いつかを待つ。

消失の世界にて




カタカタとキーボードを叩く音が聞こえる。休むことなく動く筋張った指に、僕は軽く溜め息を吐き出した。
せっかくの休日だというのに愛しい愛しい恋人は仕事に悩殺されていて、しゃんと伸びた背中に寂しいと同時に少しだけ幸せな気持ちになる。真面目で意外と神経質な彼は仕事中に人の気配を感じることが嫌いらしく、担当者以外では僕だけが同じ部屋にいることを許されている。つまりそれだけ安心してもらえる立場に僕はいるということで。盲目だと誰に言われても気にならないほどには彼に惚れ込んでいる僕としては嬉しいことこの上ない事実なのである。

「お、サンキュ」
「いえ。熱いので気をつけてくださいね」
「分かってるっての」

なるべく音を立てないようにマグカップを置いたが、集中が切れてしまったのか彼は潔く眼鏡を外してこちらを向いた。眉間にシワを寄せて瞬きを繰り返すのを見るとかなり疲れたらしい。最近また目が悪くなってきたと言っていたし、度が合わないせいで肩も凝っているんじゃないだろうか。あとでマッサージをしてあげよう。お風呂でゆっくり暖まってもらって、髪をドライヤーで乾かして、肩と足を揉んで……。
古泉、と不機嫌な声が僕の意識を戻した。彼はマグカップを両手に持って憮然と唇を引き結んでいる。その理由は分かっている。これまで何度文句を言われたことだろう、彼もしつこい人だ。

「どうしました?」
「お前、砂糖入れただろ。俺はブラックがいいんだって何度も言ってるじゃねえか」
「僕も何度も言ったはずですけどね。まともに食事も採っていない人にブラックコーヒーなんて飲ませられません」
「……締め切りが近いんだ、眠気覚ましには仕方ないと割り切ってくれよ」
「だから僕もミルクとかではなくてコーヒーにしてるんじゃないですか。スプーン一杯の砂糖くらい妥協してくださいよ」

拗ねたような表情に苦笑する。これでも大分よくなった方なのだ。昔は集中しだすと何も食べることなく何日も徹夜していた。僕が見兼ねて監視しているおかげで多少ましになった、はずである。僕の方も仕事があるのでいつでも監視しているわけにはいかないのだけれど。
ここまでの話で何となく分かってもらえたとは思うのだが、彼は小説家だ。大学生のときに応募したものが賞をとり、若者を中心に大ヒット。続編や新作を何冊も出し、来年にはアニメ化やら映画化やらが決まっているのだとか。高校生のときから男同士ながら秘密のお付き合いをしている僕としては、彼が有名人になるのは何となく悔しい。彼がどれほど自分の作品に愛着を抱いているかはよく分かっているので、世間に認められて嬉しいのも事実であるのだが。
パソコンが置かれた小さな机。部屋の大半を埋める本棚には大量の本が収まっている。それらは彼が小説を書くための資料であったり彼の愛読書であったりする。彼が書いた本はそれらとは分けて机の上にきちんと整えられており、彼がどれだけ自分の作品を大切にしているのかがよく分かるというものだ。

「今は、何の話を書いているんですか?」
「あー、シリーズ物の新作」
「デビュー作の?」
「そ」

彼のデビュー作は高校が舞台のSFチックな話だったはずだ。少年少女の日常であり非日常を主人公の愉快な語りで綴ったもので、発行から長く経つが未だに人気は衰えない。こうして彼が続編を書いているのも、彼の趣向だけではなくその人気故なのだ。
ちなみに、僕が作品の内容に詳しいことに驚かれることが多々あったりする。これでも読書は好きな方だし、彼の作品は公式なものも非公式なものも全て読ませてもらっている。恋人が書いたものだからというのも否定しないが、単純に彼の書いた話が好きなので。何と言っても彼の著作の最初のファンは僕なのである。

「次はどんなお話なんですか?」
「端的に言うなら、世界が変わっちまう話、だな」
「世界がですか」
「ああ」

いわく、このシリーズの語りであり主人公である少年が、友人の少女の力によって一人残されたままで世界を改変させられてしまうのだとか。そこには彼をそれまで非日常に巻き込んできた原因は何一つとして存在しない。本当にただただ平穏な世界に本来ならば安堵するのだろう。彼をさらってきた異常はいつだって危険を伴っていたのだから。しかし彼は自分を知らないかつての仲間を目の当たりにして思うのだ。帰らなければ、帰りたいと。

「それで」
「あ? 何がだ」
「主人公は元の世界に戻れるんですか」

このシリーズの主人公は、よくも悪くも平凡な男だ。正義ぶるわけでなく、悪役ぶるわけでもない。それでも普通でない周囲の仲間を優しく見守っている。僕はこの主人公のことが実はすごく好きだったりする。飾らない美しさというか、背伸びをすることなくそこにある自然な姿に清廉な心地よさを抱く。だからこそといえばいいのか、最後には幸せになってほしいと思ってしまう。
彼は眉を寄せてコーヒーを飲み下す。空になったマグカップを机に置いたと思ったら、次の瞬間には悪戯じみた笑みが浮かべられていた。

「話の展開的には、帰ってもらわなきゃ困るな。だが俺としては帰れなくていいとも思う」
「え」
「出版するのは帰還したものにするさ。読者が望んでいるのはそっちだろうしな。ただもしかしたらの話で、元の世界に帰れなかったら帰れなかったでそれもアリなんだろうと思うんだ」

にやりと音がしそうな笑いだ。ハッピーエンド至上主義の僕としてはそんなすっきりしない展開は御免被りたい。
僕の微妙な心境を汲んだのだろうか、彼は鼻を鳴らして口を開いた。

「主人公は帰還に失敗する。元の世界への道はもう存在せず、改変された世界に残るしかない」
「けれどそうしたら主人公が可哀相です。彼だけが元の世界のことを覚えていて、僕だったら頭がおかしくなったのだろうかと悩むでしょう」
「ああ、そうだろうな。だが改変後の世界にも、愉快な力はないにしろ仲間だった奴らはいる。彼らの本質は同じさ。そいつらは主人公を巻き込んで、いつか何も知らずに仲を深めていったように仲間になるんだろうよ」
「そんな」
「で、あるとき主人公は思うのさ。これがあるべき世界なのかもしれない、ってな」

彼は歌うように告げる。きっと前から頭の中にあった話なのだろう、言い淀むこともない。

「帰れないことを主人公は悲観しはしない。仲間が幸せなら、って思うのかね」
「それは、本当に幸せなんでしょうか」
「さあな。仲間とやらに聞かないことには分かり得んだろうが。……少なくとも、主人公の方は幸せになれたらしい」
「そうなんですか?」

彼はそこで唐突に机を埋めている文庫本を手に取った。彼のデビュー作、小説家としての彼のスタートとなった話だ。少年が少女と出会い、仲間を増やし、不本意ながらも愉快に非日常に巻き込まれていく最初の話。
滑らかな表紙を、引きこもっているせいで真っ白になってしまった指が撫でる。時折こうして優しく本に触れる姿を見掛ける。傷付けないようにゆったりと、僕が思い付く全ての優しさを詰め込んで。生憎と僕はあまり語彙力がある方ではないのでうまく表現はできないのだけれど、慈しむようなという言葉が似合うと感じる。子供を可愛がるとも違う、ペットを構うとも違う、恋人を愛おしむとも違う。懐かしい友人とのやり取りをふと思い付いて思わず微笑んでしまうような。
何を考えているんですか。
尋ねそうになって口をつぐんだ。彼にだって秘密にしたい彼だけの思いがあるのだろう。高校生のとき会ってから他校同士でこそこそ気持ちの確認をしていた僕たちの間には、長い時間という名の信頼の証は存在していない。彼の過去のことを僕は知らない。そして無理に聞くことを恐ろしいと思ってもいる。つまるところ、彼の一番として彼のことを全て知っていたいという気持ちと、拒絶されたらという恐怖を持ち合わせているのが僕なのだ。
綻んだ口元が言葉を紡ぐ。柔らかな声音に胸が音を立てた。軋んだ音なのか高鳴った音なのかは分からない。

「主人公は、改変された世界で仲間と出会う。楽しい日々の中で好きな人を見付け、思いを通じ合わせる」
「はあ」
「何とか高校を卒業してぎりぎりで大学に入って、ふと小説を書こうと思い立つ。昔から文章を書くのは嫌いじゃなかった。そうだ、向こうの世界での経験を物語ろうってな、思い付くのさ」
「っ、それって、」
「運よく賞を取って作品はヒット。彼の過去の経験は多くの人の目に触れることになって、主人公は小説家になる」

本を相変わらず優しく伏せ、彼はようやくこちらを仰いだ。吸い込まれそうな色をした瞳は僕を真っ直ぐに射抜く。口の端はゆるるかに上を目指す。

「小説家はそれからも物語を書く。昔の話と、いつだったかあちらの世界の友人としたくだらない妄想を素にして。彼の家には毎週恋人が訪れて体調を気にかけてくれるんだ。食事は採ったか、眠ってるか。コーヒーはブラックでなく砂糖を入れてくれたりな。いつだって大切にしてくれる。なあ、幸せだと思わないか。こんな結末もアリだろ?」
「あなた……」
「…………なんて、な」

くすりと笑って、彼はパソコンに向き直る。カタカタとキーボードを叩く音が聞こえる。僕はそれを、何故だかいやに切ない気持ちで耳にしていた。
面白くない冗談と笑い飛ばせばいいはずだ。彼もきっと、そうして流してもらうことを望んでいるのだろう。何が真実なのか。臆病な僕は問いただすこともできはしない。
唯一今の僕にできるのは、側にいたいと焦がれることと、彼が欲したときに抱きしめることくらいなんだ。

「ねえ」
「ん」
「今日泊まっていきますね」
「……好きにしろ」

沈黙が落ちる。彼は指先の動きを止めることもなく何時間も何時間も執筆を続けるのだろう。僕はたまにコーヒーを煎れ、彼のために雑炊でも作り、やけに小さく見える背中を眺め入る。そして朝には、カタカタという音で目を覚ますのだ。

「その物語の主人公は、元の世界に戻って幸せになれるんでしょうか」

僕が声をかけない限りこちらを振り向きもしないだろう背中に問い掛ける。
平凡な主人公の幸せを、僕は願う。彼の作り出した世界の全ての登場人物に優しさが降り注ぐように。だってハッピーエンド至上主義者は欲張りで、彼も僕も彼の物語の主人公も彼の先程の空想の主人公も、みんながみんな幸福になってもらわなければ気に入らないのだから。
彼は背を向けたままで声を張る。その唇は弧をえがいているのだと思った。

「さてな。俺ほど幸せにはなれないとは思うが。少なくとも、お前以上の恋人なんぞできやしないだろう?」



いつか(、あなたが過去に経験したのかもしれない賑やかで愉快で不可思議な経験を、穏やかに柔らかに平淡に僕へ話してくれること)を待つ。





END.

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