小さな初めて、大きな一歩 律儀に許可を請われ、それに反応する間もなく扉に腕が押し付けられた。力の込められた指は節くれだっているけれど綺麗で、ひどく熱い。 見上げた先には仮面を取り外した獰猛な表情でこちらを見下ろす生徒会長の姿があった。見慣れたはずのその顔は、だんだんとぼやけていく。近づいてきているのか。気付いたときには目と鼻の先にその人はいた。 きゅっと無意識に固く閉じていた唇に、小さな熱が触れる。半分意識が飛んでいるせいかよくは分からないが、柔らかいような気持ちいいような感覚がぶわっと広がる。 唇を、軽く羽でも落とすように何度も押し付けられ、ようやくこれがキスなのだと思い立った。焦点も定まらぬほどすぐ近くで震えているのは意外と長い睫毛だろうか。眼鏡を外したせいで余計に近く思える目元は、遠目で見るよりも整っているように思えた。この瞼の下にあの心地のよい黒が隠されているのだと思うと、知らず頬がほてる。 「……ん」 上唇、下唇の順に小さく噛み付き、鼻の頭にまで唇を落とされる。ちゅ、というリップ音に、頬に朱を登らせれば、悪戯じみた瞳が楽しそうにこちらを窺っているのがわかった。あんまり愉快そうにしているせいで文句を言う気すらも失せてしまった。 生徒会室に二人きり。外から聞こえるのは健全な食事時のおしゃべりで、ここが学校であるということを思い知らされる。カーテンを抜けて入り込んでくる冬の日差しは今が昼まであるということを教えてくるし、不健全極まりないと余計に体温が上がってしまう。 「……何するんすか」 「何ってそりゃお前、わざわざ言ってほしいのかよ。情緒ってもんが分かってねえなあ」 「情緒、って、していいなんて一言も言ってないじゃないでしょうが! 訊いた意味ないじゃないですか!」 「問いに必ずしも答えがあるわけじゃねえと思ってな、勝手にこっちでOKと判断した」 「よくありませんよ! だって、俺、さっきの」 「ファーストキスだったか?」 「っ、……文句ありますか」 楽しそうに言われてしまってはさすがに少しむっとせざるを得ない。図星だから尚更だ。 ファーストキス。記憶にある限りでは初めて触れた他人の唇。先程の感触を思い出そうとして、思い出すことにすら照れてしまう自分が恥ずかしくなった。赤くなっただろう顔をみられるのが嫌で、目の前の肩に額を押し付ける。かたかたと小さく震えているのは笑っているのだろう、忌ま忌ましい。 「何笑ってんですか」 「いや? 光栄だと思ってな」 「何が」 「いや、つーかお前、たまには笑ったらどうだ。眉間にしわ寄せてるとぶっさいくになるぞ」 「余計なお世話だ! ていうか見るな!」 少し強引に顔を持ち上げられて思わず叫ぶ。 堪えきれないとばかりに繰り返される笑い声が憎たらしい。馬鹿にしたような言葉を返してくるくせに、髪を撫でる手つきが優しいこともむかつく。分かっている、本当はとてもとても大切にされているのだ。そしてそれに気付けてしまう自らさえ欝陶しいと思ってしまう。 不細工で悪かったなと呟けば、心の篭っていない謝罪と共に抱きしめてくる。謙虚さなんて欠片も持ち合わせていない豪胆さで俺を囲い込もうとする。非情に悔しく情けないことだ。 そう思うのに、不機嫌を装って背中に手を回してしまうのはどういうことだろう。自分が滑稽で仕方がないけれど、そういうところは可愛いと言われてしまえば何も言えなくなってしまう。ほだされてしまっていることなんてとっくに分かってしまっている。非情に非常に、悔しく情けないことに。 「そんなに拗ねることねえだろ」 「……拗ねてなんかいませんよ」 「どうしてお前はそう意固地になるんだか。俺は単純に嬉しかっただけなんだぞ、お前のファーストキスの相手が俺だってことが」 「な、ん」 「初めてをご馳走様、ってな」 意地の悪い言い方に固まってしまう。どうしてこういう発言を軽々しくできるんだこの人は。羞恥心ってものがぶっ壊れているんじゃないのか。 先程よりもっと熱くなった顔と胸に、ここにとどまっていることが耐えられなくなってくる。このまま逃げ帰ってやりたい。押し返して部屋から飛び出して、彼の前で平静を保てるようになるまで会わずに過ごしたい。そう思う自分も確かにいるのに、離れたくないなんて思ってしまうのも真実だ。ちくしょう、ちくしょう。俺は一体どこの乙女だというんだ。 予鈴の音が校内に響き渡る。まともに食事もできなかった昼休みが終わりを告げ、どうしてこうなったのか思考を巡らせる。すぐに出たのはどうでもいいという結論。今この時間が幸せだからそれでいい。授業が始まると分かっていても離してくれないこの人も、同じことを思っているのだろうか。 こつりと額同士がぶつかる音がして、優しい瞳に覗き込まれる。絡まり合う互いの髪だとか、香った煙草の匂いだとか、些細なことが心臓を締め付けていった。ああもう、嫌だ。恥ずかしい。 先程確かに触れ合った唇が、言葉を紡ぎ出す。低い声。眠気を誘う好きな音だ。 「授業、サボっちまうか」 「この不良会長。そんなんでいいんですか、後から古泉に愚痴零されるのは俺なんですけど」 「小うるさい小舅なんか無視しとけ。俺は今非常に気分がいいんだ、授業なんぞに興を削がれるなんて真っ平御免だね」 「あーもう、分かりましたよ、付き合えばいいんでしょう付き合えば」 「よしよし、物分かりがいい奴は好きだぜ」 「はいはい……」 常にはないテンションの高さに、そんなに嬉しかったのだろうかと頬が綻ぶ。俺だって嬉しくなかったわけではないけれど、ここまで素直に喜べはしないだろう。この人は俺様のくせに子どもっぽくて、変なところで正直なのだ。なるほど、こういうのをギャップ萌えというのだろう。ずるい男め。 肉付きの薄い頬を両手で包み、不細工にはならないように気を付けて笑みを浮かべる。自然な笑顔が作れているだろうか。素直になれない俺だから、せめて表情で伝えたい。 「会長」 「なんだ」 「俺実は初サボりなんです。よかったですね、二つ目の初めてですよ」 二人分の笑い声を授業開始のチャイムが掻き消していく。 戯れるように与えられたキスは、初めてのものよりも幾分か甘ったるかった。 END. 2013/11/30 |