夜隠れ 飯嶋律の噂は、同学年なら八割方聞いたことがあるだろう。顔は知らなくても飯嶋と聞けば、あああのなんて訳知り顔を皆がする。それほどまでにどうして有名かと言えば、いわゆる、オカルト的な存在としてまことしやかに語り継がれているからだ。 七不思議に都市伝説。この大学内において、飯嶋律の存在はそういったものに近かった。 なので、談笑していた友人が突然アッと声を上げたのが気になって顔を上げた先。飯嶋がそこに立っているのを見つけたときは、まるで自分がホラー映画の主人公になったかのような気にすらなった。 飯嶋律はオカルトへの入り口だ。彼に会ってしまったせいで何か不可思議なことに巻き込まれるんじゃないかとつい疑ってかかってしまう。普通に考えたら非常に失礼な話なのだが、本人が気にしている素振りも見せないし、たしかに「そういう」雰囲気を持ってもいるので、おかしなことに巻き込まれたくない自分としては身構えずにはいられない。 時計がさすのは午前二時。友人の家で一通り飲んだあとで、酒のお替りのために買い出しに出かけたところだった。平日のこんな時間に人が出歩いているとは夢にも思っていなかった。そこに立つのが飯嶋でなくともきっと気味悪く思っただろうが……、いや、やはり飯嶋の方が恐ろしいものがある。 「よ、よう。飯嶋」 隣で固まっていた友人が、親しげに手をあげて飯嶋に歩み寄る。声が上ずっているのが丸わかりだ。だいたい、彼と飯嶋は講義が一つ一緒だったことがあるだけだというのに変に馴れ馴れしい。無視をして怖い思いをするくらいなら、明るく声をかけて乗り切ってしまおうとでも思っているのだろう。が、それが妙な不自然さを醸し出している。 友人の声が夜に消えて数秒。飯嶋はこちらを見ない。思わず、友人と顔を見合わせてしまった。 飯嶋は、こちらに気付いていないようだった。街灯の下で何やらぼんやりと空を見上げている。真っ暗な夜道、まるでスポットライトでも浴びているかのように光の中に立つ姿は、何か神聖なものすら感じさせる。 遠くなのか近くなのか、空を眺める視線の先に何があるのか、見ている限りではわからない。ただその横顔はなんだか息をのむくらい綺麗だった。飯嶋律は不可思議な噂以外にも、その中性的で整った容姿でも有名であった。怪しい雰囲気と相俟って禁忌的な美しさがある、なんて、ミーハーな女友達はうっとりとしていたんだったか。 たしかに、綺麗だ。うっかり近づいて触れてしまったら、そのまま異世界にでも連れて行かれるんじゃないかと憶測してしまうほど。その香りで虫を引き寄せる食虫花。ふと思い浮かんだのは、そういったものであった。 「い、飯嶋?」 「え?」 友人が再度恐る恐るかけた声に、ようやく返事が返ってきた。 飯嶋律がゆったりとこちらを向く。まるで今夢から覚めたのだとでもいうように、瞳が焦点を結んでいく。 ぱちくりと瞬きを何度かしたかと思ったら、その整った顔がにこりと笑みを作った。別に彼は特別無愛想なわけではない。ただ、その笑顔が本当に彼が嬉しくてしているものかどうかは、判断しかねるけれど。 「ああ、こんばんは」 「おう。……なあ、こんな時間に何してるんだ?」 「何って、夜の散歩? 君たちこそどうしたの」 「俺たちはちょっと買い出しに……」 友人がなぜかしどろもどろに説明を始める。飯嶋は相変わらず人畜無害に見える笑顔でこちらを向いている。うん。確かに顔立ちは整っている。それ以上の不気味さは変わらずで、やはりあまり近づきたくはないが。 そんな、失礼なことを考えていたからだろうか。仕様のない思考を止めるかのように、飯嶋の後ろから、ぬっと影が躍り出た。 「うわああ!」 自分でも情けない悲鳴が出た。ホラーが苦手だと思ったことは今までなかったけれど、どうやらそれは俺の気のせいだったらしい。 ほとんど裏返った声は夜の街に響き渡って、友人がぎょっとした顔でこちらを見ている。飯嶋も驚いた顔で、その隣に立つ男性は……。男性? 「すごい声だけど彼、大丈夫?」 苦笑を含んだ涼やかな声は、飯嶋の隣の男性が出しているものらしい。今にも腰が抜けてしまいそうな俺を支えながら、友人もまた幽霊でも見たかのような表情で男性を窺っている。 その人は、年齢でいうとたぶん四十代くらいだろう。薄毛とは無縁なしっかりとした髪を後ろへ流して、油の抜けた顔を惜しげもなく空気にさらしている。その顔というのも、いわゆるイケメンというほどキラキラしているわけではないが、大御所の俳優のような大人の渋みをもっている。ちょいとかけた眼鏡もいいアクセントになっていて、フォーマル寄りなきっかりとした格好によく合っている。 と、そこまで観察しておいて、ようやく目の前の人物が生きているということに思い至った。なんてったって足がある。長くて憎たらしいほどだけれど、間違いなく地面を踏みしめている。 よかった。妖怪や幽霊じゃない。そう思うことでやっと腰や足に力が戻ってきた。 「やあ、こんばんは。律の知り合いか?」 「うん。大学の」 その男の人はにこりと唇を上向けて頭を下げた。微笑むとこれまた男前だ。こちらもつられて頭を下げると、飯嶋がどことなく気まずそうに視線を逸らした。 「こっちは僕の伯父さん。少し二人で歩きながら話していたところだったんだ」 「へえ、やっぱり。なんとなく似てるから身内だろうと思った」 「似てる……。そうかな」 複雑そうな表情。感情の乗らない笑顔以外の表情なんて珍しいことだ。友人と二人顔を見合わせて首をかしげる。飯嶋の伯父さんもまた、そんな飯嶋の様子を楽しそうに唇をひん曲げて見ているようだった。 「甥がいつも世話になっているね。こいつは愛想はないし人付き合いは悪いししかも気味が悪くて面倒くさいことこの上ない男だろう。けどまあ、気分が向いてくれたときにでもたまに存在を思い出してもらえると嬉しいよそうすれば僕の妹もきっと安心して」 「ちょっと開さん黙ってくれる。ほらもう二時半を超えるよ! 君たちも買い出しに行かないといけないんじゃないの」 「あ、ああ。そうだ、そうだったな」 「うんじゃそういうことだから」 さらっと背を向けて、飯嶋は開さんと呼ばれた伯父の腕を引いて歩いていく。これまで俺たちが歩いてきた道だ。何やら口げんかをしながら、その背中が小さくなっていく。 「意外だな」 「うん、意外だ」 俺と友人は呆然としながら呟いた。 飯嶋には親しい友人が少ない。話しかければそこそこにこやかに返事をしてくれるけれどそれだけだ。遊びの誘いに応じることも少ないし、そもそもおかしなことが起きたらと思うと彼を誘うことができる人間は本当に希少なのだ。 だから、あんな風に飯嶋が軽口をたたき合う様子を見たのははじめてだった。まるで普通の大学生のようだった。知り合いに親戚が変なことを吹き込むのを阻止しようと、顔を赤らめるなんて。 飯嶋の噂は、もしかしたら所詮噂に過ぎないのかもしれない。そんな風にすら思える。 しかしあの開さんという男性は突然に現れすぎだった。飯嶋よりも大柄だったように思うけれど、彼の体に隠れていたのだろうか? まあ暗い夜道でのことだし、俺たちが気付かなかった可能性が高いか。 考えながら歩いていると、隣に友人がいないことに気がついた。振り返った先、じっと街灯を見つめている。さっき、例の二人が立っていた場所だ。光によって道を横断するように影がすうっと伸びて、そこだけ見れば何か巨大な化け物が立っているかのようだ。 「なあ」 友人が、こちらを向いた。その顔は、夜の暗さからではなく真っ青だ。 「俺が飯嶋に気付いたの、街灯の灯りで影が伸びてたからなんだけどさ。その影、一人分しかなかった」 こちらまで血の気が失せる。 俺たちの側から開さんの姿が見えなかったということは、彼は飯嶋の向こう側に立っていたということになる。だとしたら、隣り合った二人にたいして当たった光が影を作り、二つ伸びていくはずであるのに。影ができない人間? いやいやいや、それって……。 「もしかしてあのひと、人間じゃない、とか?」 呟いた声が、やけに大きく聞こえた気がした。ぶるりと体が震え、そのくせ額から嫌な汗がにじんでいるようでもある。友人も似たようなもので、こいつのこんな深刻そうな顔、はじめて見た。 恐る恐る飯嶋たちが消えて行った道を見る。ぽつぽつと街灯が立つだけの道には誰の姿も見えない。それにほっとすると同時、まさか空気に溶けて消えてしまったんではないだろうなと変な想像もしてしまう。 やっぱり飯嶋律にはかかわらないでおこう。俺と友人はかたく心に決め、早足で目的の店を目指した。 「あー、ついてない」 心底憂鬱そうな声を上げる甥を横目に、開は笑った。じろりと睨み付けられるが気にならない。愉快でたまらなかった。 夜の散歩、というのは本当だった。なんとなく眠れないという理由で縁側に座り込んでいた律を、開が誘ったのだ。どうしてここになんていう声には笑みだけを返して。 最近睡眠をとらずとも活動ができるようになった。食事も、普通の食べ物よりも霊魂や妖魔のようなもののほうが魅力的に思われるせいで、食欲がない。家でじっとしていても仕様がないので、時折姉に心配をかけない程度にふらふらと出歩くことにしてる。その相棒に、甥を誘ったことは、一度や二度ではなかった。 「彼ら、開さんに気付いていなかったね。突然声をかけるから驚いてた」 「みたいだな。まあいいさ、どうせ友人ってわけでもないんだろ?」 「そうですけど……。またおかしな噂が流れるんだろうし勘弁してほしいよ。遠巻きにされるなら構わないけど、そういう相談を受けることもあるんだからさ」 「乗ってやればいいだろう、相談の一つや二つ」 「冗談」 律の知り合いは、律に対して恐怖を抱いているようだった。人間の社会で、異端というのはどうしてもそういった扱いを受けるものだ。 いっそのこと、律も人間でなくなってしまえばいい。そう思い、思考までも人でなくなりつつあるのかと苦笑する。 飯嶋開は、近ごろひどく人間離れしはじめていた。外を出歩いていてもまるで存在しないかのように扱われ、声をかけない以上は気付かれることもない。飯嶋の家を訪ね扉を叩いた開に八重子が気付かなかった、なんてことも何度か会った。 かろうじて、その他の親類は開を認識することができる。視たり感じたりする力が強いからか、八重子以外と接するときに開が苦労をすることはない。ただ、何となく人間でなくなりかけていることも感じているのだろう、覚あたりが気味悪そうに窺っていたこともある。 少しずつ、少しずつ。開は人間でなくなっていく。 このままにしていてはいけないと分かっていた。けれど青嵐も尾白尾黒も我関せずといった立場であるし、その他の妖魔にしても蝸牛の息子が人間をやめるなどと言って、むしろ歓迎しているようだった。 開は何になるのだろう? それはいつ起こるのだろう? いつまで、人間でいられるのだろう? 「開さんは、その体のこと、どう思ってるの」 律が少し気遣わしげに尋ねる。拗ねたような顔はもうしていないが、機嫌がよくもない。せっかくの散歩のお供が不機嫌では開としても楽しくないので、わざとらしく肩をすくめて茶化す。 「以前にもまして妖魔が目につくようになった気がする。色々と、やりやすくはあるね」 「そういう話じゃないでしょう、もっと何かさ」 呆れたような声音。 そうは言うが、律だって特別気に病んでいるというわけではなさそうだ。彼はそういう男だ。手におえることならある程度なんとかしようと奔走はするが、自らの手に余るようなら流れに任せなるようになるしかない。開が人間らしからぬ状態になっても自分の目には見える自信があるからこそ、慌てていないというのもあるかもしれない。 なるようになる。そのとおりだ。こうなってしまったのもきっと原因はすべて開にあって、だからこれは因果応報なのだ。仕方がない。そういうことだった。 「これからどうなるんでしょうね」 「さあな。こうやって少しずつ皆の記憶から消えていってそのうち本当にいなくなるのかもしれない。それとも飯嶋開はすでに死んでいて、今お前の目に映っているのは霊魂でしかないのかもな。もしくは、こっちの世界に帰ってこられたというところからして勘違いだったんだろう。ま、本当のところは分からないし分かったところでどうということもないけど」 「随分どうでもよさそうに言うなあ。自分の生死に関わることでしょ」 「僕はな律。お前に引っ張り出されたそのときから、自分が世界に存在していないような気がしてならなかったんだよ。だから今更、生きてようが死のうが関係ない」 律は目を丸くして、開からついと顔を逸らした。しばらく無音が落ちてくる。真っ直ぐと前を見て、視線は合わない。 別に律のせいじゃない。こっちの世界に帰ってきたくなかったわけではなかった。母や兄弟、甥っ子姪っ子に会うことができたのは本当に感謝しているし、失われた二十年間にたいした執着もない。平穏な日々とは言い難いが、普通に働いて食事して寝て人と会話をする毎日も楽しい。 かといって、このまま人間として生きていくことにも魅力を感じてはいなかった。人間としての理に縛られて生きるよりも、自由で残酷な妖魔の世界に心惹かれたことも片手では足りないくらいある。 たぶんそういう思いが今の状況を生んだのだろう。だから、律のせいじゃない。 街灯の下を通る度、律の黒髪がちらちらと光に透けるのが見て取れた。若いころの自分によく似た横顔。若干憂いを帯びた表情が、時折この世のものとは思えないような秀麗さでもって開の前にさらされる。 人間でなくなるだろうことに後悔はない。ただ、この甥と対等な存在として接することができなくなることを想像すると、それは少しさみしいことのような気がした。 「なあ」 ほそっちくて頼りがいのない腕を捕まえる。寒さにすら鈍感になった体は、それでもあたたかな律の体温を感知してくれる。 この温度だ。開が妖魔と化したとき、隣にいるのはこの温度なのだろう。そんな気がした。 「お前に使役されるのは勘弁願いたいけど、たまにこうして散歩するのはいいかもしれないね。僕が、律の伯父でなくなったとしてもさ」 「……開さんは開さんだよ、人間でも妖魔でも。今日みたいに突然会いに来たって追い返したりしません。おかしなことに巻き込みさえしなければね、だから、安心して」 なんとなく手を繋ぎながら夜道を歩く。男が二人手に手を取って歩いているなんて傍目に観たら普通じゃないだろうが、開の姿はとらえられないだろうから問題ないだろう。 静寂のなか帰路を辿る。人もその他も区別されない闇は、外れ者の二人に悲しいくらい優しい。 おわり 2015/06/22 |