白い世界でこんにちは

キョン死ネタ。
血とか注意。





新学期が始まって、二月ほどが経った頃だった。初夏というに相応しい暑さの中で、毎日が淡々と過ぎていった。クラス替えなどはない僕のクラスでは新しいクラスメイトに慣れる必要もなく、今年は受験だとそのことばかりを言い聞かされる。大学へ行って就職して。そんな当たり前の未来が少しずつ形をとり始めた頃だ。
彼が死んでしまった。僕は全く知らされていなかったが、どうやら重たい病気だったらしい。最近学校に来ていないな、その割に彼女の機嫌が悪くなることがないな。その程度の認識だったのだ。突然。ある日突然彼はいなくなってしまった。涼宮さんは泣いていた。たった一人、彼に病気のことを聞かされていたのだそうだ。他の誰にも教えないでくれと言われたと、彼は申し訳なさそうに笑っていたと、悲しくなるくらいに細かったと、ぼろぼろぼろぼろ泣いていた。悲しみに暮れる毎日の中で、それでも世界が終わることはない。鍵がなくなった。それでもだ。彼女の明朗な笑顔はなかなか見られなくなってしまったが、特別悲壮感が漂った顔ばかりをしているわけではない。
世界は今日も続いている。僕には、それが耐えられなかった。
彼がいなくなってそろそろ一ヶ月が経とうとしている。昼休みが終わって授業が始まったであろう頃、僕は部室に一人で立っていた。もちろんこの時間には誰もいない。時折体育をやっている生徒の掛け声が聞こえる以外は全く静かなこの部屋で、どこか寒々しい室内を見回してみる。
あの席には涼宮さんが座っていてパソコンをやっている。長門さんはいつもの場所で読書、最近は古典をよく読んでいるようだ。朝比奈さんは編み物に夢中で手作りの鞄を作るらしい。僕はやはりいつもの席に座って将棋の次の手に頭を悩ませている。彼は。彼はそんな僕をつまらなさそうに見詰めながらたまに涼宮さんと会話をして、朝比奈さんを眺めたり長門さんに質問をしたりする。眠たそうに瞼を擦っていることもあったし、いつの間にか実際に眠ってしまうこともあった。どうでもいいことをさも重要なことのように話したり、面倒臭そうに課題を片付けていたり、パソコンを構ったり携帯を構ったり。
日常が消えてなくなった。彼という存在が消滅して、僕たちの前に普通に転がっていたはずの日常が溶けて消えた。それでも世界は続いているのだ。彼がいないのに、それでも明日が訪れてしまうのだ。信じられなかった。信じたくもなかった。彼がいないこの世界のあまりの無機質さに空虚さに、限界を感じていたのかもしれない。
だから僕は。

「あなたがしようとしていることは、無意味」

一人きりなはずの部室でそんな声が聞こえても、特に驚きはしない。彼女、長門さんなら僕の行動を予測することなど簡単だろう。後ろを振り返らなくとも分かる少女の金属のような表情を思い出し、僕は少しだけ笑った。何も変わらない。彼女はいつものようにパソコンをする。彼女は読書に勤しみ彼女は編み物をする。そして僕は相手のいない将棋をするのだ。繰り返し繰り返し。それが日常であるのだと言い聞かせるように、彼のいない部屋で今日も。
彼女が動く気配はない。止めに来たのではないだろう、単に告げに現れたのだ。この世界の恐ろしいほどの無情さを。

「無意味とはどういうことでしょう」
「彼が命を落としたことで涼宮ハルヒは口にこそしないが非情に混乱している。再度この集団の中からいなくなる人物がいたらと考えるうちに、それを阻止する意識を持ち始めた。わたしたちがこの空間、ひいてはこの世界から消えることは不可能」
「あなた方は」
「わたしも朝比奈みくるも本来の組織に戻ることは現在できなくなっている。この状態はしばらく続くものと思われるが、情報統合思念体とコンタクトをとることもできない今、わたしには何を断言することも不可能」
「……僕は、彼の後を追うこともできないと」
「そう」
「そうですか」

ポケットに入れておいたカッターナイフを取り出して、窓から差し込む光に透かしてみる。買ったばかりのそれは鈍く光り、綺麗だなと目を細めた。いい加減本格的に暑くなってきて僕もブレザーを羽織ることはなくなった。きっとこの白いシャツを汚すことになる。それとも血の一滴も零すことは叶わないだろうか。分からないが、それでもよかった。
長門さんはもう何も口にするつもりはないらしい。いるのかいないのか窓際を向いたままの僕には分かり得ないけれど、ただそこに立っているだろうと思った。見届けるのが彼女の仕事だ。僕がこれから何をするのかを最後まで見、伝える対象がおらずとも記憶に刻んでいく。変わらない。何もかもが変わらない。彼女も彼女も彼女も、そうして多分僕も。変わらず変われず、僕たちは彼のいない世界を生きている。いや、生かされている。

「では、また」

後ろを向けば予想通り彼女が無表情で佇んでいて、どうしようもなく苦しくなった。彼が死んだと聞かされたときと同じ目だ。透明で真っ直ぐで氷のような目。そうだ、僕たちは変われない。
首筋に押し当てた刃を思い切り引いた。ぱたぱたと床に血が飛び散って、彼女専用の机やパソコンも赤に侵食されていく。痛いのかは分からない。ただ順番に順番に意識が揺らいでいくことはよく理解できた。眠たい。いつか彼がしていたように瞼を擦ろうとして腕がうまく上げられないことに気が付いた。知らぬ間に倒れ込んでいたようだ。横たわった僕の体の上では長門さんがこちらを見詰めていて、ぎこちなく微笑みを浮かべてやる。冷たい目。
彼もこんな風に冷たくなっていったのだろうか。意識が落ちる直前に思ったのは、そんなことだった。



彼が笑っている。僕の目の前にいて、彼が笑っている。ここは真っ白いどこかで、僕と彼の二人しかいない。誰もいない、僕たちがいた世界じゃないどこか。
彼は何かを言っているようだった。残念ながらその声は聞こえないのだが、ひたすらに楽しそうだと感じる。これまでに見たことがないくらい笑って笑って、踊るように身振り手振りで何事かを訴えかけてきていた。僕はひらひらと暴れるその手を掴んで、細い体を抱きしめる。突然引き寄せられた彼は文句を言っているのかもしれないが、少なくとも抵抗はされていない。腕の中に大人しく収まる小さな体。喚きたくなるほど小さな体。そのとき僕は泣いたのかもしれない。笑ったのかもしれない。ただ彼は、きっと情けない顔をしているだろう僕の頭を撫でてくれたのだ。
これは夢ですね。出したはずの声は耳に届かない。彼は僕に抱きしめられたまま。世界は静かで、温かい。誰もいない。
目が覚める気配がした。彼は悲しそうに眉を寄せ、白い世界は崩壊を始める。僕はまだ生きなければならないらしい。彼のいない世界に別れを告げてはならないらしい。嫌だなと呟いて、機能しない耳に苛立った。彼の声が聞きたいのだ。けれど彼の声はどんな風だっただろうと考え、馬鹿らしさに吐き気がした。馬鹿は僕だ。
さようなら、またすぐにでも。もう一度抱きしめ、耳元で言葉を吐き出す。溶けていく彼を見届けながら、僕は僕を見下ろしているだろう長門さんへの第一声を考えていた。

「ただいま。さようなら」





END.

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