夢への階段予約済み

高校生×ミュージシャン





駅前は、とにかく混む。
僕のように学校から帰ってくる学生もいれば、仕事帰りのくたびれたサラリーマンや、はたまた買い物にでも行ってきたのか大きな荷物を抱えた婦人方など、大勢の人間がひしめき合うところなのだ。我先にと歩を進め住宅地に向かおうとするその波は酷く激しく、素直に流されてはもみくちゃにされてしまうだろう。
しかし、僕がそんな目にあうことはまずない。ホームを出たと同時に、決して小さくはないこの体を活かして人ごみを掻き分けて歩く。割り込まれた人々は迷惑そうに眉を顰めるが、僕の行き先が裏通りだと分かると、横に抜けるくらいならばと渋々道を開けてくれる。
圧迫感からようやく開放され、小さく息を吐きながら辺りを見渡す。薄暗い通りには人気がなく、猫でさえ目に入らない。どこか食物が悪くなったような匂いがしたりもするが、そこは我慢である。
向かうは、少し先にある保育園だ。
住宅地より外れた場所にあるそこは僕が昔通っていたいわゆる母園とでもいうのだろうか。余り大きなところではないけれど、先生方が毎日世話をしていたおかげで草花が溢れ、心地良い環境の中で楽しく過ごした記憶がある。
仕事で忙しい母親達が子どもを預けているからか、園内は未だ騒がしい。可愛い盛りの園児達が外を走り回り、それを先生が追いかけるという何とも和む光景が広がっていて、思わず頬が緩むのを感じた。
が、僕が求めているのはそれではない。

(いた……)

保育園の門から十メートルほど離れた垣根の前。詰まれた荷物に手を伸ばしながら、その人はいた。
生暖かな風に揺らぐ艶やかな黒髪。その短めの前髪の間から覗く瞳も同じく漆黒で、気だるげに細められてはいるものの時折意志の強さを表すようにきらりと光る。
屈んだ拍子にシャツの隙間から首筋が見え、健康的な肌色と思っていたよりずっと細いそこに思わず息を呑む。着太りするタイプなのだろうか、一般的な男性よりも(少なくとも僕より)細いように見える。やはりどこか頼りない腕で持ち上げたのは、体の半分にもなろうというキーボード。
彼の準備が整った途端、少しずつ人が集まってきた。僕と同い年ぐらいの少年少女、近所に住んでいるらしい老婦人、迎えに来た保育園の子どもを連れた母親。ここにやってきた全員が、彼に会いに来たのだ。ある人はその声を聞くため、またある人は彼自身と交流を深めるため。
ざわめきを遮るように、突如始まる音楽。
朗々と紡がれていく低音と、それに乗せるようなキーボードの音。内臓が痺れるかのような歌声は、僕を揺さぶる。
ここで歌っている彼を見に来るようになって、もう二月になる。
いつものように人に揉まれて下校することが嫌だった僕は、偶然知った近道を通ることにした。先に言ったように過去に通っていた保育園の前に出る道だったものだから、懐かしいななどと思いながらはしゃぐ子供たちを微笑ましく見ていた。そのときである。彼に出会ったのは。
耳に打ち込むような鮮烈な声音は、そこに立つ彼から届いたものであった。自分の声に聞き入るように目を閉じて、何かを訴えかけるように眉間にしわを寄せ、喉を大きく震わせて。
純粋に、綺麗に歌う人だと思った。しかと地面を踏みしめる姿を美しいと思った。しかし何よりも衝撃を受けたのは、拍手を浴びる彼がこちらに目を向けたとき。
ぱちりと、擬態語などではなく本当に音がしたように感じるほどタイミング良く合った、目。深い海の底を思わせるような暗い色のその瞳は、しかし輝く光を秘めている。
その芯を持った強く熱い視線に、僕は一瞬で恋に落ちたのだ。



鳴り響く拍手と照れたような笑顔を見届けて、僕は保育園を後にした。
声なんて、かけられる訳がない。ただでさえ片思いの相手だ。しかも、同性。今まで自分に同性愛の気があるなんて思ったことはなかったが、自分自身のことだ、こうなってしまったのは仕方ないと割り切ることが出来る。けれど、彼はそうはいかない。かなりの可能性で異性愛者で、もしかしたら彼女がいるのかも。この感情を悟られるようなことを安易にすることは出来ない。
もし声をかけて、真正面から彼の笑顔なり何なりを見る機会があったとしたら、きっと僕は真っ赤になってしまうだろう。どんなに鈍感な人でも一発で気づいてしまうほど、如実に。
学校を終えて、彼の歌を聴いて、その足で真っ直ぐ家へと向かう。両親が海外出張中のため一人で暮らすアパートは、当然といえば当然なのだがひとけがない。帰っても電気が点いていることはないし、夕飯も出来ていないし作れもしないので大抵はコンビニだ

「あ、」

そうだ、夕飯だ。彼のことを考えていてすっかり忘れていた。普段なら下校途中に近所のコンビニへ寄るというのに、気付いたら家だ。

「……馬鹿か、僕は」

はあと小さく息を吐く。
どうしようもない。これが恋の病だなんて、鬱々しいだけではないか。進展なんてし得ないくせに、想いだけが募っていくなんて。
開けかけた扉を再度閉め、鍵をかける。どうせそんなに食欲もない、財布の中身を確認しなければならないほどの量はいらないだろう。
もう暗闇となってしまった道は何となく恐ろしく感じられる。急ぎ足になるのは、強がりではないがしょうがないことだと思う。鞄を背負い直し、何かから逃げるように歩を進め。

「いらっしゃいませー」

本当に逃げ出したくなった。
低さは変わらずしかしどうでもよさそうな声。見慣れたものよりもっと気だるげな表情。やる気がなさそうな猫背の体を包むのは、この店のエプロン。
恋焦がれた相手が、そこに立っていた。

「え、あっ」

思わず上げてしまった情けない声。いや、しかし彼はこっちのことなど知らないはずだ。偶然会ってもばれないようにいつも遠くから眺めているのだから。
そう言い聞かせながら歩くと、どうしてもぎこちなくなる動き。やはり怪しかったのだろうか、つと訝しげな視線が向けられる。細められた瞳が、徐々に見開かれていく。

「いつも見に来てくれてる、よな?」

 ああ終わった、と思った。



何故だろうと何度自身に問いかけても、返事など返ってこないのは分かりきったことで。それでもこの状況は疑問を抱かずにいられない。

「コーヒーでよかったか?」
「あ、ありがとうございます……」

知り合いに会ったかのような反応をした彼に、人のよさそうな店長さんは気を遣ったらしい。言い方は悪いが二人してスタッフルームに放り込まれてしまった。そして現在、紙コップを手に椅子に腰かけている。
正直気まずいことこの上ないのだが、逃げ出すわけにもいかない。好きな人にそんなことをして嫌われたくないというのもあるし、口にしているほど困惑してはいない。むしろ、緊張と期待と下心が一緒になって、ああ、一体何を言っているんだ僕は!
いやしかし、チャンスである。ここで親しくなればいいのだ。きっと、遠くからしか想い人を眺められない僕に神様がくれた、多分最初で最後のチャンス。有効に使わなければ罰が当たるというもの。恋人になんて望むことすらおこがましいし申し訳ないけれど、友人くらいならば、あるいは。

「お前、名前何ていうんだ?」
「はははいっ?」

しかしそんな決意は彼にかけられた声に一瞬にして霧散する。少々裏返ってしまったのが堪らなく恥ずかしい。ほら彼も笑って、ってああかわいい……。

「おい、大丈夫か」
「ああああすみません! 古泉一樹っていいます!」
「お前、挙動不審だぞ?」

すごい、何だこれは。夢か幻か、むしろ天国だろうか。僕の発言に彼が反応を返してくれるなんて、幸せすぎるにも程がある。今なら何でも出来る気がする。そう、例えば僕から彼に話しかけたり。

「あの、あなたのお名前は?」
「あー、俺はよくキョンって呼ばれてる」
「キョンさん、ですか」
「もちろんあだ名だけどな。んな堅苦しい呼び方でなくてもいいぞ、妹にさえキョンくんって言われるくらいだし」
「それでは、キョン君で……」

そう言うとにかりと笑う彼、否、キョン君。親しげなあだ名呼びに先程から心臓が異常な速さで脈打っている。ああもう、赤くなるなにやけるな。恋情を悟られないようにしなければならないのに、頭に段々血が上っていく。このまま倒れてしまうのかもしれないと思えるほどに。
しかしそんなことにはならず、彼の次の台詞に現実へと引き戻された。

「古泉さ、何で毎日あんな隅っこにいるんだ?」

好きな貴方を真正面から見るのが恥ずかしくて、つい。
なんてずばりと言えたらよかったのだが、そんな勇気があったらとっくの昔にお友達にくらいはなっていただろう。もちろん僕らはまだ友人などでなく、今まで出せなかった勇気を今更出せと言われても無理な相談な訳である。へたれとでも何とでも言うがいい。

「少し照れ臭くて。それでも貴方の歌が好きで、あそこで聴くようにしていたんです」

当たり障りのない発言ならこの程度だろうか。実際キョン君の歌は好きだ。それ以上に彼自身が好きなのだが。

「そりゃ、どうもありがとう……」

照れ臭くて俯いたまま言うと、前から聞こえた呟くような声。そっと目を向けてみると顔面を真っ赤に染めた彼が目を泳がせつつ微笑んでいて、一気に頭の中が沸騰するのが分かった。直視するにはあまりに毒な表情だ。
慌てて再度視線を逸らして誤魔化すように飲んだコーヒーは冷たくて心地良い。砂糖一杯分の甘みが、今の僕にはちょうどいいのだろう。

「でも、あのだな。ファンでいてくれるのは嬉しいんだが、」

急に真剣な声音で言われて肩が跳ねる。
何なんだろう。まさか、僕の恋心がばれてしまっているだとか。気持ち悪いからもう来ないでくれ、とか、言われてしまうのだろうか。
絶望色に染まっていた僕の脳内を目覚めさせるように、彼が爆弾を投下する。

「俺、もう音楽やめようと思ってるんだ」

驚いて思わず顔を上げると、真顔で床を睨んでいる。僕の大好きな瞳は細められ、普段涼やかな声を出す唇は固く噛まれているようだ。苦いものを飲み下したみたいな表情は初めて見るもので、不謹慎にも胸が高鳴った。

「お前が来てくれるようになったのは最近だから知らないと思うけど、俺があんなミュージシャン紛いなことをし始めてもう三年になる。昼間は大学行って、夕方は歌。それが終わったら真夜中までコンビニでバイトだ」

大学生だったのか。意外に童顔なので年齢の目星が付けづらかったのだが、結構年は近いらしい。けれど、それだと相当忙しいじゃないか。
僕がついそう零すと、下の兄弟を見るような優しい目で見られてしまった。かなりのお兄ちゃん気質らしい。

「忙しい。寝る時間もないくらいだ。もう今年で二十一なのに、本当何してるんだろうな、俺」

自嘲気味に歪む唇は彼には余りにも似合わなくて、何だか悲しくなってくる。と同時に、こんな表情はさせたくないと強く思う。彼には、花が開いたみたいな笑顔がよく似合うのだ。

「この間実家から手紙が来てさ、大学卒業したら家に戻って来いって。いい加減夢ばかり追いかけてないで現実見なさいなんて、お小言ももらっちまった」

キョン君の両親は彼のことが大切なのだろう。自分の子に幸せになって欲しいと願うのは当然だ。歌手という夢を求めることで不幸になってしまうのならば、それを止めようと思うのも。そして、彼もそんな両親の気もちが分かっている。だから、心配をかけさせまいと大人しく身を引こうとしている。
ごめんな、初めて話した、しかも年下にこんな愚痴零して。そう言って無理やり優しげに笑おうとする姿が、せつない。それと同時に、胸が苦しくなるくらいにいとおしい。

「え、ちょ、古泉……?」

気付いたら、落ち着きなく組まれていた彼の手を掴んでいた。掌の中のそれは先程まで冷たいコーヒーのカップを持っていたからか、指先がいやに冷えている。どうにかして暖めたくて、出来るだけ優しく擦ってみるのだけれど、ああだめだ、僕の手も冷たいからなかなか変わらない。

「実家に、帰っちゃうんですか」

口をついて出た声は、自分でも驚くくらいに不満げだ。拗ねた子どもみたいで嫌になる。好きな人の前でくらいかっこよくありたいのに。

「歌、やめちゃうんですか」
「……ああ、多分そうなると思う」
「やめないで下さいよ」

何を言ってるんだ、こんな我が儘。止めようと思っても、一度軌道に乗ってしまった口は滑るように動き続ける。嘘偽りなく、ただただ思ったことを紡いでいってしまう。

「やめないで下さい。あなたの歌を楽しみにしている人がたくさんいます。毎日毎日あなたに会いたがっている人がたくさんいます」

そうだ、あれだけの人数が見に来るんだ。僕と同様に毎日のように聴きに来ている人もいた。皆、彼の歌が好きなのだ。いなくなってしまっては、どれだけの人数が悲しむか。
いや、他の誰かなんてどうだっていい。なによりも、僕が。

「寂しいです。毎日何を支えにして生きればいいって言うんですか」

彼に会えると思うから、学校だって面倒臭いと思いこそすれさぼろうなどとは思わない。彼がいつもあそこで歌ってくれていることが、僕の生活の糧となっている。
勝手なことだとは分かっている。彼には彼の事情があって、それにこれからの人生がかかっている。僕の身勝手な発言で、彼を迷わせてはならない。分かっては、いるけれど。
歯がゆくて悔しくて、二の句が告げなくなってしまう。黙り込んだ僕に、彼は何を思っているのか。胸を締める後悔に、指へ力を込める。

「……古泉、分かったから、手」
「え。あっ」

顔が熱い。あれほど思いがばれないようにと表情を取り繕っていたのに、きっと今僕の顔は真っ赤になっていることだろう。
慌てて握ったままだった手を離したが、未だ肌に残る滑らかな感触が頭から消えてくれない。ハンドクリームなどは付けていないようだけど、どこかしっとりしていて触り心地が、って落ち着け。

「あの、すみません……」
「い、いや、気にするな」

あまりに恥ずかしくて彼の顔を直視できない。けれど視界の端に移ったその耳は僕同様赤くなっていて、純粋な人だなあときゅんとした。
困ったみたいに短い髪を撫で、間を保たせるようにコーヒーを口に運ぶ。可愛らしい仕草なのはいいけれど、いったい何を思っているのだろう。迷惑がられてはいないだろうか。大きなお世話だと、思われてはいないだろうか。

「あー、古泉」

投げかけられた言葉に咎める意志は込められていないようだが、不安が脳裏を駆け抜ける。気分は、判決を言い渡される犯罪者だ。

「その、ありがとな」

だからこう言われて、一気に体の力が抜けてしまった。さっき彼の歌を褒めたときみたく、照れ臭そうに、けれど嬉しそうに。ちらと見上げた彼は、あの笑顔を浮かべている。

「うん、弱音吐くべきじゃないよな。見に来てくれてる人に失礼だ。出来るとこまでは、やるべきなんだよな」

強く熱く、決意を込めた言葉に、僕が彼の考えを変えさせたことが分かった。ただ勝手なだけの僕の我が儘が、彼の選択に影響してしまった。彼が後悔しないことが一番だと思うのだけれど、本当にこれで良かったのだろうか。
そんなことを思っていたのに気付いたのだろうか、彼は不機嫌そうに唇を尖らせた。年上のはずなのに、どこか子どもっぽい人。

「おい、確かにお前の言葉でやめないことにはしたが、それで俺が失敗したってお前のせいなんかじゃないからな。むしろ感謝してるんだ、そうやって俺がいなくなることを惜しいと思ってくれる人がいることを知れて」

優しくて温かい、と思う。話している相手がどんなことを思っていて、どんな言葉をかけたら安心できるのかをよく知っている。そしてそれに、人は集められるのだろう。彼のファンは単に彼の歌が好きなだけではあるまい。彼自身が好きで、彼に癒されたくて会いに来ている。まったく、僕と同じじゃあないか。
つまり、僕には彼のファンというライバルが多量にいる訳で。しかも、もし彼がこの後メジャーデビューするなんてことになったとしたら、一体どうなることか。

「古泉、どうした?」

今更、誰に、渡せるものか。

「キョン君、お願いがあるんです」
「うん?」

こてんと首を傾げる仕草が可愛いなんて言ったら、怒られるだろうか。しかし、どうしたって愛しいと思えてしまうんだ。この人を、ここまで来て諦めるなんて出来る訳がない。遠慮も不安も罪悪感も、この際二の次だ。
先程離した手を、再度握り締める。意識してやるほうが恥ずかしさは大きくて、じわりと汗が滲んでくるのが分かる。だが、ぼっと音がするくらいの勢いで赤く熟れた彼の顔に見惚れてしまい、そんなことどうでもよくなってしまった。

「僕の夢は、音楽会社を設立することなんです」

もちろん嘘である。将来のことなど考えてもいなかった。だが、決めた。

「叶ったら、僕の会社の歌手になって下さい」
「はは、そうだな。よろしく頼むよ」

実に楽しそうに笑いを零す彼。冗談だと思われているのだろう。確かに突拍子もない話だけれど、信じて貰わなくては困る。僕は本気なのだから。絶対に、かなえてみせようではないか。彼を、僕のもとへと。

「あとですね」

腕にぎゅっと力を込める。この気持ちが伝わるように、もう決して離さないように、強く強く握り締めて。

「そのとき、僕と結婚してくれませんか」



 さて、日本を代表する歌手と彼が所属する会社の社長との間に熱愛が報じられるのは、これから何年も先のこと。





END.

2013/02/19

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