プルシアンブルーの哀歌





会長、と声をかけられることにはもう慣れた。ここ何か月か、それ以外の名称で呼びかけられたことはない。教師にすら生徒会長と冗談じみた呼び方をされ、クラスメイトも同様。違う学年の生徒ならばなおさらで、背後からかけられた声の主の姿を頭に思い浮かべて、心の中で苦笑する。
駆け寄ってきたのは一つ年下の男子生徒だ。文芸部という看板をかかげてはいるが、その実世界の不思議を探し求めているSOS団という団体の、雑用係。彼については成績や友人関係に家族構成まで、機関から送られた書類で知っている。実際に接したのはわりと最近のことであるので、彼の情報に関しては詳しくないふりをしている。誰だって知らないうちに自分のことが調べ上げられていたら気分が悪いだろう。だから俺は、少し距離を置いて彼と言葉を交わすことにしていた。

「会長! よかった、生徒会室にいないから探しましたよ」
「ああ、悪かった。どうかしたかね?」
「提出しないといけない書類が……。というか、まわり誰もいませんし、キャラ作らなくてもいいですよ」
「ん? ああ、そうだな」

不思議そうに笑われて肩をすくめる。キョンというおかしなあだ名で呼ばれている青年には、俺の本性がばれているのだ。彼以外に観られていないのならば今更取り繕うのも変な話だろう。
差し出された書類を受け取って、せっかくだからと生徒会室へ共に向かう。内容に特に問題はないし印を押してすぐに返せばいい。たいした活動もしていないというのに毎回律儀に活動報告の欄を埋めてきて、それを見る度ある種感動を覚える。
彼はそわそわとこちらを見ている。許可が出るか気になっているのだろうか。
俺がSOS団の活動を却下することはありえない。もちろん多少の邪魔はエンターテインメントの一環としてさせてもらうが、廃部にでもしたら、機関いわく世界の終わりが訪れてしまう。今はとくに障害になれと指示も受けていないし、SOS団に接触する予定もない。

「まあ大丈夫だな。すぐに印を押してやる」
「本当すか? はーよかった。ここに書けるような活動してないんで、毎回苦労するんですよね」
「そりゃそうだろうよ。ま、書き直しを命じることはあっても廃部にすることはねえから安心しろ」
「書き直しあるんですか……。どうせ廃部がありえないんなら内容空白でもオーケー出してくださいよ」
「一応顧問も目え通すもんだからなあ。手抜きなもんに許可出すと、俺がぶつぶつ言われんだよ。こっちの立場も察しろ」
「へーい」

彼は少し唇を尖らせたが、一瞬のちには口を噤んで静かに俺の隣を歩いた。
廊下には誰もいない。放課後を迎えてからすでに結構な時間が経過しており、皆グラウンドや部室やもしくは自宅でそれぞれの時間を満喫しているのだろう。それなのにパシリのようなことをさせられてかわいそうだなと、隣を盗み見る。唇は尖っていなかった。頬に、黒い髪がかかっていた。

「あれ、生徒会室誰もいないんですね」

彼の言うとおり、訪れた生徒会室には人っ子一人いない。俺が職員室へ向かう前には二人ほど役員がいたはずだが、鞄もないようだし帰宅したのだろう。携帯に連絡が入っているかもしれない。が、確認するのも億劫で会長の席へ向かう。
彼は、俺が来たときは一人いたんですけど、などと言いながら俺のあとをついてくる。彼の全身を目にしてようやく、鞄を持っていることに気がついた。

「部活には戻らねえのか?」
「あ、はい。部活もう終わってるんで。今日は女子だけでスイーツ食べ歩きらしいですよ、古泉も部室追い出されてました」

引き出しから印鑑を取り出して書類にぎゅうと押す。彼に確認させながら、俺もまたもう仕事が残っていないことを思い出した。他の役員もいないし、顧問への提出物も済ませている。
どうせなら、一緒に帰るか。
そう誘うと、きょとんと目を丸くした。思っても見なかったという顔だ。俺がお前を誘うなんて、一緒に歩くことを許すなんて意外だと、はっきり書かれている。
笑ってしまう。こいつは俺を、なんだと思っているんだろう。

「一緒に帰るのか、帰んねえのか?」
「あっ、帰ります帰ります!」
「おう。施錠するからちょっと待ってろ」

彼は大人しく扉の前で直立不動にしている。少し居心地が悪そうだけれど、俺といることを嫌がっているというわけではなさそうだ。俺は彼のことを詳しすぎるほど詳しく知っている。だが向こうはそうではない。
緊張しているのだろうか。今度こそ声に出して笑う。

「どうかしました?」
「なんでもねえよ」

窓の外は日が落ち始めていた。ガラスに映る彼が眉を寄せている。



秘密というほどのことではなかった。別に隠しているわけじゃない。けれどこの世界の多くの人間は、俺の秘密について知ったところで信じやしないのだろうと思う。
生徒会長。生徒会長。皆がそう呼ぶ。それじゃあ俺の本名を知っているのかと話を向けると、生徒も先生もきょとんとして、出席簿を持ち出して来たりする。
俺の趣味は? 俺の友人は? 俺の家族は? 誰一人答えられはしない。クラスメイトのなかに俺が喫煙者であることを知っている人間は皆無だ。
一年のとき、俺はどのクラスにいた?
これも聞いたところで誰も答えられないだろう。俺自身が聞きたいくらいだ。
俺はどうしてこの学校にいるのだろう。不良生徒で、なのに生徒会長なんてやってるんだろう。俺は一人暮らしだけれど家族はどこにいて、どこから振り込まれる金で生活しているのか。俺は、俺の名前はなんだっただろう。
誰も気にはしなかったこと。誰も正解を知らないこと。けれど俺の秘密は、不思議に思われることもなく当然のこととして皆に受け入れられていく。
だから俺は、神さまのことなんて、大嫌いだ。



しばらくの間無言が続いた。彼はやはり緊張しているようで、平静を装ってはいるが視線があちこちを向いている。肩同士もかなりの距離が開いていて、心の距離なんだろうなと笑いをかみ殺す。
こいつはわりかし素直な男だ。口がよく回ってたまに理屈っぽい言い回しをするが、言っていることは極めて常識的であるし人並みに優しくて人並みにずるい。そしてそれを特別隠そうとするでもなく、嫌悪も好意も、あるがまま受け入れている印象を受ける。だからSOS団なんてわけのわからない部活もやっていられるんだろう。あそこに所属するのは皆正体を隠した奴らばかりだ。異なった立場にある彼らだけでは団結も何もあるまい、それぞれが勝手に散らばっていってしまわないように潤滑油の役割をしているのが、この雑用係なんだろう。
あそこの中心にいるのはこの男だ。そして俺はこの男のことを、好ましく思っていた。

「最近、ハルヒとかかわりました?」

沈黙に耐えかねたのか、ちらりとこちらを窺いながら質問をされる。まだまだ道のりは長い、黙りつづけるよりは雑談でもしたほうがいいと判断したのだろう。共通の話題は、「涼宮ハルヒ」。

「このごろは見てさえねえな。活動も大人しいみてえだし、古泉の奴からも今は待機でと言われてる」
「たしかに大人しくしてますけど、そのうち爆発なんぞしやしないか恐ろしいですよ。嵐の前の静けさじゃなきゃいいんですけど」
「そりゃそうだ」

ぼつぼつと会話が続く。居心地が悪そうだったのははじめのほうだけで、時間が経つにつれて彼の緊張もほぐれてきた。古泉相手のようにとまではいかないが、リラックスして軽口も叩きはじめる。
横顔を盗み見た。夕日に髪が好けている。俺よりいくらも低い身長のせいで、つむじや耳の形、まつげに鼻筋までよくわかる。特別整ってもいない、普通の男子高校生。そのかさついた薄っぺらい唇が言葉を紡ぎだす。何の変哲もない男子高校生のはずなのに、俺はそれに釘付けになる。

「会長はどうして機関のこと信じたんです? ハルヒが神さまだって、本当に思ってるんですか」

ぱちりと目が合う。心底不思議に思っている顔だ。
それはそうだろう。普通は誰も信じない。たった一人の少女の願望によって、世界が改変されてしまう可能性がある。場合によっては崩壊してしまうかもしれない。陳腐なB級映画にでもありそうな設定だ。
にやりと笑みを形作る。彼は目を丸くして瞬きをしている。

「信じないわけにいかねえよ。あの女が世界を変え得る力を持ってんだと、俺は身を持って知ってるんだから」

世界は本当に、三年前に生まれたのだろうか。機関の人間はそんな答えの分からないことを肴に議論を繰り広げているらしいが、俺からしたらそんなことはどうだっていい。俺にとっては三年前も四十六億年前もたいして変わりがないのだ。
俺がこの世に誕生してから、一年が経った。涼宮ハルヒが、不良の生徒会長が存在してほしいと願ってから、まるでそれまでも普通に高校生をしていたかのような顔をした俺に機関が目を付けてから、一年が経った。
俺を生んだのは涼宮ハルヒだ。彼女が望んだから俺は存在し、生徒会長として生きている。俺という人間は彼女の分身であり、願望であり、使い捨ての代用品。俺はいないも同然で、俺の名前なんてあってもなくてもどうでもいい。
涼宮ハルヒは俺だ、俺は涼宮ハルヒだ。彼女の機嫌がよければ俺も上機嫌になるし逆も然り。彼女の好きなものは俺も好きで彼女の嫌いなものは俺も嫌いで、彼女が欲しいと思うものは、俺だって欲しい。
だから俺は、目の前の男のことが、いとおしくてしかたがない。

「会長? どういう意味っすか」
「なんでもねーよ」
「はあ?」

怪訝そうに潜められた眉。こちらを見上げる、困惑の色に染まった目。への字になった唇と、弛められたシャツの隙間から覗く肌色。低い声音が描く言葉は冷静で理屈っぽいこともあるけれど幼さは抜けきらない。その掌が意外と大きいこと、体温が高くて、かさついた肌が触れると心地よいこと。涼宮ハルヒが知っている彼に関する事柄は、彼に触れたことなど一度もない俺もまた知っていた。
彼のことが好きだった。涼宮ハルヒが好きな男のことが、好きだった。彼女が彼を思えば思うだけ俺も彼の姿を追った。彼が彼女に微笑んだ数だけ俺も彼の優しさに思いをはせた。

「本当、おかしな人ですね」

溜め息を吐いて苦笑する。和らいだ目元に喉が鳴る。顔を真正面から見たいだとか、抱き寄せたいだとか、欲望は果てしない。
この感情も、すべて涼宮ハルヒのものなのだろうか。俺が俺として彼を思うことは許されないのだろうか。俺の感情は宙ぶらりんのまま、愛したいと愛されたいと金切声は止まらない。
ああ、神さまなんて嫌いだ。俺を俺にしてくれない神さまなんて、大嫌いだ。

「お前らほどおかしかねえよ」
「そうですかね。俺たちに望んで関わってる会長も、大概愉快なんだと思いますよ」
「望んでねえっつの、致し方なくだ」
「はいはい、そうでした」

ばあかと笑って腕を小突く。一瞬触れた指は、彼女から伝わってきた記憶よりもずっと熱い気がした。だめだ、駆けだしそうになる。熱くて、いとおしくて、そのいとおしさが偽物のような気がして、逃げてしまいたくなる。
ふと顔を上げると、空は藍色に染まっていた。雲が月を隠して、いつもよりさらに暗い夜だ。誰の目にも入らないくらい、暗い夜だ。
俺は偶然を装って、もう一度だけ彼の指に触れた。かなしいくらいのその熱さは、きっと神さまも知らない。





END.

2014/06/26

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