夕暮れ空論 もしも出会わなければ、きっと俺は普通にまともな人生を歩んでいたのに。 もしくは、こいつが俺を好きにならなければ。そしたら、幸せに過ごせただろうに。 「……それを当の本人に告げる意図はなんですか」 微妙に眉をぴくぴくさせながら、古泉は俺に問う。 怒ってる? いや、悲しんでいるのだろうか。または、困惑か。駄目だ、こいつの表情から頭の中を理解するには、俺はまだまだ未熟すぎる。 もそもそとそんなことを考えていると、へたりと下がる眉。ああ、形が綺麗だ。 「しょうもないことに頭を悩ませているようなので言わせてもらいますが、」 「しょうもないとはなんだしょうもないとは。どれだけ崇高なことに思考を巡らせていたかなぞ知らぬくせに勝手なことを」 「知っていますよ、少なくとも崇高でないことは。いいですか、僕は別に貴方の質問に対して怒りを感じてなどいません。単純に疑問に思ったので質問したまでです。Do you understand?」 「……いえす」 やけにいい発音で英語を話す奴だ。全くカンに障る。 しかし、質問とはなんだったろう。会わなければ〜と俺が言って、それを何故本人に言うんだという話だったか。 古泉と会話をしていると話題がずれて困る。好きな野菜の話をしていたのに、気付いたらNASAの歴史について語られていたこともあった。お喋りめ。 「だって、そう思わないか」 「僕らがもしも出会わなければ、ですか」 「もしくは、お前が俺に惚れなければ、だな」 「そうですねぇ」 そんな考え込むふりをしなくても分かるだろうよ。 もしも出会わなかったら。 俺はきっと今以上に平々凡々な高校生で、彼女なんて卒業してもできないだろう。普通に成績に見合った大学に行って、そこで物好きな女性と恋にでも落ちるのかもしれない。そしてどこかのサラリーマンな俺は、妻子のために一生懸命働くのだ。 こいつと恋仲にならなかったら、その平凡な人生に古泉一樹という友人の名前が刻まれるだけだろう。確実に、恋人というカテゴリには入らない存在が。 うむ、こんなところか。 「まあ、確かにそんな感じかもしれませんねぇ」 「だろう? 平和で幸福な人生設計だとは思うまいか」 「平和だとは、思いますが」 くすくすと、羽音のような微かな笑い声。もっと豪快に笑えばいいのに。つくづく女のような奴である。 じとりと睨んでやると、すみませんなんて謝ってくる。 全く、何なんだ。 「いえ、何でも」 「意味が分からん」 「気にしないでください。それこそどうでもよいことですので」 元よりそのつもりだ。こいつの言動一つ一つにつっこんでいたら、俺がもたない。 あー、暇だ。こんな話持ち出したのは失敗だった。することがないからって語るようなことではなかった、本当に。 秋。そろそろ寒くなる。 暗くなりつつあるというのに姦しい女子組は部室には帰って来ていない。やはり出掛けたまま帰ってしまったのだろうと小さく溜め息を吐いた。言っていけばいいのに、面倒な奴だ。 「古泉ー」 「はい」 「帰るか?」 「ええ、そうしましょうか」 かたりと音をたて、席を立つ。 また特に何をするでもなく時間を無駄にしてしまった。もったいないなどと言うほど日頃たいしたことをしているわけでもないが、何となく損をした気になる。 この時間にすごいことが出来たんじゃないか、とか。この時間にどこかですごいことが起こっているのではないか、とか。 つまりは、ないものねだりなわけである。 「ところで」 「うん?」 面倒臭いし、鍵は明日こっそり返しておけばいいだろう。先生も気付きやしないさ、こんな辺鄙な部室の鍵がないことなんて。 適当に脳内で呟きながらポケットに金属を突っ込む。鞄も持って、扉を開けて。 振り返ると、少々真剣な顔の古泉が。逆光のせいでどこか近寄りがたい雰囲気のそいつは、変わらず笑っているようである。 「結局、どうしてあのようなことを話されたんですか?」 蒸し返すような話だったわけでもないのに、律儀な奴だ。 しかし、はて。俺は一体どうしてあんな話を始めたのだったか。 「もしも俺達が出会わなかったらさあ」 「はい」 「普通でまともな人生が送れたと思うし」 「そうですねぇ」 「もしも恋仲なんかにならなかったらさあ」 「ええ」 「もっと簡単に幸せになれるかもしれないし」 「否定はしませんよ」 「でもな」 ポケットの中で鍵が笑う。 こんなことを真面目に話すなんて馬鹿みたいだ。俺だって、自分を笑ってやりたいくらい。これから言うことでどれだけ恥ずかしい思いをするかわかってるくせに、やめないことについてさ。 「まともに生きるより、楽に幸せになるより、お前に出会えてよかったなあって」 外が赤いわけである。 秋の空は高く遠く、どこまでも続くように俺を見下ろす。 願わくばそれによって、頬が赤いのがばれないといい。俺も、俺を捕まえる奴も、赤にのまれてしまえばいい。 こいつと出会えたからまともな人生でなくて、相思相愛だからなかなか幸せは見付からない。 なんだかもう、それでいいんじゃないか、なんて。 END. |