4 「電話」 ほとんど無意識のうちに通話ボタンを押す。耳障りな呼び出し音が途切れると、訪れるのは生ぬるくまとわりつく沈黙だ。 「もしもし」 自分の声が震えてはいないことは分かった。声だけを聞いたのならば、現在の俺が、わけの分からないことを叫びながら眠ってしまいたいなどと考えているほどに動揺しているなんて察することはできないだろう。 電話の向こうでは、車が道路を通るとき特有のシャーという音がしている。雨が何かを叩く音も聞こえる気がするので、相手は屋外にいるのだろう。どこかで雨宿りをしているのか公衆電話からかけているのか。相手を確認することなく通話状態にした俺には知ることはできない。 「あ、の」 無言。電話口の誰かは口を開かない。スピーカーから流れるのは雑音だけだ。声とおぼしき音は何一つとして聞こえない。 五秒が経って、三十秒が経って、一分近く経って。無言のままで時間は過ぎる。一秒一秒が俺の頭を痛め付ける。混乱する。背筋がぞくぞくと冷え、指先が固まり、歯の根も合わなくなる。冷静さなどとっくに失っていた俺には、電話を切ればいいという選択肢は存在しない。 何なんだ。何なんだ。 恐怖と困惑は徐々に怒りに変わる。 どうして俺がこんな目に合わなくてはならない。何が目的なんだ。何が楽しいんだ。気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。 『……』 耳元で軽く空気を吐き出す音が聞こえた次の瞬間には、携帯をベッドに投げていた。一度大きくバウンドして壁にぶつかった様子からして通話は切れただろう。俺は震える腕を抱き締めて、冷たいフローリングに小さくうずくまる。 間違いなく誰か、少なくとも呼吸を行う人間が、電話の向こうにはいた。その当たり前の事実がこれまでの出来事に急にリアリティーを持たせた気がした。ストーカーはいる。視線でも手紙でも誰かの言葉でもない。確かにそこに存在を感じた。呼吸音一つに怯えきっている自分を自覚せずにはいられない。怒りは瞬時に消え去り、いなくなったはずの孤独と恐怖が俺を嘲笑いに来たようだった。 気持ち悪い。 気持ち悪い。 ピリリリリリ 電源は切れていなかったらしい携帯が再度音を立てる。顔を上げる気力もなくなってしまった俺には通話ボタンを押すことはできない。ベッドの上で鳴り続ける携帯。ガンガンと頭痛は頭蓋骨を食い破ろうとする。着信音が響いて、痛みがリズムに合わせてコミカルにつついてきて。 限界だ、と思ったところで着信音はぴたりと止んだ。三十秒くらい鳴っていただろうか。もしかしたら俺への嫌がらせにも飽きたのかもしれないと都合のいい想像と共に顔を上げる。少し覗いた画面は明るい。待ち受け画面がまたパッと変わり、再度着信。逸らすこともできなかった俺の目には、着信相手の名前が映る。 「古泉……」 古泉一樹。ああ、彼ならば、彼ならば。 『もしもし。古泉ですが、明日の朝のことで電話しました。今、大丈夫ですか』 「……」 『あの……?』 「こ、いずみ……。古泉、古泉古泉古泉古泉」 『どうしたんですかっ? もしかして、また何か』 「嫌だ、もう嫌なんだ! なんで、なんで俺が、なんでなんだよ……っ!」 『お、落ち着いてください、落ち着いて!』 焦ったような古泉の声によって、安堵と共に不条理な出来事に対するやるせなさを思い出させる。これは八つ当たりだ。ただの部活仲間であるはずなのによくしてくれる古泉に向かって、俺は当たっている。情けなかった。けれどそれでも怒ったりせず宥めてくれる古泉に、俺の言葉は止まらない。 「どうしてなんだよ、俺が何かしたっていうのか!? 誰の迷惑にもならずに生きてんのに、なんでこんな目に合わされなくちゃいけないんだよ! ふざけんなっ、ふざけんなよ……」 『気持ちは分かります、分かりますから』 「適当言うなよ、分かるわけないだろ!」 『分かります! だから、怖がらなくてもいいですから、話を聞いてください!』 あの温和な古泉には珍しく、大きな声で怒鳴り付けられた。高ぶっていた気持ちは一気に冷め、ストーカー被害に気付いたときとは別の恐怖が胸を占める。 愛想をつかされる。一人で勝手に完結して八つ当たりして、こんな面倒な人間、相手にしたくなくなるに違いない。愛想をつかされる、離れていく。俺は一人になってしまう。 古泉が息を吐き出す音にすら肩が震えた。電話の向こうでは、雨足が強まったらしい雨が楽しげに音を立てている。 『あなた、今家にいますね?』 「……ああ」 『すぐ行きます。絶対にそこを動かないでください、すぐに行きますから。ああ、電話は切らずに、話をしていましょうか。それなら怖くないですね?』 「……」 『何があったのかは後で聞きますから。ね、少しだけ待っていてください』 唇を動かすこともできないほどに唖然としてしまった俺を軽く無視し、古泉は世間話を始めた。テレビでやっていたことだとか、学校の噂。俺の気を紛らせるためだということが伝わってこないはずがなかった。 どうして彼は、彼らはこんなにも優しいんだろう。不思議で仕方がない。彼らは優しい。俺の胸が苦しくなってしまうくらいに。あんまり優しいから、俺は、ずっと疑問だったけれど聞けなかったことを尋ねてしまったりする。 『さあ、もう着きますよ。ずっと静かですが、もしかして寝ていたりはしませんよね』 「……古泉」 『はい』 「なんでお前らはそんな優しいんだ。俺なんかのためにこんなに気遣ってくれて、助けてくれて」 『なんかなんて言わないでくださいよ。僕たちは、僕はですね、あなたのことが大切なんです。機関も神も関係ない、僕個人として大切なんです。あなたを苦しめるものに憎悪すら抱くくらい』 古泉の声は、穏やかすぎるほどに穏やかに凪いでいた。けれどその裏にぞくりとする何かを感じ、息を呑む。少しだけ、古泉のことを怖いと思った。 それでも扉の向こうに汗だくで立った古泉は泣きそうになるくらいに綺麗で、俺は、俺の直感に気付かなかったふりをする。 俺を助けられるのは彼ら二人だけなのだと、そんな気がしてならなかったから。 ⇒Next 2012/09/25 |