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「どうですか、最近は」

変わらず笑顔の彼から白菜を購入し、立ち話に興じるのも悪くないと話し掛ける。この落ち込んだ気持ちも少しくらいは浮上してくれるだろう。
彼は一度ゆっくりと瞬きをしてから、いやあ大したことはねえよと声を上げた。先程から何か話したそうにそわそわとしていたが、どうせ実際に口にするのは憚られるような内容なのだろう。自分から切り出さないというのはそういうことだ。僕は昔から、あまり他人にとやかく口を出されるのを好ましいと思えない。けれど今、僕の沈みきった気を逸らしてくれるのならばもはや何でもよかった。

「何か僕に言いたいことがあるのでしょう」
「へ?」
「先程から、どこか浮足立っているようなので」
「……あー、やっぱり古泉センセイには敵わねえや」

恥ずかしそうに頬を掻いて、谷口さんは僕の方へ顔を寄せる。やはり周りの目を気にしなければならないような話だったらしい。内心くだらないと考えながらも耳を傾ければ、ぼそりと小さな声が注ぎ込まれた。

「恋人が出来たって話、本当なのか?」
「僕にですか」
「あんたにそんな気が一寸もないことは周知の事実だろ。違えよ、キョンの野郎に」

からからと軽く笑われて言われ、時が止まった気がした。谷口さんがどうしてそんなことを言い出すのかが全く分からない。
彼に恋人が出来ただなんて、そんな馬鹿なことがあるわけないではないか。彼に女性の影がちらついたら僕が気付かないはずがない。昔から毎日のように会い、話し、互いに何か隠し事があるときには誰よりも早く気付くような関係なのだ。最近の彼におかしなところはなかったし、あれだけ忙しそうであるのに女性と会う時間などあり得ない。きっと根も葉も無い噂話だ、そうに決まっている。
そう胸の内で繰り返しはしたが、家での彼の言葉と態度を思い出して、僕は人知れず手の平にかいた汗を拭った。

「……どうして、そんな話になっているのですか」
「見た奴が居るんだよ、キョンと女性の逢い引きをさ。二人で寄り添って歩いていたんだと」
「ただの知り合いだという可能性だって、ないわけではないでしょう」
「それがなあ、あいつ、その女性に抱き着かれていたらしい。無理矢理とかでもなくてな、キョンもその人の頭を撫でたりしていたって聞いたぜ」
「彼が……」
「女性がまた美人だったんだとよ。西洋人かってくらいの茶色くて長い髪をして、可愛い顔な上に体つきも……」

楽しそうに話す谷口さんを余所に、僕は心臓が痛むのをひしひしと感じていた。
その女性とやらが恋人がどうかは分からない。いや、そうでなければいいと思っているが、少なくとも彼はその人に触れられることを拒否しなかったということだ。そして、自ら触れることも。それは少なからず心を許しているからなのだということを、僕は知っている。

「だから古泉センセイなら何か知ってるんじゃないかと思ったんだけどよ、」
「……すみません」
「え、ちょ、センセイっ」

谷口さんが慌てて僕の名前を呼ぶのが耳に入る。けれどもうこれ以上じっとしているには苦しすぎて、可能な限り速足で商店街を歩いて行った。
彼は、まだ僕の家に居るはずだ。



玄関にはやはり彼の靴が当たり前のような顔で転がっていた。くたびれた革靴は僕の草履の横にあるには少しだけ不釣り合いで、思わず唇を噛む。よく馬鹿に丁寧だと笑われがちだが、このときばかりは蹴飛ばさんばかりに草履を放り出した。後ろも顧みず歩けばぎしりと鳴く冷たい床。自分の家がこんなにも不細工で滑稽に見えるのは初めてだ。
鼻歌が聞こえてくる台所を目指して真っ直ぐに進む。僕の足音に肩を大きく揺らした彼はこちらを振り返り、安心したように笑った。普通ならばこちらも微笑んでしまうはずのそれが、今はやけに疎ましい。そしてそんな風に思う自分を殴ってやりたい。

「お帰り。どうしたんだ、お前がこうも騒々しいなんて」
「帰ってください」
「はあ、何を」
「帰ってくださいお願いですから。少しの間でいいんです、僕の近くに居ないでください」

息継ぎもせずに告げると、彼の表情が固まった。徐々に強張っていく口元や歪む瞳を覗くには僕には勇気が足りず、緩く留められた釦をひたすら見詰め続ける。耳の奥で流れる血潮の音のみが聞こえる空間で、あまりの苦しさに叫び出しそうだと思った。
沈黙に耐えかね強く目を閉じた頃、静かに彼が横を通り抜けた。怒ることも笑うことも、溜め息の一つすら吐かず、そのまま玄関へ向かうらしい。革靴が地面にぶつかる高い音と戸が閉まる音。それらも妙に小さく聞こえ、ようやく瞼を上げた。目の前には勿論彼は立っていない。調理中だったのだろう、煮かけた鍋と規則正しく刻まれた沢庵が置いてあり、辺りにいい香りを振り撒いている。

「……ははっ」

渇いた笑い声と共にしゃがみ込み、両手で顔を覆う。
胸が、ひどく痛い。どうしようもなく痛い。今にも血を流してそのまま停止してしまいそうなほどだ。じりじりと日に焼かれ焦げ付くように、所謂心と呼ばれるのだろう部分が僕を責め立てる。
裏切られた。そんな風に考えている自分自身が、愚かで間抜けで憎らしくて堪らなかった。






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