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次の日も、彼は僕の元を訪れた。日も暮れかけ、夜が近づくのに比例して寒さが迫ってくる頃。やはりというべきか僕の執筆する気力は午前いっぱいで切れてしまい、昔集めた書物に目を通していた。読み始めると止まらなくなるのは昔からの悪癖である。そのせいか全く気付かなかったのだが、すでに彼は訪れていたらしい。肩を軽く叩かれたことで背後に居ることを知る。勝手に入って構わないと伝えてあるからか、幼馴染は我が家へ侵入することに遠慮がない。僕としても戸を鳴らされる度に出歩かなくともよいので助かっている。
ぷつりと集中力が途絶えたのを感じて振り返れば、出来の悪い生徒を見るような目をした彼が立っていた。服装こそあまり変化ないが、昨日別れたときよりもどこか疲れ気味に見える。

「また本ばかり読んで、たまには外へ出掛けたらどうなんだ」
「僕が外出を嫌っていることくらい、百も承知でしょう」
「それは家に引きこもっていい理由にはならんな。仕事もどうせすぐに取りやめたんだろう」
「ああ、大当りです。もう今日は諦めました」
「馬鹿者」

眉を揺らしてから息を吐き出した彼は、そのまま畳の上へ胡座をかいた。きっとまた何か話をしに来たのだろう。読書に勤しむ気も削げてしまった僕は、体を反転させて彼と向き合う。お茶を煎れなければならないとも思ったのだが、どうしてかこの場を離れるべきではないような気がしていた。口にせずとも、彼が僕にこの場を離れないでくれと思っているように感じたのだ。
やけに緊張し始めた僕のことなど知らず、彼は口を開く。普段は心地いい低音が、訳も分からないままに耳についた。

「古泉、もしもさ」
「はい」
「もしも、俺が居なくなったら、お前どうする」
「え……」

驚いて真っ正面から見た彼の顔は、相変わらず隈が色濃く残っていて、見ているだけで痛々しいように思える。けれど瞳だけはその疲れなど霞ませるほどに真剣な光を宿していた。彼がこれほどまでに真面目な顔をしているのを見るのは久々だ。教師を目指しているんだと明かされたとき以来だろうか。あの時と同じ。何か大切なことと真っ直ぐ向き合って、それが故に迷っている表情だ。
僕を鋭ささえ感じさせる目線でもって見詰める彼からは、冗談を言っている雰囲気は見受けられない。元より彼はくだらない冗談などは好かない性分の人だ。これは、彼が本心から尋ねたいことなのだろう。
彼が、居なくなったら。
ぞくりと背中に震えが走った。彼が居なくなったらだなんて、そんなことを考えたことなどはない。幼い日から離れたこともない彼が、僕の傍から居なくなる。この世の誰よりも愛おしくかわいらしい彼が、僕の与り知らぬところへ行ってしまう。もう会えなくなるし話せなくなる。食事を作ってもらうことも一緒に昼寝をすることもなくなる。もう、二度と。

「悪い悪い、面白くない質問だったな」

僕が相当酷い顔をして絶句していたのか、そう言って彼は笑う。ちょっとした例え話だと告げられてもどうにも信じられなくて、やはりなかなか声を出すことは叶わない。ぱくぱくと縁日の金魚のように情けなくも口を開閉するのみだ。
彼は苦笑を浮かべ、僕の肩を叩いた。白菜を買って来てくれないか、たまには外へ行きなさい。そう言って立ち上がる。襖の向こう側へ姿を消した彼を追い掛けることが出来ないわけではない。けれど僕の足は意思とは無関係に玄関へ向かって歩き始めた。財布を懐へしまうことも忘れず、彼からおおせ付かった買い物を完遂させるために扉を開く。もやもやと胸の内を占める憤りには、とりあえず蓋をして。



久々に出歩いた商店街は、相変わらず活気づいている。静かなところを好む僕とは違って彼は少しくらい騒々しい方が楽しいらしく、共に買い物をするときはいつもここへ来ることになっていた。今日は一人きりだが他の店をろくに知らないので、致し方なしにそこかしこから上がる声の中をゆったりと進んで行く。
彼の発言を思い出す。ようやく冷静になってきた頭は、考えれば考えるほどに答えを出すのを渋るようだ。意味など持たない例え話だと結論づけてしまえばそれまでだろう。だが常にはない彼の真摯な態度に、彼の幼なじみであり恋心を抱いている僕は、ただ事ではないと感づいていた。
居なくなる。それは僕の前からという単純な話なのだろうか。それともこの町から、いや、もしかしたらこの国から。外国にも興味があると軽口を叩いていた彼だから、ありえなくはない。そうだ、先程の言葉は、この町を出てどこかで働くというのを遠回しに僕へ伝えたかったのではないか。まだ心が決まらず僕からの応援がほしくて。
彼ならばどんな場所へ行ってもやっていけると思うし、実際そうだろう。向かった先で一生懸命に働き、周りの人に愛されて幸せに暮らす。そうしてきっと、僕の恋が叶うことは勿論、こうして毎日のように顔を合わせることも難しくなるのだ。それでも彼が望むのならば、僕が彼の選んだ道を進むことを拒み得ない。それは、決して許されない。
むなしいものだと思った。親友を好きになどなるものではない。一番信頼されているからこそ一番にその人のことを考えて動かなければならないのだ。利己的な思想には気付かないふりをしてしっかりとその背中を押すことが、もはや使命なのだろう。



「古泉センセイ!」

何度も何度も空回りする頭を必死に働かせて考え込んでいると、ふいに大きな声で名前を呼ばれた。聞いたことのある声だ。知り合いだろうか。声音には多分に心配そうな響きが含まれていて、たいそう暗い顔をして歩いていただろう自分に軽く舌打ちをした。
顔を上げて辺りを見渡せば、大根を手にこちらを見る男と目が合った。予想通りそれは知った顔で、慌てて普段身につけている微笑みを装備する。

「谷口さん、こんにちは」
「こんちは! 珍しいよな、古泉センセイが一人で外出するなんて。明日は雨か?」

明るい笑みを浮かべたのは、この商店街で八百屋を営む谷口さんだ。人好きのする笑顔と馬鹿正直な性格で皆から好かれている人である。彼と僕もこの町へ来た頃から交流があり、特に彼とはたまに飲みに行く仲らしい。






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