2 キョン君と出会ったのは今から三ヶ月ほど前。 ごく平凡なサラリーマンをしている俺は、その日もそれまでと変わらず五時ぴったりに会社を後にしたところだった。帰宅する人々の波に埋もれながら町を歩き、一人暮らしのアパートを目指す。 恥ずかしながら、もう二十八を数えるのだが恋人と呼べる相手は今のところいない。実家の両親から早く身を固めろとうるさく言われているせいか逆に面倒になってくるほどである。近頃は年の近い女性との出会いもない。孫を見せてあげることはもしかしたらできないかもしれないと一人で笑って、人込みから抜け出した。 一人身の時期が長かったおかげで家事はある程度できる。この日も夕飯のことを考えながらひょこひょこと歩いていた。俺のアパートはあまり人通りが多いとは言い難いところにあるが、一応近くにコンビニが一つある。牛乳と食パンとを買い、明日の朝はフレンチトーストだなどと思っていた。 疲れからかふらふらとコンビニを出た、そのときだ。キョン君に出会ったのは。 その日は格別寒かった。風も強く雪こそ降らないものの暖房が恋しくなるような寒さ。それなのに切れかけた街灯の下に立っていた少年は、カッターシャツ一枚しか着ていない。当然知り合いなどではない。けれど流石に心配になって、俺は恐る恐る声をかけた。 「あの、風邪ひくよ?」 「……」 ゆっくりとこちらを向いた彼の、その顔を見たときの衝撃といったら筆舌に尽くし難い。 特に見た目がよかったわけではない。素行が悪そうという感じでなくかといって真面目すぎる感じでもなく、普通というのが合うだろうか。黒い髪と平均的な身長。ズボンは近くの公立高校のものだろう。まったくどこにでもいそうな男子高校生である。けれど普通と違ったのはその少年の頬が濡れていたこと。子供のように無邪気な顔をして、彼はぼろぼろと涙を流しているところだった。 泣いている少年に声をかけてしまった。何となく気まずい雰囲気の中、今更無視をするわけにもいかず俺は沈黙して固まる。帰ってしまおうか。そう少しばかり非情なことを考えたことに気付いたのだろうか、少年は初めてくしゃりと顔を歪めて口を開いた。 「一人にしないでくれ」 正直、やばいなと思った。同性を守らなければと思ったのはこれが初めてである。今にもほろりと崩れ落ちてしまいそうな彼をこのままにしておいてはいけないと、気が付けばその手を握っていた。どんな道を通ってどうやって鍵を開けたのか、とにかく俺はその少年を家へ連れて帰ったのだった。 今思えば随分と非常識なことをしたものである。不審者に誘拐されたと通報されてもおかしくない。けれどどこか浮世離れした雰囲気の彼は、特に抵抗もしなければ縋ってもこなかった。少々無理矢理風呂場に押し込んだり食事を共にしたりしたが話すことすら拒むようだ。淡々と悲痛な表情で、与えられることに従って。このまま眠ろうかと極力優しく頭を撫でたときだった。彼が、静かに静かに泣き出したのだ。部屋へ入る頃には泣き止んだはずである彼の、二度目の涙。俺はみっともなくも狼狽した。 思わず抱きしめてしまった俺に、彼は泣きながら言葉を吐き出し続ける。恋人がいること。その人が大好きなこと。自分も愛されていること。けれど決して許される関係ではないこと。恋人と一緒にいるのが少しだけ辛いこと。そう思ってしまう自分に嫌気がさすこと。 疲れたんだと、彼は真っ赤になった目を真っ直ぐに向けて言っていた。 「恋人でいることとか高校生でいることとか、たまにひどく重たくなる」 俺の腕の中で眠る直前、彼はそう零した。半分意識を飛ばしながら呟かれたそれに胸がかっと熱くなった。苦しそうで苦しそうで、それでも真っ直ぐに立とうとする姿。こんな彼に気の抜ける時間を作ってやれないだろうか。そのときはそうとしか思っていなかったが、今なら分かる。俺はこのときすでに彼のことを好きになっていたのだ。 穏やかに寝息をたてる少年の涙を拭い、次の日の朝に告げる言葉を決める。 また会おうよ。 彼との関係は、そのときから始まった。 ⇒Next |