけで。

 それならもう何もされないことはないと考えるべきなのかもしれない。

「嫌ならやめる」
「そ、んなことは……ないのです、が……」

 嫌ではない。これは本当。
 ただ、少し怖い。理由はわかってる。未知だから。それだけだ。

 子供の頃の出来事を踏まえても大丈夫だと思える。十二歳の記憶は抑え込める。結びつくことはない。

 ないんだけど――

「あの……」
「何だ」
「こ、こういうことに関して、お話ししておきたいことが……その、話は訓練兵時代に遡るのですが」
「おい、俺はゲデヒトニスでの話しか知らねえぞ」
「訓練兵時代に、それはもう仲睦まじい男女がいて、彼らは恋人同士だったんですけれど」
「ちょっと待て。俺は何の話を聞かされてるんだ」

 その疑問は尤もだけれど、一先ず聞いてもらうことにする。

「ある日ついに一夜を共に過ごしたんですね、彼らは」
「ガキのくせに何にうつつ抜かしてやがる」
「全くその通りですが話が脱線するので続けますね。兵舎を抜け出すことも男女で過ごすことも普通に規則違反ですが、それを甘んじて彼らは受けることにしたわけです。そして朝になって――彼らは別れました」
「………………それで?」
「前日まで仲睦まじかった彼らに一夜で何が起きたのか、傍観者としてはびっくりの案件だったわけですよ。ええと、つまり、あの、好き合ってる人同士でも、夜の、その行為がうまくいかないと関係は終わるんだなって、それで……その……」

 両手で顔を覆うしかない。

「過去を言い訳にせず、ちゃんと、誰かと練習しておけば良かった……」

 自分でも驚くほど弱々しい声になってしまう。舌打ちが聞こえた。

「お前、俺がそれを喜ぶ男だと思ってるのか?」
「……思いませんけれど、色んな気持ちが私の中で混ざっていて、矛盾した気持ちもあるんです」

 ちゃんとできなかったらどうしよう。
 うまくできなかったらどうしよう。
 がっかりされたらどうしよう。

 正直な気持ちを伝えれば、右肩の傷をするりと撫でられた。反射的に身体が跳ねてしまう。

「俺が気になるのはこういった傷跡がもう痛まねえかだけだ。……女型に付けられたんだったか、これは」
「あ、はい……」

 顔が近付いてくる。吐息が肌に触れたかと思うと、ざらりと肩を舐められる。

「ん……う……」

 鏡を見なくてもわかる。自分の顔が赤いことは。

 私は何をすればいいんだろう。されるがままじゃ良くない気がする。
 どうしよう、と思っていたら、頭を軽く後ろへ仰け反らされた。そうかと思うと、深く口づけられる。唇で唇をなぞるような動きに脳がくらくらした。

 むき出しの皮膚と皮膚が触れ合う箇所に、一気に体温が上がるのがわかった。

 そして――

「の、のぼせそう……」

 場所が場所のせいか、気分が悪くなってきた。
 意識が遠ざかる前に浴槽を出され、やっと思いでタオルに包まる。冷えた水を飲まされて、すぐに落ち着くことができた。

「あ、お風呂掃除……」
「俺がやる」

 問答無用だった。ぴしゃりと扉が閉められてしまう。

 今日の学びは浴室で『ああいったこと』はするべきではない、というものだった。




『ずっと、こうしたかったんですよね』

 はにかむように笑うリーベの顔を、ずっと見ていたかった。
 これからも、見続けていたい。

 だから――

「何とかならねえか」

 言葉足らずだとわかっていても、そう言うしかなかった。

「わかっているとも!」

 団長室でハンジが揚々と声を上げる。それまでのどこか疲れたような顔つきが一気に吹き飛んだのは何でだろうな。

「新婚旅行だろ? 二泊三日! 短くて悪いが君のスケジュールならこじ開けるから任せて! どこ行く? 流石に行き先は君の意見も聞きたくて。リーベに聞きたかったけど、あの子は『今それどころじゃないでしょう』とか言って断られそうだしここは内密に進めようじゃないか! 実は私たちでおすすめの場所をピックアップしてあるからまずはそれを見てもらえる?」
「…………」

 何もわかってねえじゃねえか。

 そう思いながらも、話に乗ることにしたのはリーベと外へ出られるからだ。
 ずっと兵舎にいたら気が滅入るに決まってる。

 新婚旅行。今まで考えたこともねえが――

「行ってみるか」


(2023/09/19)
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