君のささやく夜のゆううつ





ずっとずっと、夜が嫌いだった。
母親が父を思って泣く声を聞くのが嫌いだった。母と妹を待って一人途方に暮れていた日が嫌いだった。自分以外の家族が団欒する雰囲気を扉の向こうに感じるのが嫌いだった。
決して明けることのない暗すぎる夜を過ごすのはもう耐えられなかった。さみしいのも、怖いのも、苦しいのも、全部全部嫌だ。そういったもののない世界に、ずっと行きたかった。
高校に進学するのにお金が必要になったとき、夜の仕事を選んだのはそういう理由もある。いつまでも灯りの落ちることのない世界。人が常に近くに存在してそれだけでほっとした。名前も知らない赤の他人でいい。自分を傷付けることのない人間であるならそれでいい。さみしい夜を一人で耐え忍ぶよりは何倍もましだ。
ネオンにさらされて街を歩くのは楽しかった。ここにあるのは金とほんの少しの情。過去だとかその人の性根だとかそんなものは関係ない。仁は夜の街に立つことでようやく自分でいられる気がしていた。そのことがどれだけ、救いであったか。

「ヒトシくーん! 今帰り?」

きらびやかな格好をした女性に声をかけられてとっさに笑顔を作る。営業用の笑顔。学年中から騒がれる整った顔立ちと人当たりの良さから、仁はこの街に知り合いが大勢いる。お客も同業者も、皆彼に好意的だ。

「そうっすよ。皆さんはこれからお仕事ですか?」
「あたり。昨日忙しかったからまだちょっとお酒が残ってるけどね」
「そうそう、昨日この子すごかったのよ。あんなに酔いが回ってるの初めて見ちゃった」
「うるさいわねえ」
「それは見てみたかったっすね。それより時間、大丈夫ですか」
「いっけない。ごめんなさい、またゆっくり話しましょう」
「はい、また」

適当に表情を作って、手を振って、別れる。ほんの少しの時間を共有するだけ。こういうかかわりは心地がいい。だれも仁のことを知ろうとしない。必要以上に干渉しない。鬱陶しく絡んでくるクラスの女子を相手にするよりずっと楽だった。
声をかけられたら返事をして、帰路を進む。時間は今どれくらいだろう。何時に帰ったところで仁のことを心配するような家族はいないが、かといってあまり遅くなっては明日も寝坊してしまう。遅刻はあまりしたくなかった。
ここ数か月の間、学校がすごく楽しい。できることなら休みたくないし、朝から放課後までフルで参加したい。行かないのはもったいないくらい、そんな風に思えることははじめての経験だった。
高校二年での転校生。最初目があったときから彼のことが忘れられない。家で唇を噛んでいるときもバイトで接客をしているときも、明日彼と何を話そうと考えると浮足立った。友だちだと思った。人生ではじめての、友だちだった。
彼、逢坂新は別に特別な人間ではない。ほどほどに真面目で一所懸命で、本来ならば仁のようなおちゃらけた人種とは相性が悪いだろう。仁だって今まで彼のような性格の人間と親しくしてきたことはなかった。
なぜか、と問われると、自分でもわからない。彼の瞳だったのかもしれない、黒い髪だったのかもしれない、年齢の割に低い身長だったかもしれない。何が琴線に触れたのだろうか。まるで仁をおびき寄せるための匂いでも発しているかのように、一目見たときから心惹かれていた。逢坂新という存在に、惹かれずにはいられなかった。
仲良くなりたいと思った。友だちになって、ずっと一緒にいたいと思った。他の友人らも愉快なやつらだったけれど、新は特別だった。たくさん笑いかけて、たくさん話をして、からかったり怒られたりして毎日が楽しく過ぎた。
新のことが好きだった。彼の隣は呼吸がしやすかった。もしかしたら、夜の街にいるより、ずっと。
だから。だから、もし世界に二人だけになるのだとしたら真っ先に新を選ぶだろうと、そう考えていた。

「……仁?」

伸びやかな声が耳を叩く。はっと顔を上げればもう住宅地に入っていて、時折ちかちかと点滅する街灯が仁を照らしている。正確な時間はわからないけれどたぶんそろそろ丑三つ時なんて呼ばれる時間だ。自分のあだ名を呼ぶような人間が出歩いているはずがない。
恐る恐る振り返る。その先に立っていたのは、つい先ほどまで思考を占拠していた友人だった。

「どうしたんだ、こんな時間に」
「そ、れは、俺が聞きてえよ。何してんだ新。こんな時間に起きてると背伸びないぞ」
「余計なお世話だ。俺は変な時間に目が覚めたから少し買い物に行っていただけで、ずっと起きていたわけじゃない」

すっと持ち上げられた手には、いくらか行った先にあるコンビニの袋が握られている。深夜徘徊するようなタイプではないけれど、コンビニにくらいは行くらしい。中学生、下手したら小学生に見えかねない容姿の彼だから、普通の高校生が深夜出歩くよりもなんだか危うい感じがするけれど。
それで、君は。そう訴えかけるような真っ直ぐな視線から逃れるように片目をつぶって肩をすくめる。軽くごまかしてしまえ。バイトのことがばれるのは避けたい。新が学校に報告するとは思えないが、あまり自分が苦労しているだなんて思われたくはなかった。

「俺は、夜遊びみたいなかんじ? 繁華街で軽く飲んできたとこ」
「君ってやつは……。明日も学校だろう、また遅刻してくることになるぞ」
「心配しなくてもだーいじょうぶだって! 今日は遅刻しません!」

いつも冷静な目が胡乱そうに細められる。しばし無言で見つめられたかと思ったら、溜め息と同時に目を逸らされた。仕方がないなとでも言いたげな表情。それが仁は、好きだった。

「途中まで一緒に帰ろうぜ。なあ、何買ったんだよ」
「お茶と消しゴム。今日使い切ったのを思い出したからついでに」
「わざわざこんな時間に買いに行かなくても購買にあるじゃん」

どうでもいい会話。仁が話を振って新が返して、新が呆れると仁が反論する。内容なんてない。重要なんかじゃない。なのに新は律儀に返事をして、仁にからかわれる。
生ぬるい風がさあっと二人の間を抜けて行った。黒くて真っ直ぐな新の髪が風になびいて、まろやかな頬を撫でる。まるで輪郭をぼやかそうとしているようだ。耳を隠して、鼻先を隠して。辛うじて隠されることのなかった唇は先ほどの仁の言葉に弧を描いて、そのあんまりにも薄っぺらいことに勝手に不安になったりもする。
ああ、溜め息が出そうだ。穴があくほど人を眺めて、飽きることがないなんていうのは幸福だ。逢坂新はどこまでも仁を引き付ける。その表情が、言葉が、雰囲気が、仁の心が抗うことを許さない。
帰りたくないと思った。でも朝が来てほしくもなかった。仁は夜が嫌いだ。それなのに夜が終わらなければいいと思ったのは、記憶にある限りはじめてのことだった。

「それじゃあ、俺はこっちだから」

ぱちんと、夢が弾けたような心地だった。
新はいつの間にか常の感情の薄い表情で、十字路に立つ。また明日と、残酷な約束をして帰ろうとする。
待ってと口に出しそうになった。置いていかないでと言いそうだった。一人にしないでなんて泣きついたら、彼は、その足を止めてくれるのだろうか?
馬鹿みたいだ。新にはこんなさみしい夜にも、帰る場所があるというのに。

「ああ、また明日」

独り言みたいに呟いて背を向けた。自覚できる程元気のない声に新が振り返ったような気もしたが、気にせず走るような勢いで足を踏み出した。
行く先は暗い。静かでさみしくてこわい。仁を待つ人は誰一人としておらず、朝は遠い。
夜は嫌いだ。皆が仁を孤独にする。もしかしたら彼だけはなんて考えてから、必死に自分を戒める。自分の苦しみに彼を飲み込んではいけないと、でも彼なら分かってくれるのではないかと、葛藤は止まない。
歩く先に光はない。どこまでもどこまでも続く暗闇が、仁を飲み込んでいく。





END.

2015/06/22

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