百万回目の人生に 「百万//回死んだ猫」オマージュ 死ネタ、微微グロ注意 その人は、死にませんでした。 いえ、この表現には少々誤解が生じるでしょうか。正確には、その人は死んでもすぐに生まれ変わったのです。 前世の記憶もそのままに、時を変え場所を変え、何度も何度も生を繰り返しました。そして、彼にはそれが当たり前だったのです。 彼にとって死とは恐怖ではありませんでしたし、周りの人間がどう生きていようとも興味はありませんでした。だって、自分はどう生きてもまたやり直せるのですから! 生きることに必死になることは、決してありません。 けれど彼は、自分のことを不幸だと思っていました。自由になることがなかったからです。 あるとき彼は、家のものでした。 生まれた家庭は大企業の社長宅で、一人っ子であった彼は、跡継ぎとしての教育を一身に受けました。生まれたときからお前の人生は決まっているんだと、彼の父親は誇らしげに言いました。 その言葉の通り、彼は忠実に跡継ぎとして生きました。 学校も職業も結婚相手も、彼が望もうと望むまいと向こうからぽんぽんやってきました。 彼は、広いベッドの上で体中に管を巻かれながらその生涯を終えました。 あるとき彼は、両親のものでした。 生まれた家庭は大変貧しく、父も母も毎日喧嘩をしていました。壁紙の剥げかけた隅のほうに身を寄せ、彼はいつも俯いていました。 学校に通うようになったせいで多くのお金が必要となり、家はより一層貧しくなりました。 父親は、お前のせいだと彼を蹴りました。母親は、あんたのせいよと彼を殴りました。それでも彼は泣きません。両親は、そんな彼をいつでもいつまででも痛めつけました。 彼は、腐りかけた畳の上で空腹に眉を寄せながらその生涯を終えました。 あるとき彼は、妻のものでした。 親戚に集まった時に出会った従兄弟に、彼はとても気に入られていました。たまに出会う度に付き合おうと言われ、いつの間にか二人の結婚が親戚中の暗黙の了解となっていました。 彼は妻のために働きました。記念日には必ず祝い、欲しいものがあると言われれば何でも買ってやりました。子供は二人おり、そのどちらも妻似でした。 彼は、布団の上で妻が買い物に行っている間にその生涯を終えました。 そうして、彼の百万回目の人生がやってきました。 親は至って普通のサラリーマン。ほどほどに彼のことを可愛がってくれ、無理に結婚を迫ろうとする人にはまだ会っていません。大学を出てから小説家となり、自分のタイミングで仕事をします。そこそこ広いアパートで一人暮らしをし、恋人はなし。 彼はそのときになって、ようやく自分のものとなったのです。 彼――このときの名前は古泉一樹といいました――はとても美しい容姿をしていました。女性は熱の篭った視線を彼に向け、男性は羨望と嫉妬の入り混じった目で彼を見ます。それは決して悪い気分ではなく、むしろとても心地のよいものでした。 けれど、一人だけ例外がいました。彼を担当する編集者の男です。 その男はみんなからキョンと呼ばれ、優しそうな瞳と厳しくも真っ直ぐな心を持った人でした。そして、いつも古泉など見向きもせずにただ淡々と原稿を手にして帰って行きます。 ちやほやされるのに慣れ切っていた古泉は、それが気に入りません。 「キョン君、昨日通帳の預金が一億円を越えたんですよ」 「そうなんですか」 「キョン君、この時計もういらないのであげます」 「ありがとうございます。ですが、結構です」 「キョン君、再来月分のコラムまで終わってしまいました」 「お疲れ様です」 いくら気を引こうと話をしても、キョンは面倒臭そうに作り笑いを浮かべるだけです。今まで他の人間はこれで食いついてきただけに、古泉は困惑しました。けれど、その度にキョンのことが気になっていきます。 どうしたものだろうと考えに考え、自分の願望をぶつけてみることにしました。 「キョン君」 「なんでしょう」 「…夕飯、食べていきませんか」 「では、お言葉に甘えて」 初めて自慢話も何もなしに声をかけると、すんなりと許可をしてくれます。そのときのキョンの表情を見て、やっと古泉は気が付きました。 ただ、認めてほしかっただけなのです。一緒にいたかっただけなのです。 彼は、キョンのことを好きになっていたのでした。 二人は共に暮らすことになりました。古泉の提案に、キョンは作り笑いではない、しかし苦い笑みで頷いたのです。 朝起きれば、隣には好きな人がいます。おいしいご飯を毎日作ってくれ、彼が疲れたときに慰めるのは古泉だけの仕事です。何不自由ない時間が、毎日毎日過ぎていきました。 古泉は、百万回目の人生にして漸く自分は幸福だと思いました。 「貴方と僕で、たくさんの本を作ってきましたね」 「そうだな」 「たくさん一緒に過ごしてきましたね?」 「うん」 「ねぇ、僕は今幸せですよ」 「そうか」 「…これからも、そばにいていいですか」 「……ああ」 そんな、ある日でした。 いつも通り目を覚ました古泉は、腕の中のキョンの異変にすぐに気が付きました。固く瞼を閉じて、唇を薄く開いて。 鼓動がしません、呼吸がありません。 キョンは、静かに静かにしんでいたのです。 古泉は泣きました。 悲しくて寂しくて、頭がどうにかなりそうだったのです。 声を殺すことも、嗚咽を我慢することもなく、叫んで喚いて泣きました。仕事などしている場合ではありません。食事などしている場合ではありません。呼吸をするのさえ煩わしく感じるほど、彼は泣きます。 朝も、昼も、夜も。 泣いて泣いて泣いて泣いて。何日も何日も、百万回泣いて。 そうして、キョンの隣で、古泉は丸くなりました。 彼も、やはり静かに静かに、動かなくなったのでした。 それから、百万回死んだ男が生まれ変わることはなかったそうです。 END. |