2 「写真」 帰り道に古泉と出会った日から一週間ほどが経った。俺を夜も眠れないほどに弱らせたあの妙な視線はもう感じなくなっていて、平穏な毎日が戻ってきていた。あれはやはり気のせいだったのだろう。部活の諸々やら何やらで俺も疲れていたのかもしれない。 ハルヒにつつかれ振り回される日々がこんなに心安らぐものだとは思わなかった。古泉はあれ以来時折気遣わしげにこちらを窺ってくるが、もう心配はいるまい。 「キョン、よっす!」 「はよ。珍しく早いじゃないか」 「おう! 今日当番なんだよー。先行くな!」 「じゃあな」 手を振りながら走り抜ける谷口を見送り、坂道を上っていく。 これが日常だ。面白いような面白くないような、緩やかな毎日が過ぎていくのが普通なんだ。この間のことは全て嘘、勘違い。そうでなければ困る。 長々と続いた上り坂に体力を奪われつつも校舎に辿り着いた。このくらいの時間はあまり人がいない。ぱらぱらと見える生徒に続いて靴箱へ向かう。 嫌な予感は、あまりしなかった。俺には今の俺を信じることはできない。何を予感したとしてもそれが真実とは限らないのだ。精神的に少しやられているらしい俺だから、気のせいじゃない可能性の方がきっと低い。 「な、んだ、これ」 ばさばさと音を立てたのは、靴箱から溢れ足元に広がったたくさんの紙。いや、これは封筒だろうか。目が眩むほどに真っ白な封筒が、ぱっと数えてみただけで、十、いや二十通くらいか。 冷たい何かが背中を滑る。一瞬で空気が凍ったような気さえした。指先が震えて、口の中ではねばねばとした唾液が警戒を呼び掛けている。 寒い。寒い。いや、違う。これだってきっと違う。あの視線が勘違いだったように、これだって俺の妄想で気味の悪いものに見えているだけだ。朝比奈さんが俺を呼び出しているのかもしれない。ラブレターの可能性だってある。クラスメイトの悪戯でないとも言い切れないじゃないか。だから、違う。違う。 自分に言い聞かせるように考えながら、ゆっくりと屈む。封筒を掴む指は、寒くて震えているくせに汗でびたびただ。 正直に言おう。怖かった。泣きそうなほど怖かった。 「俺……?」 しっかりと糊付けされた封筒を開くと、中には何枚かの厚い紙が入れられていた。紙? これは、写真だ。全部写真。しかも、俺が写った。 俺、俺、俺。登校中なのだろう眠そうな顔のアップ。授業中に当てられて慌てて教科書を開く間抜けな姿。体育の着替え中の胸がはだけているところ。自室で携帯を構っている様子まで写っている。それも恐ろしいが、何より気持ちが悪いのは、全ての写真が何となくよれていることだ。まるで誰かになめ回された後のように。 あまりの恐怖に手から写真がするりと落ちた。白い封筒の上に様々な俺の顔が広がる。 他の封筒にも、同じように写真が入れられているのだろうか。プライバシーも何もない。どこの誰かも分からない奴が俺を撮り、想像するのも恐ろしい何かに使った、写真が。 「何してんだ」 肩がびくりと震えた。あまりのことに意識がぶっ飛んでいたことに気付いて、顔が青ざめたことが自分でも分かった。 誰かにこんなものを送られたことがバレたならば、俺はどうなるだろう。これが嫌がらせ目的なのか、他に何か目的があるのかは分からないが、確実に俺のなけなしのプライドは傷つけられることだろう。怖い。怖い。けれど。 不安な心持ちで振り返れば、仏頂面をした生徒会長がこちらを面倒臭そうに睨んでいた。周りに生徒の姿が見えないから素を出しているのだろう。きっちりした格好のくせに不良としか思えない不遜な口調に、何となく涙が滲んだ気がした。 「何してるって聞いてんだろうが。無視してんじゃねぇよ」 「会、長……」 「……おいおい、何で泣いてやがるんだ」 俺が泣かしたみたいじゃねぇかと憎まれ口を叩きながら会長が近寄ってくる。はっとしたところで手遅れで、会長の筋ばった大きな手にはいくつかの封筒と写真が握られてしまった。 終わった。気持ちの悪い嫌がらせをされて恐怖で動けなくなっていたことがバレた。よりにもよって、古泉側の人間に。 「どういうことだ?」 会長の低い声が一気に険しさを帯びる。まるで悪いことをして叱られているみたいだ。涙腺がおかしくなってしまったのかその声にまた泣けてきて、俺はなす術なく俯く。 しばらく無言の時間が続き、彼が怒っているわけではないことを知ったのは、大きな腕に包まれてからだった。 「かいちょ、」 「うるせぇよ、大人しくしとけ」 「あ、の」 「黙れっての。とりあえずさっさと泣き止め。そんな顔で授業出るつもりか?」 会長の暖かい腕が俺を強く抱き寄せる。耳に響くゆったりとした鼓動の音に、余計胸が苦しくなったように思えた。 「どういうことなんだ。古泉からは何も聞いてねぇぞ。お前、こんな気味のわりぃもんのこと、誰にも言ってねぇのか?」 「写真、は、今日が初めてで……」 「は、ってことは、それ以外にも何かあったってことだな」 「……」 鋭い指摘に閉口するしかない。 例の視線のことも含めれば、おかしな出来事はこれで二つ目だ。こう短い期間に立て続けにおかしなことが起きたとなると、あれもやはり気のせいではなかったということなのだろう。それも会長に察されてしまった。 厚い腕に力がこもる。痛いくらいの締め付けに、震える息を吐き出した。 「任せとけ」 「何を、すか」 「お前が怖いと思うもんは俺が排除してやるよ」 「、は」 俺は生徒会長だからな。そう意地悪げに笑った彼は、自分の不細工な泣き顔をも忘れて見惚れてしまうほどに綺麗だった。 古泉といい会長といい、どうしてこんなに優しいのだろう。意地を張って何の相談もできない自分が馬鹿らしくなるくらいに。 ⇒Next 2012/09/25 |