「視線」





恐怖にも種類があると俺は思う。怖いと一言に言っても、痛いのが怖いのか、襲われるのが怖いのか、不可解だから怖いのか。簡単に言えば幽霊を怖がるのと殺人犯を怖がるのとライオンを怖がるのは別だということ。
平凡代表あだ名だけ非凡な俺にも当然怖いものはある。ホラー映画はそれほど好んで見ないし、真夏の心霊写真特集を見てしまった夜には眠れなくなったりもする。不良や喧嘩の強い奴にはプライドも何もなく降伏するし狂暴な犬がいる家にはあまり近付きたくないと思う。
そんな一般人らしく怖いものも盛りだくさんな俺にとって最も恐ろしいのは、見えないことだ。目が見えないのもそうだけれど、心が見えないこと。今まであったものがいなくなって見えなくなったり、昔みたいに夢が見えなくなったり。見えないことは怖い。
また、たとえば、相手が誰なのか「見えな」かったりだとか。



「どうしたの?」

怪訝そうに尋ねてきたハルヒに何でもないと返し、今度は聞こえないように溜め息を吐いた。少しくらい変に思われても、今俺の頭を悩ませていることを感付かれることはないだろう。眉を寄せたままハルヒが帰って行ったことで緊張感は薄らいだ。けれどまだ、俺の溜め息はなくならない。
気のせいだと皆は言うだろうか。視線を感じるんだと目を伏せたら、笑われるだろうか。
いつからだったかはもう覚えていない。二年生になって少ししてからだった気もするし、ずっと前からだったような気もしなくもない。気が付いたら肌にねっとりと絡み付くような視線が俺に噛み付いて離れなくなっていた。ぞわぞわと背中を虫か何かが這っているような感覚が四六時中まとわりついてくる。登校中も、授業中も、移動教室の先でも、部活中に下校中に日によっては家の中でさえ。
気持ち悪かった。吐き気がした。イライラして眠れなくて、けれど常に何かに警戒していなくては落ち着かなくなった。
被害妄想なのだろうか。精神的な病気だとかで、すべて俺の気のせいなのかもしれない。そうだったらどれほど助かるだろう。この不安定で苦しい生活から解放されるなら、自分の頭がおかしいと診断された方がましだ。

「……」

歩くスピードを上げる。生暖かい気配は消えない。歩いても走ってもどうにもならないことは今までの経験から分かっていたけれど足掻くことをやめることはできなかった。誰かに助けを求めることもできない、半端なプライドを持った俺にできる抵抗は、これくらいだった。
走る。蜘蛛の巣から逃れようとするように、走る。背後から足音が聞こえるようだと思った。きっと今振り返ったら、そこには包丁でもナイフでも持った人間が血走った目で俺を見ていて、次の瞬間には首にそれを突き立てられるんだ。馬鹿な妄想が脳裏を過る。気持ち悪かった。吐きそうだった。
もうすぐ家だと息を吐き出したところで、強すぎるくらいの力で腕を捕まれた。あ、捕まった。今にも叫びだしそうな心持ちで足を止める。怖いもの見たさというのはこのことだろう、先程の妄想で一度殺されたにも関わらず、俺は顔を上げた。

「っ、どうしたんですか、そんなに急いで?」

はたして、そこに困惑した表情で立っていたのは、バイトがあると先に帰っていたはずの古泉一樹であった。

「こ、いずみ……?」

どうかしたのはそっちだ、どうしてこんなところにいる。情けないことに息切れで言葉の出ない俺の気持ちを汲み取ったのか、古泉はテンプレ通りの笑みを浮かべた。それになんとなくほっとしている自分がいることには、気が付かないふりをした。

「今日のバイトはこっち方面であったんです。ちょうど先程終わって帰宅していたのですが、あまり必死な顔で走っているあなたを見掛けたので声をかけました」
「そ、か。おつ、っふ、かれさん」
「……大丈夫ですか。本当に、どうしたんです?」

何かに追い掛けられているようで、逃げていたんだ。そんなこと言えるはずもなく、曖昧に首を振って誤魔化した。
古泉は超能力者で機関に属する奴だ。そいつが何も分からないという顔をしているということは、やはりこれは気のせいなのだろう。俺を追う者は存在しない。そういうことだ。

「何でもねえよ。家の用事を思い出して急いでただけだ」
「本当ですか? それにしては切羽詰まった表情だったように思いますけど」
「見間違いじゃないのか。俺はそんな顔してない」
「ですが……」
「俺のことはいいから、さっさと帰って寝ろよ。お前の方が酷い顔色してるだろ」

デタラメを言ったわけではない。古泉の顔は、配置こそ普段通りイケメンだったけれど、パーツパーツには疲れがにじみ出ていた。目元にはうっすら隈ができているし肌もなんとなくかさついている。しっかり眠れていないのは明らかだった。例のバイトが忙しいのか、他に何かあるのか。聞く気はなかったけれど、疲れきっている人間に心配をかけるわけにはいかない。
古泉は困ったように苦笑して、ここでようやく俺の腕を放した。そのまま横に立ったことには首を傾げてしまったけれど、

「家までご一緒します」

そう有無を言わさず歩き始められては今更辞退もできまい。ひどく嬉しそうな顔をするものだから、尚更に。
俺を悩ませるあの視線は、いつの間にかなくなっていた。





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2012/09/25

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