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「なあ、古泉。百年桜を知っているか」

彼が唐突に僕へ問い掛けた。
そのとき僕らは、刻々と日が短くなっていくことに寂しさを感じながら適当な雑談をしているところだった。火鉢に当たる彼は僕のすぐ後ろに腰を下ろしていて、机に向かう僕へ何ということもない話題を投げかける。作業をしながらなので返事はどうしてもおざなりなものになりがちなのだが、それでも気にはしないらしい。ずずずと先程出したばかりのお茶を啜る音。そのすぐあとにひょいとされるわけの分からない話。いくら長い付き合いとはいっても、相変わらず彼は掴めない。
筆を進めることが面倒になってしまったので、大人しく眼鏡を外す。ふと振り返れば彼が饅頭を口に運ぶところだった。決まりが悪そうに頬を掻いたのを見守ってから軽く笑うと、彼も少しだけ楽しそうに笑みを零す。

「百年桜、ですか」
「そう。聞いたことはあるか」
「いえ、生憎と」

記憶を巡らせてみてもそんなものの話を聞いた経験はない。小説やコラムのために情報収集は欠かさない僕だが、どうやら彼には負けてしまったようだ。

「生徒に聞いたんだがな、なかなか興味深い話だぞ」
「どのようなお話なのですか。是非お聞かせ下さい」
「まあ待てよ」

左手に持ったままの饅頭を口に放り込み湯呑みを傾けるのを見ていると、子供の頃を思い出す。彼は生徒たちが茶化すほどに童顔だから尚更だ。本人に言ったら咎められてしまうに違いないが。
カッターシャツとネクタイ。僕にはとんと縁のないものを着込んだ彼は、億劫そうにボタンを緩める。大人になった彼は、知らぬうちに洋モノを纏うようになった。着物姿も似合っていたがこれはこれで彼の黒い髪がよく映える。文明開花が唄われる時代に着流しを着ている僕は古いのだと、彼にも何度となく洋服を薦められた。けれどあまり家から出ない僕には無用なものだ。見かけよりも楽なことが重要なのだと述べたときの彼の表情といったら、今でも思い出せる。
一息ついたのか胡座をかいたままでこちらを向いた彼は、意地悪じみた顔をする。

「学校の裏の山に桜の木があるんだが、見たことはあるか」
「ええ、あのたいそう大きな桜でしょう。どれだけの間あそこに植わっているのやら、あまりに立派で驚いたものです。また行きたいものだとは常々思っているのですが」
「ああ、咲いたら弁当でも持って行ってみるか。しかし、それがな、どうやらいわくつきのものらしいんだ。話によると、百年に一度春でないときにあれが咲くときがあるらしい。それも一晩でな」
「ほう、狂い咲きですか」

過去に一度だけ見上げた桜を思い出す。天に届くかと思われるほどの高さへ伸びた木は、これぞ桜といった堂々とした顔で人々を見下ろしていた。その美しさといったら、筆舌に尽くし難いとはあのことだと思ったものだ。地元の者にも大切にされ、いわくつきのものだとは少々考えづらい。
僕が余程可笑しな表情を浮かべていたのだろう、彼は薄く微笑む。

「実はその桜が季節外れに咲くのには予兆があるんだそうだ。まあ、この辺の話は信憑性に欠けるんだが」
「何があるのですか」
「……人が消えるんだと。ぱっと、誰も知らないうちにな」
「人が消える……」
「そうだ。美しい百年桜に導かれて神隠しに合うんだと、生徒は面白おかしく言っていたが」

まあくだらない伝説だ。そう言って立ち上がった彼は、律儀にご馳走様と呟いてから湯呑みを台所へ持って行った。他に家人の居ない我が家で家事をするのは、もちろん家の主人ということになる。しかし僕が昔から不器用なことを承知済みな彼は、普段からこうして気を遣ってくれるのだ。申し訳ないと思いながらも甘えてしまうのだから、僕もたいがい調子がいい。
机に広げていた原稿を一つにまとめる。今日はもう一文字も浮かばないだろうと勝手に諦めをつけ、自分のものである生ぬるいお茶で喉を潤した。手を拭いながら戻ってきた彼は呆れ顔だ。仕事をしなさいと諭されてしまうだろうか。しかしそんな僕の考えなど知らないとばかりに、彼は身支度を始める。

「もう帰られるのですか」
「家で伯母が待っているんだ。邪魔したな」
「いえいえ。また来てくださいね」
「ああ」

玄関から笑顔で出て行く彼を見送るが、部屋に戻る気にはなかなかなれない。百年桜の話は面白いが、それよりも彼の伯母のことだ。
噂に聞いた話によると、彼の伯母は彼にお見合いを持ち掛けているらしい。相手は伯母の娘、つまり彼の従姉妹だ。彼のことが相当気に入っているらしく、月に何度も訪ねて来るらしい。男の一人暮らしに押しかけるなど常識外れもいいところだ。しかし彼の母親は姉である伯母にかなり弱いということで、顔を立てるためにも無下には出来ないのだとか。
迷惑な話だ。彼の靴がなくなった地面を見つめて舌打ちをする。僕ほど彼と共にいたわけでもないくせに手に入れようだなんて、甚だ可笑しい。何も知らないくせに。彼がまだ当分結婚なぞは考えていないことなど、見ていればすぐにでも分かる。
考えながら、僕は抗いようのない嫉妬が胸に広がっていくのを感じていた。
僕も、彼のことを好いていたのだ。





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