エンディングの鐘の音





右手が痛い。あの時確かに全てを終わらせた右手が、じくりじくりと痛んでしかたがない。人差し指の先から忍び込んでくる焼けるようなそれは、ゆったりと心臓まで侵食していく。
罪悪感が、俺を苛んでいた。



「顔色が悪いですよ」

かけられた言葉に、はっと意識が浮上した。何をしていたんだったか。時計は下校時間を指し、ほとんど進んでいない課題は放り出されている。正面に座る古泉は、チェス盤を片付けているところらしい。
常の笑顔を心配そうに歪めているところを見ると、それほどに今の俺の顔は情けないものなのだろう。生憎鏡はないが想像はつく。筋肉が固まって上手く笑顔が作れない。

「少し夢見が悪くてな、寝不足なんだ」

嘘ではない。昨夜見た夢は、内臓を直接握りこまれているかと勘違いするほど気持ちが悪いものだった。朝までしっかり眠ったけれど起きたときの心地は最悪で、疲れがまったくとれていないように感じられた。だから嘘ではないのだ、ただその夢の内容を明かせはしないだけで。
俺の笑顔がぎこちなかったのか、古泉は心配そうどころか眉間に皺さえ寄せ始める。珍しいことだ、あの古泉が。なんだか気まずくて思わず俯いたが、眠いからだと思ってくれたらしい。小さく安堵の溜息をつく音がした。

「そうでしたか。もしかしたら体調が悪いのではないかと心配しました」
「そういうわけじゃない。心配かけて悪かったな」
「いえ……」

帰りましょうかと微笑む姿はいつもの古泉で、知らず肩の力が抜けたのが分かった。自分で思っていた以上に緊張していたらしい。あんな夢を見た後でこいつに対峙するのは、勇気のいることだった。
買い物に出かけるのだという女子三人を見送り、俺たちは静かな下校をする。いつもは俺の反応などお構いなしにぺちゃくちゃと勝手に話している古泉だが、今日は気を遣っているのか何も言わない。ただ隣を歩いていくだけ。時折気遣わしげな視線が向けられはするが、言葉はかからない。俺は彼の態度に気付かないようなふりをしながら、普段のようにしてくれと心中で呟く。隣にいるのが誰なのか、分からなくなってしまう。
沈黙は続く。どこまでも不透明で喉に詰まるような沈黙は、続く。俺と同じような苦しさを、こいつは感じていないのだろうか。

「それでは、また明日」

右へ行くと俺の家で、左へ行くと古泉の家。俺たちはここで毎日別れる。互いに互いを呼び止めたりなんてしないし、相手の家にも行ったことはない。純情だと言われても、付き合いだして一ヶ月で関係を進めようなどという勇気はないのだ。ゆっくりと歩いていければと、それが僕たちでいいのだと、手を握ってくれたのはついこの間のこと。

「ああ、また明日な」
「今夜はちゃんと寝てくださいね」
「分かってるさ」

優しい言葉に目を細めて、大切な体温にさようならをして。
今夜も、あの夢を見るのだろうか。



ここは一体どこなのだろう。開いた瞼の向こう、延々と続く黒に肌が粟立つような寒さ。ぞくりと悪寒が走って、唇をかみしめる。
高校の制服のままで、俺はただそこに立つ。いつも通りゆるく着たワイシャツの間から忍び込んでくる冷気は、冬特有のもの。真っ暗だと思っていた景色は目が慣れるに従って見慣れた部屋の輪郭をとり始める。いや、見慣れているはずなのにどこか違う。ここは、あの冬の部室だ。
怯える小さな背中、困惑する水晶のような瞳、違う名前を呼ぶ声、笑わない口元。長い黒髪は揺れて、その中に浮かぶ白い体操服は俺の持ち物だ。震えながらこちらを見詰める目に、築いたはずの親しみはない。寄せられる眉と訝しげな口調と、右手の人差し指に残るエンターの感触。

「あ、」

エンターキーの、世界をリセットするボタンの感触。一つの世界を終わらせるには似合わない、ボタンのあまりにも軽い感触。この人差し指が、ずっと覚えている。

「違う、違う、あれは世界なんかじゃなかった。世界なんかじゃない」

あれはこの世界から派生しただけだ。本来あるべきは今俺の生きる世界で、あれは元に戻っただけなのだ。消えた訳ではない。初めから存在していなかった、幻が見えなくなった、それだけ。

「本当に?」

暗闇の向こうからよく知った低音が聞こえた。そう思うことでさえ俺の傲慢だ。俺はこんな声を知らない。興味なんて全くないとばかりのこんな冷たい声を、俺の知っているあいつが出したことはないのだから。
しかしそれでも、肩に置かれた手は、毎日握りたいと請うあの人の手。

「本当に、そう思いますか」

耳元で囁かれるそれは、優しく、けれど激しく脳内を揺さ振ってくる。がくりがくり。右に左に揺らされて、酔いが回っていく。

「あそこに、確かに僕たちはいたでしょう? こうやって、あなたにも触れたでしょう? それさえも、あなたは否定するんですか」
「違う違う違う」
「違うと言えば、何もかも済むんですか。真実は全て虚実となるんですか。本当に、あなたは身勝手だ」

詰る言葉は止まらない。産まれたての子猫を触るように優しく背中を撫でるくせに、向けられる感情は針だらけ。刺して抉って突き破って、俺はその手で蜂の巣となる。

「僕らは見捨てられたんです。神でも何でもない、あなたに」

夢であれと願う。こんな風に責められて神経をすり減らすのが現実であってはいけないと、また勝手なことを願う。それでも次の瞬間には日常が帰って来やしないかと、目を閉じるのだ。

「帰しませんよ」

今日もいつものとおり、容易に夢は覚めない。責め苦は永遠のように俺を縛り付け、狂おしいばかりの拷問は続く。これが現実だと、俺に語る。選択をした俺の罪をどこまでも知らしめてくる。
俺がこいつに与えられるのは、湧き上がる後悔と、消えることのない焦燥感。そして、

「あなたにはもう、現実などないのですから」

塞いだ視界の向こうで厳かに捧げられる、嘲笑と口付け。味わったことなど一度としてないはずのそれは、深く深く俺を壊す。先にいるのが誰なのかなど、最後まで確信を持つことの出来ないまま。

「おやすみなさい」

深海に沈んでいくように意識が遠ざかり、部室に残された体は俺のものでなくなる。体と分断された感情は、無感動に世界を見詰める。
暗闇の中。視界に入った薄い茶髪の裏で、そいつはただただにこりと――。



「キョンくーん、朝だよー?」

ずしりと腹にかかる重量は、昔から毎日かけられているものだ。日に日に増えていっているはずなのだけれど、常に与えられているから初めからこうだったのではと勘違いしてしまう。
早く起きてきてねと、無邪気な笑い声が遠ざかっていく。ばたんと扉の閉まる音に、ようやく覚醒していく。
やけに白く見える天井に向かって伸ばした指先は、青白く変色していた。けれども、切れた掌から滴る鮮血は、うっとりしてしまうほどに赤い。
いつも通り、そう、いつも通りだ。普段と変わらない朝、ここ最近毎日見ている夢。何も変わらない。
毎夜毎夜、ああして責められる日々が続いている。あの冬の日、俺が選択したことによって消滅した世界の住人から、毎夜毎夜。
夢であることなど、分かり切っているのだ。過去に味わったことのある、夢だと知っている上での映像。それでも、あの暗闇は冷静さを保とうとする俺を嘲笑うように迫りくる。発狂してしまいそうな感覚に、込み上げる吐き気。気持ちが悪いと、それだけが皮肉にも俺の正気を促す。
泣くことも許されないのだろう。今俺がこちらの世界にいることは事実で、ならばもうそれ以外の空間など存在しないのだ。俺はあいつらから何もかもを奪い、今日ものうのうと生きている。

「学校、行かなきゃ」

呟くと、それだけが頭を占める。学校へ行こう。友人や仲間や恋人のいる学校へ、行かなければならない。夢が夢であったのだと確信するために。俺の世界はここであるのだと、安心を得るために。



ぽたりと視界を覆った赤。右手の人差し指を伝った血液が唇を這い、優しく口内を犯す。
唇は、まだ冷たかった。





END.

2013/02/25

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