星の双子 鳥井が熱を出した。 電話先で問いただしてやるとどうやら風呂上りに髪を拭くこともせずに仕事に没頭するというのを、三日ほど繰り返したという。いくら毎日暑いからとはいえ彼の家は冷房が強すぎるくらいに効いているし、それは風邪くらい引くだろう。 まあそれでも、僕にきちんと連絡したことは進歩だ。何度何も言わずに寝込んで僕が乗り込んだときにようやく体調不良が発覚というのを繰り返したことか。まったく鳥井は、僕が見まいに行かなくては病院にもいかないのだから。 きっと食事もだるいからととっていないのだろうし、治るものも治らない。ぶつぶつ言われるとしても口に無理やり食事を突っ込んでやろう。きっとそれが嫌だから、鳥井は風邪のときの僕へのSOSを渋るんだろうけど。 仕事帰りにスーパーへ寄って、飲み物や食べ物を買った。荷物は重たいが僕の心は軽い。鳥井を訪ねるのは久しぶりだし、風邪とはいえ電話の声はしっかりとしていて心配しすぎる必要もない様子だ。不謹慎だけれど、少しだけ胸が高鳴る。 僕には特権がある。鳥井の調子が悪い時にしか行使できない、特権。 「鳥井? 起きてるか?」 鍵はあけてあるからという言葉のとおり、玄関はがちゃりと開いた。 廊下は真っ暗で、外よりも少しひんやりとしている。冷房をつけた状態で寝ているのだろう、たしかに信じられない暑さであるから仕方ないけれど、部屋から漏らしてしまうのはもったいない。僕は額に滲んだ汗を拭って廊下へ上がりこんだ。まずは鳥井に挨拶をして、荷物を冷蔵庫にしまおう。ごはんも食べていないようならレトルトのおかゆでも作って、そしてそして。 寝室の扉を開くと、案の定思わず肩が震えるほどの冷気に満ちていた。熱があるからと温度を下げているんだろう。眉を寄せて、隅に置かれたベッドへ足を進める。 「鳥井」 呼びかけるけれど、返事をする様子はない。布団に潜りこんでまるまる姿はまるで子どものようだ。説教をしなくてはと思ったことも忘れて、ついつい口元が綻んでしまう。 「ちょっと鳥井、起きてくれ。坂木だよ。お見舞いに来たんだ」 起こすのも悪いかと躊躇いつつ、肩だと思われるあたりをゆする。見渡す限りペットボトルも何もないようだ、せめて水分だけでもとってもらわなくてはこのまま寝かせられない。 何度かゆすると、低いうめき声とともに布団のかたまりがもぞりと動き出す。 布団の隙間から顔が見えた。赤らんだ顔には幾筋も汗が伝った跡があり、熱が出ているのだと容易にわかる。重たそうに瞼がゆるりと震え、持ち上がる。気怠そうに、眠たそうに、そうっと瞳が顔を覗かせて、僕を捉えた。 「さ、かき……?」 「そのとおり。大丈夫かい鳥井? 色々と買っては来たけれど、とりあえず何か飲もう。汗だくだよ」 「あー、うん」 ぼんやりと瞬きをして、ゆっくりゆっくり体を起こす。一瞬震えたのは冷房が寒いからだろう。熱が高いから冷房の風が冷たくて、だから布団に潜りこんでそのせいで暑くて息苦しい思いをして。悪循環でしかない。まったく何をしているのか、普段の冷静で論理的な鳥井を思い出して溜め息が出る。 ふらりと倒れそうになったのを慌てて支える。背中にそえた掌にはじんわりと汗の感触が伝わってくる。怠そうではあるが熱自体はそこまで高くもなさそうだ、もう二晩も休めば元気になるんじゃないだろうか。 床に放置していたスーパーの袋からペットボトルを取り出して、キャップを外してやる。鳥井はひどく億劫そうにそれを嚥下した。半分ほどを飲み干した頃には、大分すっきりとした顔をしていたけれど。 「っはぁ。悪かったな坂木。風邪くらいで呼び出したりして」 「いいよ。僕の知らないうちにぶっ倒れられてるよりずっとましだ。なあそれより、病院には行った?」 「……」 「行ってないね?」 「俺が病院嫌いだって、知ってんだろ。しかも一人で行くなんて」 「はいはいよく知っているよ。明日休みだし、付き合うから一緒に行こう」 「……」 「行くんだよ」 「……ああ」 膨れ面を無視して枕元にペットボトルを置く。この様子だともしかしなくても食事もまともにとっていないだろう。レトルトなんてうまくないと文句を言われるかもしれないが作ってこないわけにはいかない。 キッチンを借りようと鳥井を見下ろして、言葉を発しようとしていた口を噤んだ。ばつが悪そうに目を逸らして僕のシャツの裾を掴んでいる。本当に子どものような仕草と表情。うっすらと涙の幕の張った瞳に、口内が急激に渇いていく気がする。 「なあ、汗かいて気持ち悪いんだ。体拭いてくれ」 甘えベタな彼らしい、ぶっきらぼうな言葉だ。僕はにこやかに了承する。断る理由がどこにあるだろう、その言葉が僕はずっと欲しかったのに。 あたためただけのおかゆを鳥井が食べている間に、お湯とタオル、着替えを持ってきた。栄養を取ってさっぱりとした状態で眠ればもしかしたら明日にはかなりよくなっているかもしれない。ああは言ったけれど、調子がよければ病院にいかず一日ゆっくり休むだけでもいいだろう。 鳥井は渋々口を動かしてはいるが、やはり食欲はあまりないようだ。スプーンが進んでいない。 「レトルトってのは味気ねえな」 ぶつぶつと文句が聞こえるが無視してやる。鳥井が満足できるようなものを僕が作れるわけもないから反応するだけ無駄であるし、なによりこれはある種照れ隠しのようなものなのだ。本当は看病されて嬉しいくせに、素直じゃない。 何とか茶碗一杯を完食したのを見届けて、タオルをお湯につける。鳥井はゆっくりと上着を脱いだ。冷房の温度を少し上げているしさほど寒くもないだろう。 「頼むな」 目の前には、薄っぺらくて頼りない鳥井の背中。外に出ることなんて滅多にないから生白く、筋肉だってついているのかいないのか。なめらかな肌に息を吐いて、僕はタオルをすべらせる。 鳥井の肌を拭くという行為が、僕は好きだった。優しく綺麗な肌を、僕の浅ましい手で拭っていく。清めるというと言いすぎだろうか? けれど、これはそういう行為だった。 僕は、僕の思うままに鳥井の肌を清めていく。鳥井には美しくあってほしい、汚れなんて知らないでほしい。そう思いながら指先まで緊張させてタオルを握るのだ。 鳥井は神様のようだ。博学で秀麗で眩しいくらいで、僕は彼の友人でいるからこそ隣にいることができるけれど、それでも時折、ああ彼は神様のようだと思うことがあった。そんな彼に僕という凡人が触れ、あまつさえ汚れを除去していく。それはなんて、背徳的で快感を伴うことなのだろう。 背中の次は力をくわえたらそのままぽきりと折れてしまいそうな首、ほっそりとした腕を拭っていく。前はさすがに自分でというからタオルを手渡し、鳥井の表情が和らいでいくのを僕はにこやかに見つめた。 裾が捲られた足を手に、そこも拭いていく。熱の飛んだタオルが冷たいのか、少しだけ眉間にしわが寄った。それに気がつかないふりをして、これもまた頼りない足を一心に清めていく。膝、ふくらはぎ。足首はぐるりと拭って、甲と足の裏、指も丁寧に。背中ほどではないが色の薄い足は、何かか弱く幼いものを連想させるようで、僕は思わず目を逸らしてもう片方の足へ手をかける。 僕の手はいつの間にかじわじわと熱を持っていた。掌に滲んだ汗も気持ち悪くて、鳥井にばれてはいないかと少しだけ心配になってしまう。 一通り体を拭き、さっぱりしたような顔で鳥井は微笑んだ。 「ありがとな。これで気持ちよく眠れそうだ」 「それはよかった。僕も何か食べてくるから、着替えてなよ。また水分を取ったら眠っていていいからね」 「ああ。悪い」 「気にするなよ。これくらいなんてことない、鳥井のためなんだから」 鳥井は若干申し訳なさそうに目を伏せて、穏やかに笑った。それが嬉しくて、と同時に罪悪感を刺激されて。僕は柔らかな髪を撫でつけて部屋を後にする。 弱っている鳥井を見ると僕はおかしくなってしまう。それが心地いいと思ってもしまうんだから重症だ。だから鳥井には元気になってもらわなくては。生気に満ちた鳥井と軽口をたたき合ってたまに呆れられてたまに諌めて、そうして僕たちは、普通の友人として生きていかなくてはならないのだ。 「まだ熱が下がらなければ病院に行って、もう少し買い物をして、元気になったら鳥井にご飯を作ってもらって……」 独り言をつらつらと重ねる。そうしないと頭に先ほどの様子が舞い戻ってきてしまいそうだった。 目に焼け付く白い肌、指に残る滑らかな感触、握った手首の細さ。鳥井の看病をするたびに、信仰に近かった友愛は醜く手垢がついて形を変えようとしている。 僕のなかの鳥井は神様だ。だから、美しく気高い彼に触れる権利など僕にはないのではないかなんて考えてしまう。鳥井のためと偽って、信仰心でも友情でもありえない欲望のままに僕は彼に触れる。これはきっと、鳥井に対する裏切りだ。ならば僕には彼と友人でいる資格なんて、鳥井を好きでいる資格なんてないのかもしれなかった。あの繊細な肌と同様に僕を純真に信じる鳥井の心を、傷付けてはならないのに。清めるつもりで汚してきた、浅ましく罪深い僕なんかが、本当は、鳥井に触れてはいけなかったのに。 そう自らを戒めたところで、僕はまた鳥井の看病をしにくるし彼の体を拭くのだろう。鳥井が頼るのは僕だけだから、彼に触れていいのは僕だけだから。そんな慢心と優越感が、僕の中の罪悪感を薄めていくのだ。 美しいものを汚すのはとても、気持ちの良いことだった。 明日、鳥井の風邪は治るだろうか。そのとき僕は喜ぶのか、残念に思うのか。 寝室の扉の隙間から冷気が漏れている。僕の指は、まだ熱い。 END. 2014/09/13 |