6 勝手に人の携帯を構うだなんて怒られても仕方がない。彼が眠っているのをいいことに、俺は着々と操作を進めていった。機種が違うせいで少し戸惑いはしたけれどそんなに難しいことをするつもりではない。 何分かかけてようやく開いた電話帳。友人や家族が並ぶ中にある名前に、思わず笑ってしまった。「ヤマトさん」。どう考えても偽名かあだ名でしかないそれは、名字が多い文字の羅列から浮いている。これまでずっとこうして登録されていたのだと思うと堪らなく嬉しい。それも、今日までなわけだけれど。 電話帳から自分のアドレスを消去。躊躇いつつも送受信ボックスから俺から届いたメールや俺宛てのメールも全て消した。念のためにと自分の携帯を取り出してアドレスを変更。知り合いへの連絡はまたすればいいだろう。 相変わらず幼い表情で眠る彼の頭を撫でる。一緒にいられるのも今日までだ。 「ごめんね」 本当は、手放したくなどない。奪い取って側に置いて、一生大事にしてやりたい。いつかはそうしてやろうと思っていた。ついさっきまでは。 もしも。もしもこれが恋であるのなら、俺は迷わず「俺」を選んだだろう。彼のことはいい、自分の幸福のために彼を盗み出したことだろう。自分勝手で優しいだけの恋情で彼を縛り付けて、誰からも見えないように、大事に大事にして。 だけれどこれは、どうしようもないほどに愛なのだ。俺は彼を愛していて、だから彼には幸せになってほしい。それが俺にはできないことなのだと、俺は知っている。俺達の関係が浮気でしかないことと同じくらい、当然でありふれた事実なのだ。きっと、電話の向こうで泣いていた古泉君にしか、キョン君を心から幸福にすることはできない。 二人には話し合う時間が必要だ。互いの気持ちを確認して、そうすればキョン君は耐えられる。俺なんかに縋らなくても、恋人だけを信じて重圧に負けることもなくなる。それを俺は、知っている。本当は、ずっと前から、知っていたのだ。 眠るキョン君の額に最後のキスをして立ち上がる。時間は三時。彼は熟睡している。ホテルの料金はもう払ってあるし、カードキーは明日彼に返却してくれることだろう。 「絶好のお別れ日和だ」 一言だけ強がりを言って、部屋を出る。 彼は聡い子だ。書き置きがないことやアドレス諸々が消されていることから、俺の意図を察することができるに違いない。それならきっと、もう接触しようとはしない。所詮それだけの関係なのだと卑下するつもりではないけれど、多分惜しまれもせず。 廊下は肌寒い。鼻を啜った音は、誰の耳にも届かなかったはずだ。 あれから一ヶ月ほどが経った。 休日の早帰りがなくなった俺に、先輩たちがフラれたのかとニヤニヤしながら尋ねてきたが、的を射すぎて笑えない。むしろ泣きそうだったので、苦笑してごまかしておいた。彼らの地雷を踏んだとでも言いたげな顔は見ていないことにしよう。 昼食のためにふらふらと歩く俺の目に、高校生らしい姿がちらつく。今日は土曜日だし、恋人やら友人やらと楽しく遊んでいるのだろう。若いなあと思ったら負け。あの子はいないかなと思ったら、俺はただのダメ男だ。 そう、あれから、一ヶ月も経ったのだ。彼と別れてから一ヶ月。 予想通りというか、あれだけやったのだから連絡は一切なく、家に来る気配もない。俺から関係を絶ったのだ、こうなるのは当然。それでもまだ俺は彼のことが好きだった。 あの黒髪を、深い瞳を、温かな笑みを、涼やかな声を、俺はたまに夢に見る。夢の中で俺達は当たり前のように隣り合わせで座って、たくさんの話をする。彼の笑い声が聞こえて、唇が弧を描いて。そこにキスをする直前で、いつも夢は醒めてしまう。結局一度も触れなかった唇。口づけていいわけがないのだと、どうやら俺は分かっているらしい。 あの子はどうしているのだろう。苦しんでいないか、ちゃんと幸せか。それだけが不安だった。俺と一緒にいたら幸福になれるだなんてことは口先だけにしても言えないが、古泉君ならば絶対にキョン君を守りきれるのだとも言い切れなかった。古泉君にしか、キョン君を幸せにできない。そのことに二人が気付かないのならば、何の意味もない。 ぶわり。春が過ぎていくのを知らせるように風が吹き抜けていく。生暖かなそれに髪が靡く。彼と別れたときに短く切った暗い茶髪はもう随分長くなり、ぼうっと前を見る俺の視界を我が物顔で邪魔する。 その隙間から見えた風景を、俺は奇跡だと思った。 大切なあのこがすぐそこにいる。何度も何度も夢に見た姿。何も変わらない。 ああけれど、あんな風に笑う彼なんて見たことがなかった。俺の前でする笑顔は、優しくて穏やかで、けれどどこか憂いを含んだ悲しいものだった。彼は、今私服で町を歩くキョン君は、そんな顔もできたのかと苦笑してしまうほどに楽しそうで無邪気に笑っている。 偶然の再会なんて運命だとバカな俺は少し考えてしまったけれど、キョン君の隣を見てそんな思いは即消え去った。 彼より少し背の高い、柔和な笑みを浮かべた青年。キョン君は彼を見て笑っている。あれが古泉君で間違いないだろう。 ちらりと彼の顔を見て、ショックに襲われた。なんとなく想像はしていたけれど、その何倍も古泉君は綺麗な顔立ちをしていたのだ。あれはひどい、反則だ。俺と彼が二人並んでいたら十人が十人彼のほうがかっこいいと言うだろう。そのうえ彼は、俺の好きな人にも愛されているのだという。その薄い色素の瞳には、俺と同じかそれ以上に緩やかながら激しい熱が篭っている。 ああ、反則だ。 「あーあ」 幸せそうな光景に鼻の奥がつんとした。けれど、この涙は悲しいからじゃない。二人が理解しあえたのだろうこと、もう不幸にはならないのだろうことが、嬉しくて、少し悔しかった。俺だって彼の隣にいたかった。今の楽しそうな表情も、あのときの苦しそうな表情も、俺はまだいとおしいと思ってしまう。 だから俺は彼らに声をかけない。まるで本当にまったくの他人のように、知らぬ顔で近くを通りすぎる。いつかこの愛情が、彼らの幸福を脅かしてしまうことのないように。 たとえ自分のものではないと分かっていても、求められてしまったら手を広げずにいられない。大切だから、好きなのだからと、だんだんだんだん離せなくなっていって。 それが恋。 そして今ここにあるのは間違いなく愛で、だから手を離そう。あのこの笑顔がこの胸を、溶かしきってしまう前に。 END. |