Nail
久しぶりの我が家へ帰る道を歩く。立場と職務を考えると仕方ねえとはいえ家族の顔をなかなか見られないのは堪えていた。だから家の前に立つと身体は疲弊していても心が安らいだ。
やっと帰って来た。やっと会える。
その一心で土産を抱え直して俺は声を上げた。
「マリー、帰ったぞ!」
「しーっ、ナイルさん、静かにっ」
途端に部屋の奥から小声で注意された。リーベだ。手には畳んである洗濯物を大量に持っている。
「わ、悪い」
俺も小声で謝れば、リーベが寝室を指差す。どうやらマリーは眠っているらしい。
「なるほどな」
三人目のガキが出来たと判明して少し経った頃だった。一人で買い物をしていたマリーが道端で気分が悪くなった時に介抱して家まで送って来たのがリーベだ。その際に呼んだ医者によると一人目や二人目の時より母胎に負担がかかっているとかで、安静が必要だと診断された。
俺にとって仕事よりもマリーの方が大事だが、おいそれと放り出せない責任がある。人を雇って家のことを任せようと考えた矢先に名乗り出たのがリーベだった。
それ以来こいつはマリーに代わって家仕事の大半をこなしたり遊び盛りのガキ共の面倒を見てくれている。
「ん? そういやガキ共は?」
土産を机に積んで訊ねればリーベは微笑んで、
「たくさん遊んでからお昼を食べて、お腹がいっぱいになったみたいで今はマリーさんと一緒にお昼寝してます。寝る子は育つって言葉が最近よくわかりました。最初会った頃よりも大きくなったし体重も――」
自分が側にいられない分、ガキのことを聞くのは気分がいい。
椅子に腰を下ろせば何も言っていないのに茶が出て来た。俺に気を使う必要はねえのにな。だがせっかくだし飲んでおくか。
ここまで尽くしてもらっているのだからと前にそれなりの給金を払おうとすれば、頑として受け取ってもらえなかった。金銭に困っているわけではなさそうとはいえ、どうしたもんか。そのうちマリーと相談するしかない。
「お前、自分の家のこともやらなきゃならねえのに、よく他人の家の世話までする気になるな」
家事に手慣れた様子を感心しているとリーベは少し考え込んで、
「実は、勉強させて頂きたくて」
「勉強?」
「はい。……私は親を知らないので、子供がどんなものなのか、どんな風に育てるのか知りたくて。私が育った家では赤ん坊や子供もいなかったですし」
意外だった。親を知らないにしては礼儀作法はきっちりしているし、家仕事に慣れていたからだ。
いや、親がいないからこそ身に付けたものなのか? 俺にはわからねえ。とりあえず話の続きを聞くことにする。
「だからいつか、もしも自分が親になった時……その時にどうすればいいかわからないのが不安だったんです」
そういえばこいつはもう結婚しているらしい。歳を訊けばまだ小娘と呼べるくらい若かったが、連れ合いがしていてもおかしくない年頃だった。
相手はどんなヤツだろうな。ろくでなしでなけりゃいいが。まあ、こいつが選んだ男なら間違いはねえだろうと思っているとリーベが頭を下げた。
「なので、ありがとうございます」
「いや、礼を言うのはこっちだろ」
それにしても真面目なヤツだな。俺が男でリーベが女だからかもしれねえが、ガキを育てることなんざガキが出来てからしか考えなかった。
おかげで一人目の時は何もかもてんやわんやだったが、何とかなった。もちろんマリーの奮闘と功績によるところが大きいが、それでも、いや、だからこそ俺はリーベに言ってやることにする。
「誰だって最初から母親や父親じゃねえよ。ガキが出来て、生まれて、育てているうちに『親』になるんじゃねえかと俺は思う」
それに、根拠もなく信じられた。こいつなら大丈夫だと。
「だから、そんな不安になる必要はねえよ。いざとなったら俺が何とかしてやるし、マリーもその頃には元気になってるだろうしな」
実際俺が役立つことなんざないだろうが、俺に出来ることなら何だってやってやる。
胸を張ってそう言えばリーベは微笑んで、
「ありがとうございます。――その時はお願いしますね」
「ああ、任せとけ」
茶は飲み終えて、ふとリーベが黙り込んだ。何か考え込むような顔つきになっている。
「どうかしたのか?」
「いえ……私、こんなに幸せでいいのかと思って」
何を言っているんだ、こいつは。
「うまく言えないんですけれど、昔から人や環境に恵まれていて……最近特にそう思うようになって、こんな幸せは私に分不相応のような気がして……」
巨人という理不尽な脅威が蔓延るこの世界が恵まれているとは思えないんだが、まあ、内地育ちらしいからあまり壁の外のことを考えることはないんだろう。
とりあえず俺にはリーベの悩みが理解出来ない。
「幸せで何が悪いんだ?」
「……多分、不安なんです。こんな風にはいつまでも続かないんじゃないかって」
「んなこと考えてる時点でよっぽど不幸だろうが。あれだ、前世にでも何かいいことしたんじゃねえか? そう考えとけよ」
「それか、来世がとても大変なことになるかもしれませんね」
そりゃ悲観的すぎるだろ。だが来世の話になるなら、
「或いは並行世界のお前がな」
深い考えもなく返事をするとリーベは首を傾げた。
「それ、何ですか?」
「あー……並行世界ってのはだな……」
俺は髭を撫でながらうろ覚えの知識をかき集める。前に部下が読んでいた本の内容を聞いただけの浅い知識だ。
「この世界と並んで存在している別世界のことだ」
「別世界ですか」
「今の自分とは異なる生き方をする自分がいる世界だな。そうなると自分が存在しない世界も当然あることになるが今は措いておく。だから例えば……リーベ、お前は別世界だと結婚していないかもしれないし、育ちもまるで違うかもしれない――もしかすると兵士になっているかもしれない、ということだ」
俺の説明を頭の中で整理しているのか、リーベは少し考えるように黙ってから、
「私が兵士だなんて考えられません」
「でも、お前なんだ」
妙な話をしている自覚はある。だが雑談なんかそんなもんだろ?
リーベは息をついて、
「だとしたら私は、並行世界の『私』の分まで幸せになってしまっているのかもしれませんね」
何でこいつは自分の幸せに対してこうも後ろめたくなってやがるんだ。
「決め付けてやるなよ。あっちはあっちで幸せかもしれねえし、仮に不幸のどん底だろう心配ねえ。『お前』なら大丈夫だ」
「どうしてですか?」
「今この世界でも、他のどんな世界でも、ちゃんと自分の幸せを見つけられる。お前はそういう人間だからだ。どんな目に遭ったとしても――そこから先を切り拓ける」
悲嘆に暮れるだけで何もしないヤツじゃない。どんな環境でも、こいつは多分そうだ。それは何度か会っただけの俺にもわかる。
「どうにもならなかったら俺も助けてやる」
「『も』?」
「お前の旦那は何もしねえのかよ」
リーベが何度か瞬きして呟いた。
「並行世界にもあの人がいてくれたら幸せなんですけれど」
ふと思ったことがある。
「そういえばお前の旦那はどんなヤツなんだ? いざって時に頼りになりそうか?」
今まで聞いたことがなかったから訊いてみた。
するとリーベははにかむように笑う。心から幸せそうな笑みだった。
「とても優しくて、強くて、紅茶が好きで綺麗好きの素敵な人です。この人類で誰よりも頼りになります」
(2016/05/18)