タイマーは鳴らない

消失の絡んだ甘めな会キョン





冬には、あの短い旅を思い出す。
旅というと少し語弊が生まれるか。確かに移動したのだからこの言葉で間違っていない気もするけれど、俺の言う旅とは世間一般の旅行とは意味が異なる。なのでここは、あの三日間を思い出す、にすることにしよう。
あの、長門が普通の無口で読書好きな少女で、朝比奈さんは相変わらずドジで可愛い未来人じゃない先輩で、古泉が機関なんて関係ない事情で五月に転校し、ハルヒがただの人間である以外は何も変わらずハルヒだった世界。俺はあの三日間を決して忘れないし、忘れられないだろうと思う。
いい思い出だったとは言い切れない。生きるか死ぬかの思いもしたし、それこそ死ぬほど悩みもした。もう一度経験してみなさいと誰に言われようとも、俺は即座に首を横に振ってノーと言える日本人の皮をかぶるだろう。(まあ実際に何かが起こる場合は誰かが許可を取ってくれることはないので、俺はノーと宣言する間もなく面倒事に巻き込まれてしまうわけなのだが)
それでもあれから一年が経った今では、いい思い出ではないにしろいい経験だったと回顧できるほどにはなったと思う。それだけ印象的だったし、あのおかげで俺はこの世界に愛着を持っていることが証明されたのだから。後悔はしないようにしようと、帰ってきたときから心に決めている。
しかし、である。それとこれとは別問題だ。
いや、問題というのはおかしいか。俺が俺の中に眠っている好奇心が疼くのを耐えきれないだけであり、それは問題といえるほどのことではない。ただ、やはり、気になることは気になるじゃないか。

「会長」
「あー?」
「ちょっと質問があるんですけど」
「勉強のことなら教師にでも聞けよ。あの人らはそのためにいるんだから存分に使用してやれ。間違っても俺に聞こうとするな、俺は自分のことで精いっぱいだから」

十二月の終わり。俺は、様々な偶然が重なって恋人として付き合うことになった、元生徒会長の家に来ていた。
高校三年生である彼はもう長く一人暮らしをしており、今いるのもそこいらの大学生よりも立派な彼のアパートだ。この寝室も俺の私室より広いくらいで、勉強机の前に座った彼の背中がとても遠く感じるようだ。俺は自分でいれたコーヒーをすすりながら、丸まった背中をじっと睨みつける。
高校三年生といえば、受験生である。生徒会長も引退し(それでも俺は彼のことを会長と呼んでいる。特に意味はない。あるとすれば彼の名前を呼ぶのが、いや、なんでもない)、夏ごろから本格的に勉学に勤しみ始めた彼に、俺はなかなか会う機会を得ることができなかった。
もともと休日に家に遊びに行くくらいの交流しかなかったのだが、その休日ですら模試やら補習やらで遊んでいる暇などないらしく、今日彼に会うのは実に一カ月ぶりほどだったりする。学校で見かけても参考書片手に眉間にしわを寄せている会長の姿を見てしまえば、声をかけることなどできるはずもない。
今日だってそうだ。久しぶりに誘ってくれたと思えば挨拶もそこそこに机へ直行。話しかけたら返事もしてくれるが、気のないものの方が多い。会長なりに俺のことを思って呼んでくれたのだろうが、これはこれで少しかなしいものがある。結果、せっかくの休日なのに、コーヒーを啜りながら適当な雑誌を眺めるだけという状況に陥っていた。
正直に言おう。さみしかった。彼が大変な時期だということも、恋人である限り遠くからでも応援しなくてはいけないということもよくわかっていたが、それでもやはりさみしかった。だから邪魔だとわかっていても、連絡が来たら喜んで返事をしてしまうし、家に誘われたらどれほどつまらなくてもひょこひょこ訪ねてしまう。犬のようだなと自分で自分を評価したくなるほどには従順にである。
ああ、だから、こういうときに考えずにはいられないのだ。

「そういうんじゃないですよ。本当に、ちょっとした質問なんです」
「なんだ、言ってみろ」
「もしハルヒに能力がなかったら、会長はどうなってたと思います?」
「あのバカ女がか?」

もう訪ねることはできないのだろう、向こうの世界のことを思い出す。ハルヒの能力がないからこそ古泉は超能力者でもなく、つまり機関も存在しない世界。ならばあそこで会長は機関とは全く関係のない本当にただの一般人だ。何かに協力する必要などない。きっと彼が機関と関わる前と同じように両親と一緒に暮らして、生徒会長なんてしていなくて、いやそもそも北高に来ることにすらならなかったのかもしれない。
そんな世界で。彼は一体どういう生活をしていたのだろうと、ふと思うのだ。
相変わらず机に向ったままの会長が、短く唸ってから髪をかき乱す。どうやら何かわからない問題があったらしい。少し間をおいてまたペンの走る音がしだしたと思ったら、耳に心地いい低音がするりと鼓膜をくすぐった。

「あいつがいねえってことは、超能力者もいなくなんだろう。ってことは俺は用無しで、この学校に来ることもない。生徒会長にもならず適度に適当な生活送って、やっぱりこの時期には受験勉強でもしてるんじゃねえか」

億劫そうな口調の割にずいぶんとまじめな返答が得られた。顔がこちらを向くことはないが、多少は考えてくれたのだろう。

「じゃあ」
「あ?」
「ハルヒの能力のない世界と、今の世界。会長ならどっちがいいと思いますか」

俺は選んだ。あの平穏で平凡な世界を蹴って、常識など通じない騒がしさだけれど、俺の生きてきたこっちの世界を選んだのだ。それは意識的にしろ無意識にしろ多少の責任を感じてのことなのだろうが、そんなことは会長には関係ない。
一人暮らしなんて億劫だろう。生徒会長も面倒だったろう。ハルヒの相手をするのも、機関とやらの命令を受けることに苛立つ日もあっただろう。
それを全部、始めからなかったことにできるとしたら、この人はどちらを選ぶのか。
ああ、と思う。俺だったらきっとあちらの世界を選ぶ。会長の立場だったらだけれど、きっと、間違いなく。おかしなことに巻き込まれないというだけじゃない、もしこの学校に来なかったならば、俺と出会うことだってないということになるのだ。会長は異性愛者のままでいられて、受験勉強のさなかに家へやってくる同性で面倒くさい恋人を持つことだってなくなる。
俺が会長だったら、俺はきっと俺なんて選ばない。
一瞬沈黙があって、ぐるりと会長がこちらを向いた。返事があることにすらあまり期待していなかったのでさすがに驚いて、肩を震わせてしまう。じっと睨みつけるような会長の眼は参考書を見るそれよりも真剣で、この意志の強そうな瞳が俺は好きなのだった。

「あ、の」
「そりゃあ、あのアホ女がいなかったら俺は楽な生活を送るだろう。この三年費やしてきた時間が、今度は俺のためだけに使えるんだ。きっと楽しいんだろうよ」
「……でしょうね」
「だが、俺は今の世界を選ぶだろうな」
「え、っいた!」

ばちんと派手な音がして、額に痛みが走る。思わず額を覆った指の間から、会長の中指が伸ばされているのが見える。どうやら今の衝撃はデコピンをされたためのものらしい。
会長は痛がる俺を愉快そうに、でも少しだけ機嫌を損ねたように眺めていた。眼鏡を介さない視線は強くて、息も忘れかける。いつもそうだ、会長の視線は俺の時間を止める。

「あいつがいなけりゃ、俺とお前が会うこともなかった。そうだろう」

偉そうで直接的な言葉。ああちくしょう、これだからこの人は。
あんまり堂々と言うものだから思わず笑ってしまう。もう一発指弾されてもまだおかしくて、俺は腹を抱えて笑った。会長は不機嫌そうにそれを眺めていたけれど。

「俺と会っちゃったこと、後悔しないんですか?」
「後悔するようだったらそもそもつきあわねえよ、馬鹿か」
「今だって勉強邪魔しちゃってるのに」
「言わせんなよ。受験勉強よりも平和な世界よりも、お前を選んでるんだろうが」

面倒くさいやつだなと溜め息を吐かれながら、軽く抱きしめられる。暖房の入った室内で、熱いほどの体温。心地よさにようやく涙腺が緩む。
不安を感じていたことがばれていたのだろう、会長は驚くこともなくポンポンと背中を叩いてくれる。それにますます胸がぎゅうっとなって、声は出さないまでもついに泣き出してしまった。
受験が終わって、大学へ行って、会長がそれでも俺のことを好きでいてくれるか分からなかった。特殊な環境下だったから好意を持ってくれていただけなんじゃないだろうか。恋愛感情だと思っていたものは勘違いだったのだと、いつか気付いてしまう日が来るんじゃないか。恋人という関係になれたときからずっと付きまとっていた不安だ。ハルヒの担当もお役御免になり平和が普通になったとき、恋人関係の解消を切り出されるのではと、ひそかに思っていた。俺はこんなにも、誰よりずっとこの人のことが好きなのに。
そんな気持ちもきっと見越したうえで、会長は優しく俺を抱き込む。安心感が体を満たしていくのがわかる。きっかけは明かしてくれたことはないけれど、会長も俺のことを好いていると言ってくれたのだ。布を挟んで触れる肌から、じんわりと感情が伝わってくる気がする。

「もう、大丈夫です」

鼻をすすりつつ言えば、体温がそっと離れていく。少しだけさみしい気持ちになっているのも多分すべてばれていて、会長は意地悪げな笑みを残して机へ向かっていった。

「さっきの発言は撤回だ。来年は教師じゃなく俺が受験勉強に付き合ってやるから、今から心しておけよ」

俺はスパルタだからななどとうそぶいて、会長は俺の目の前にいてくれる。広い背中が、触れられるほど近くにある。もう何度目かになるが、俺はこの世界に戻ってくる選択をした自分をほめてやりたくなった。
ほら、やっぱりだ。冬は物悲しいけれど、あちらの世界に未練がないとは言い切れないけれど、それでも俺はこちら側を選ぶんだ。会長の存在を理由の一つにして。ハルヒのおかげでなんて言うと不謹慎かもしれないが、この世界だから会長と出会えて、恋をした。そんなありえないくらいの幸福を失わないためなら、何度だって選ぶ。何年たっても二人の関係が続いているなんていいきれないけれど、それでもだ。
窓の向こうで雪がちらついていた。これから幾度も冬が来て、そのたび異世界旅行を思い出すだろう。こちらで生きている幸福を思い知るんだろう。そのとき今のように隣に会長がいればいい。不安になるたび抱き締められるんなら、情緒不安定も悪いものでもないさ。





END.

2012/11/25

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