彼女の瞳は美しい
-後日談-
『エルミハ区へ第二号店オープン決定!』
チラシを眺めながら、ため息をつく。
「パンを作るしか能がない私が新しい店長だなんて……」
無理だ。絶対に。
看板娘な女の子と店番を交代した後もため息をついていると、憲兵さんが慌ただしくやって来た。
「おい、『一日十食限定季節のパンセット』はまだ残っているかっ?」
薄ら髭のおじさんだ。首にはループタイ。いつだったか、店のすぐ前で女性を抱きしめて注目を浴びまくっていた人だ。何があったのかは知らないけれど当人たちがそれを意に介していなかったので、きっと色々あったのだろう。
「いらっしゃいませ。まだ残っていますよ」
私がそう応じれば、憲兵のおじさんはほっとしたようにそれを買い求めた。
「いつもありがとうございます。――良かったですね、ようやく買えて」
前々から店に通ってくれているこの人は、限定メニューをいつも買い損ねていたのだ。
「ああ、やっと嫁さんに食わせてやれるってもんだ」
何とご結婚されているらしい。相手はあの女性だろうか。さすがにそこまで訊ねることは出来ないけれど気になる。
うずうずしながらも平静を装って私がパン袋を渡せば、憲兵さんの目がそばにあるチラシへ向かった。
「ん? 『エルミハ区へ第二号店オープン決定』?」
「ああ、新しく店を拡げることになりまして……私、そこで店長することになったんですよ……」
私がこの日何度目かのため息をつくと憲兵さんは訝しげな顔をして、
「大出世じゃねえか、何でため息なんかついてやがる」
「荷が重くて……だって、もし閉店なんてことになったら私はどうすればいいのでしょう?」
すると憲兵さんは眉をしかめて口をへの字に曲げた。
「そうやって最初から諦めてたらどんな未来もその通りになっちまうぞ。もっと顔を上げとけ」
その力強い口調に驚いて、
「は、はい……」
私は思わず頷いてしまう。
「大変だろうがな、頑張れよ」
そして憲兵さんはパン袋を腕に抱え、意気揚々と店から離れて行った。
「うーん……未来、かあ……」
どうしよう、全然想像できない。
でも、未来と言えば、
「そうだ。《ウォール・シーナの魔女》に会いに行こうかな……。確か『シーナ・ベーカリー』も店長がその人に未来を見てもらって、それにあやかって付けた名前なんだよね……」
《ウォール・シーナの魔女》とは過去と現在と未来が見えるという有名な占い師だ。
一時期行方をくらましていた彼女だが、今は場所を変えて復活していると噂に聞いていた。ただその居場所が不規則で、誰も辿り着けない路地裏だったりとある酒場の奥だったり地下街の入り口だったりするため、会えるかどうかは運次第らしい。
「でも、勇気が出ないなあ……もし『すぐに閉店してクビになる』とか言われたらと思うと……あああ……」
そんな風に頭を抱えていると、今度は妙齢の女性がやって来た。美しい瞳を持つ人だった。
さっきの兵士のおじさん同様に私はこの人を知っている。なぜなら抱きしめられていた側の女性だからだ。あの時、この人が悲鳴を上げたら即座に助けに行こうと本来ならパン生地をのばすための麺棒を握ったことを覚えている。
それにしても――
『やっと嫁さんに食わせてやれるってもんだ』
あのおじさんのお嫁さんはこの人だろうか。違うだろうか。
「あら、『一日十食限定季節のパンセット』が残っているなんて嬉しいわね。まだ食べたことがないのよ。店員さん、それを下さる?」
「え? でも――」
「私が買ってはいけないかしら?」
「いえいえ! そんなことはありません!」
さっきあなたの旦那様かもしれない方が、あなたのために同じパンセットを買って帰りました――なんてことは言えるはずがなく、そして何一つ訊くことも出来ず、私は彼女に会計を済ませる。
「ありがとう。ここのパン、好きなのよ」
「あ、ありがとうございます! これからもご贔屓に!」
するとなぜか彼女は私の背後に目を眇めた。気になったので私も振り返ってみたが、特に珍しいものは何もない。パンがあるだけだ。
美しい目をしたこの女性は一体何を見ているだろうか。
「――あなたなら店長になっても大丈夫よ。だから、しっかりね」
「え? あ、どうも……」
そして女性は店から離れて行った。遅まきながら、私は首を捻る。
「ん? 私、あの女の人に店長になることを言わなかったのに何で知ってるんだろ?」
そんな疑問はあったものの。
これから頑張ろうと思った一日だった。