こいくるり その人は神さまみたいだった。もしくは母親のようだった。 優しくて、絶対の味方で、自分の幸せを願ってくれる。その人が自分のことを見ていてくれるのならばなんだってできる気がした。なんだって許される気がした。 迂闊だったんだと思う。思ったことが口から落ちていったのは、オタクだからと言い訳をしても迂闊だった。独り言を言う癖をなおさなくてはと思い続け、結局のところ今日まで患い続けてきた結果がこれだ。後悔したところでもう遅い。 好きです。 たった一言。たった四文字。けれど気が遠くなるほど重たくて、目が回るほどに神聖な言葉。伝えるつもりなどなかったというのは芹澤の言い分で、目を丸くしてこちらを見る鷹司には関係のないことだ。 放課後の教室だった。芹澤は学級日誌を書くために、一人残っていた。本当はもう一人日直がいるはずなのだけれど、生憎と今日は風邪だとかで休み。クラスメイトに手伝いを頼むほどでもないからと、一日やりとおした。あとは日誌を書き上げて真山の机に提出すれば終わり。どうということもなかった。 もう一息で書き終わるというときに教室を訪れたのが、件の鷹司である。相変わらず整った顔に驚きの表情を乗せ、男前な声で「どうしたんだ」なんて尋ねてくれる。さらには日誌が書き終わるまで一緒にいていいかなんて、断るわけがないことを言ってきたりする。 そうだ、断るわけない。だって芹澤は、鷹司のことが好きだった。 「好き」にも色々ある。芹澤の「好き」は、その多くが「萌え」と言い換えられるものだった。アニメ、漫画、小説、またはそのキャラクター。好きなものは萌える。萌えるから好き。 萌えじゃない好きは存在しなかった。鷹司と話すようになるまでは、だけれど。 芹澤が綴る文字を眺め、鷹司の目は伏せられている。そうすると長く濃い睫が頬に影を作って、美しいと同時に恐ろしくも思える。ありていに言うならば陶器のような肌がさらりと柔らかくカーブを描き、その中間地点で薄い唇が淡く色づいている。しなやかな髪が風に揺れる。それなりに男らしい喉が時折唾液を嚥下する。筋張った指が机をなぞったり組まれたり、そのたびに芹澤の心臓は情けなく悲鳴を上げた。 美しかった。思考停止するほどに美しかった。彼が呼吸しているというその事実だけで世界に感謝して回りたくなった。彼の声で名前を呼んで、出来得るならば褒めてほしかった。これが「好き」で、「恋」であるのだと確信していた。 独り言の癖のせいで吐露してしまった四文字は、そんなどうしようもなく甘酸っぱい感情を込めたものだったのである。 鷹司は何も言わない。まるで知らない国の言葉で話しかけられたかのように、きょとんと芹澤を見つめるだけ。意味を理解していないのだろうか? そんな様子を見ていると、本来ならば取り繕うべきところだろうに、理解してほしいなんて思ってしまう。 「好きです。鷹司……、くん。」 囁きみたいな小さな声。けれど他に人のいない教室で、目の前の男に伝えるには十分な声量。もう一度言葉にしてしまったら止まらなかった。いつもは布団のなかで、神さまに祈るだけの言葉。口にすることなんて一生ないと思っていた言葉だ。 「好きです、好きなんです。友だちとかそういうのじゃなくて、鷹司、くんのことが、ボクは好きなんです」 いつもの気弱さはどこへ行ったのだろう。じっと相手を見つめ、言葉を重ねる。いくつもいくつも。誤魔化しなんてしたくなかった、叶うことなんてないと分かっていたけれど、知ってもらえるだけでももうよかった。キミのオタクな友だちは少し道を踏み外してしまって、今日想いを告げたことでまた友だちとしての道に戻るんだ。だから今この瞬間だけは偽りたくなかった。よこしまな思いで見る最後の鷹司の姿だ、目を逸らしたくなかった。 ボロボロと零れ落ちていった言葉を追うように、鷹司の視線が落ちる。何が起きたのかわからないとでもいうような無防備な表情から、徐々に困惑、そしてそこに微かに暗い色が落ちるのを、芹澤はずっと、見ていた。 「好き、っていうのは」 芹澤に負けず劣らず小さな声。朗らかながらはきはきとした発声をする彼にしては珍しいことだった。驚く間もなく、顔を上げることのない鷹司は言葉を続ける。 「芹澤の言う好きっていうのは、どういう意味でだ?」 「どういうって、さっき言ったじゃないですか。友情なんかじゃなくて、ボクは、恋愛として鷹司くんのことが好きなんです」 「恋愛?」 「……はい」 それだけ聞いて、また押し黙る。じっと何かを耐えるように口を噤んで、芹澤もまた動きがあるまではと唇を噛む。告白をして、あとはその返事を待つだけだ。フラれることなど分かりきっているから何に期待するでもない。ただ、友だちに戻るタイミングを待つ。 ふと、鷹司が顔を上げた。蜂蜜のようなとろりとした瞳が芹澤を射抜く。そこに滲んでいる感情に、思わず息をのんだ。 「すまないが、聞かなかったことにしてもいいだろうか」 そこにあったのは、少しの嫌悪。鷹司は芹澤の好意にたいして、嫌悪感を抱いているようであった。 かあっと体温が上がる。羞恥のような憤りのような悲痛のような、激しい衝動が体を駆け巡る。 「そんなつもりはなかったんだ……。本当に、ただの友人として俺は芹澤のこと尊敬していて、きっと芹澤のそれも勘違いで」 とつとつと語られるのは言い訳に近い言葉たちで、そんなにも自分の好意は迷惑だったのかと思う。気持ちが悪くて、理解するのも嫌で、記憶からも消し去りたいような、そんなものだったのだろうか。 申し訳なさそうな、それでいて冷淡な表情。鷹司の顔立ちは整っているがために笑みが消えれば突き放されたような不安感を抱かせる。自分に向けられたことは、一度としてなかった表情だった。 いつだって彼は芹澤に微笑みかけてきた。目を輝かせて、弾んだ口調で語りかけては、芹澤を受容して認めて褒めてくれた。たしかに鷹司にとっては友情の表れだったんだろう、けれど芹澤にとってはそうではなかった。そうではなかったのだ。苦しくて、さみしくて、それでもその柔らかな声で名前を呼ばれればそれだけでもう何もかも世界中のすべてが優しく見えるような、そんな感情を抱かずにいられなかったのだ。 本当にただ、好きなだけだった。隣にいられることを許されるなら友人でよかった。恋愛感情を否定されたってよかった。なのに鷹司は「聞かなかったことにしたい」と言った。なかったことに、はじめから芹澤の恋など存在しなかったことにしたいと、そう言った。 それはだめだ。それだけはだめだ。 ふつふつと、体を支配する熱はその温度を上げる。 「嫌だ!」 悲鳴みたいな声だ。たぶん廊下まで届いた。けどどうだっていい。誰がきいていたって今は気にするものか。 鷹司はまた、目を丸くしていた。その表情や瞳から冷たさは消えていた。芹澤を真っ直ぐに見て、声を聞いている。 「ボクがキミを好きになったのは勘違いなんかじゃない! なかったことになんてさせません! だって、だって、ボクがキミを好きになるようにしたのは、キミなんだ!」 しかたないことだ。好きにならずになんていられなかった。鷹司のことを困らせたって、どんな風に思われたって、もしかして友人にさえ戻れなくなったって、彼のことを好きになったのは必然にすら思えた。 「惚れちゃうでしょ! こんなイケメンが! いい匂いさせて! 優しい目して! 自分の顔のぞき込んできて、自分の後ろめたい趣味認めてくれて、自分のことかっこいいって言ってくれて! 惚れちゃうに決まってるでしょ!!」 そんなつもりなかったなんて言ったところで知ったことか。そんなつもりになってしまったんだから仕方ない。 散々優しくして、芹澤の全て肯定するようなことして、好意が受容できないなんて、あってたまるものか。 「今さら、ボクのこと捨てる気ですか!」 ぐぐぐと目元が熱くなる。鷹司は未だぽかんと芹澤を見上げていて、そこでようやく自分が立ち上がっていることに気付く。息が上がって呼吸が苦しい。なんてみっともないんだろう、このうえ泣くなんてそんな醜態晒すのは耐えられなかった。 制服の袖で目元をぬぐう。辛うじて涙は出ていないけれど、今もし自分一人だったら我慢することはできなかっただろう。悔しかったし腹立たしかった。鷹司とはこの何か月か、友人として浅からぬ関係を築いてきたつもりだったのだ。であるのに告白を真摯に受け止めてもらえないほど軽く見られているという事実に直面して、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。 ぐしぐしと何度も腕で顔を擦っていたが、くいと止められる。腫れぼったい瞼を開いた向こうで、鷹司が芹澤と同様立ち上がり、こちらを窺っていた。見惚れるくらい綺麗な顔には微笑みが浮かんでいる。いつもと同じだ。いつもどおりの鷹司だ。 「……なんですか」 「……そうだな」 「は?」 「芹澤は、いつも俺のことを見ていてくれたんだものな」 「何を言って、え、ちょちょちょちょっとなんですかどうしましたか!」 何事かをしみじみと呟いたかと思うと、突然深く頭を下げられる。机に額をぶつけそうなほど角度がついている。そんなところまで形のよい後頭部に感心しつつ、わたわたと困惑する。 「すまなかった!」 どうしたものかと首をひねっているところに聞こえたのは、そんな謝罪の言葉であった。 「芹澤が打算なんてなしに俺のことを想ってくれることなんて、疑うべくもなかったのにな。失礼で酷いことを言ってしまった。許してくれとは言わないが、謝らせてほしい」 今度はこちらがきょとんとする番だ。好意について真剣に考えてもらえるのは嬉しい。けれどそんな風に謝られてしまうとこっちも困ってしまう。先程の芹澤の憤りは、逆切れに近いものであるという自覚があるからだ。勝手に好きになって勝手に思いを理解してもらえると思って期待を裏切られたなんて勝手に傷付いただけだ。だから、困る。 「鷹司氏? あの、もう怒っていないので顔を上げてもらえると」 「じゃあ、さっきの言葉、もう一度受け取ってもいいだろうか?」 「えっ、あっ、もちろんです、けど……」 「……」 ようやく顔を上げた鷹司は、笑みこそ浮かべているがその目は至極真剣だ。甘酸っぱい気持ちがふっとまた湧き出てくる。 緊張感を煽る真っ直ぐな視線。芸術品のような美しさは壊してはならないという思いにかられ、同時に触れて汚してしまうことになったとしたらそれもとても高揚するであろうという予感がよぎる。視界に入るだけで心拍数を乱す、美しい人。 ああ、やっぱりだ。やっぱり、どうしようもない。しかたがない。 「あ、の。……キミが、鷹司くんのことが、好きです」 怒鳴ったことなど忘れてしまいそうな、我ながら情けない小さな声。廊下には決して響き渡らないけれど、目の前のいとおしい人になら届くギリギリの言葉。受け取り手を、花開くような笑顔を求めて口から旅立っていく。 「ありがとう。好いてもらえてとても嬉しいよ」 そんな風に笑うからまた好きになってしまうのに。鷹司は今度こそ芹澤の言葉から思いから受け入れて、本当に嬉しそうに笑う。それだけでもう、何もかも許されるような気がする。 だから返事なんてどうだっていい。以前の通りの友人であるべきなのか、それとも恋心を抱いたままでいいのか。本人に尋ねることも忘れ、芹澤は机に伏せてしまうのだった。 END. 2015/07/23 |