掌上のマリア その日、夢の中で子どもになった。 暗闇が怖くて、騒音が怖くて、おばけも動物もみんなみんな怖くて、一人で泣いている夢だった。ぎゅうと瞑った眼には光の一つもささなくて、真っ暗の中でただ一人で泣いていた。 だから、声をかけてくれたのが誰なのかは分からない。見上げた先、眩しい光の中で自分を見下ろした誰かが自分にとってどんな存在なのか、理解する前に目が覚めてしまった。 朝起きたとき残っていたことは、伸ばされた掌が優しかったと。それだけ。 海藤はとある先輩のことが気に入らなかった。理解ができないし、理解ができない部分をいくら懇切丁寧に説明したところで彼に届くことはなかった。だから腹が立ったし、絶対に自分の思いに共感させてやると心に決めたのだ。 その先輩のいけないところはたくさん知っている。その一つに、授業をよくサボるというところがある。 「……またか」 つい独り言が零れ落ちた。眉間にしわが寄ったのが分かる。 海藤の視線の先、中庭のベンチに横たわる人物こそ気に入らない先輩ナンバーワンである男だ。平介と、そう呼ばれている一つ年上の先輩。 海藤は、体育で怪我をした同級生を保健室に送り届けたところで、今はまだ授業中である。それは平介も同じこと。この人はまたサボっているのかと、言葉に出しこそしないがもう一段階眉間のしわが深くなる。 平介は自由だ。その自由さが海藤には疎ましい。 文句を言ってやろうと数歩近づいてみる。少し離れたところから顔をのぞき込んでみると、どうやら眠っているようだと分かった。なんとも間の抜けた顔をしている。自分が普段真面目に授業を受けている間、この人がいつもこうして昼寝をしているのかと思うと腹立たしい。 さやさやと心地の良い風が吹いた。平介の前髪が風に揺られている。ゆるすぎるほどゆるくふわふわとした性格をしているくせに、髪だけはさらさらストレートなのがなんだかおかしい。視界の端にうつる自分のうねった髪を見て、憂鬱ぶりに拍車がかかる。 頼りなく垂れ下がっている眉。下ろされた瞼。かあかあと寝息の漏れる唇。髪のかかった頬はあまり活発な方ではないからか不健康に生白い。 この口で誰かの名前を呼んだ。この頭を誰かの拳が小突いた。この手を誰かが握った。 平介の周りには「誰か」が満ちていた。こんな風に自由に寝転がっているような男であるのに、一人でふらふらとどこかへ消えてしまうような男であるのに、それでもなお彼の周りから人の気配は消えない。 海藤にはそれが悔しくて、理不尽に思えて、どうしようもなくこの人に罵声を浴びせたくなってみたりする。 「先輩」 呼んでみる。返事はない。平介はすやすやと眠っている。 顔が見える位置でしゃがみこんでみた。体育の授業はまだしているだろう、戻らなくてはならないと思うけれど足が動かなかった。視線がはがれなかった。海藤はじっと、平介の顔を見る。 平介にたいして何を言ったところで、彼が同じだけの情熱をもって海藤に反応を返してきたことはない。彼はいつだってふらふらゆらゆら逃げてしまう。きっと自分は彼に好かれてなどいないだろう、こちらだってそうだ。だからいっそのこと無視してしまえばいいのに、それもしない。気付いたら目が探している。見つけたら逸らすことができない。 海藤は平介のことが気に入らない。自分の納得のいかない行動をする彼のことが、自分にここまで執着させる彼のことが、気に入らなくて仕方ない。 何より、これほどまでに気にしているのに執着しているのに、それを軽く避けてしまう平介のことが、気に入らなくてもどかしくて腹立たしくて憎らしくて、どうにかしてやりたくなるのだ。 平介は海藤の名を呼ばない。彼に触れられたことも触れたこともない。いくら見つめたところで彼は億劫そうに肩を竦めるだけだ。 平介のなかに海藤はいない。いない。 「ふもう」 不毛。 いつか同級生に突き付けた言葉が頭の中で反響する。追いかけても睨み据えても手を伸ばしても決して近づくことはない。触れ合うことはない。平介に追いすがることは不毛だ。報われない。たとえ今海藤の中に芽生えている感情がどんなものであったとして、平介はそれに応えはしない。 報われない思いを引きずることは罪だろうか? 思った分だけ思われたいと考えることは許されないのだろうか? 「……ん?」 「あ」 「あー、あ? なに?」 海藤の見ている目の前で、瞼がぱちりと開いた。起きたのかと理解するより前に、あまり感情の乗ることのない目がゆるりと細くなる。大きな欠伸を一つ零して低い声が海藤に向けて発せられる。 「一年生君じゃん」 「どうも。またサボってるんですか」 「あはは、あー、まあね。気分転換ってやつ。ていうかそっちは何してんの、まだ授業中でしょ」 「僕はただ、体育で怪我をした同級生を」 言いかけたところで、遠くからチャイムの音が響いてきた。しまったと口を紡ぐと、平介がにまにまとこちらを見ている。まだ眠たそうな雰囲気が漂ってはいるが、その表情は楽しげだ。自他ともに認めるほど真面目な人間である海藤が授業をサボってしまったという事実がそんなに嬉しいのだろうか。 平介が体を起こす。しゃがみこんだままの海藤からは見上げるほど高くに顔がある。太陽の光を浴びてきらきらと透ける髪に、夢のことを思い出す。 さみしくて、苦しくて、かなしい夢だった。誰もそばにいなくて、海藤は一人ぼっちの子どもだった。 いつか見た、平介とその従兄弟の姿を思い出す。一人ぼっちの幼い海藤にも、誰かが手を差し伸べてくれるだろうか。夢の中の願望ではなく、叶うならば、目の前のこの人が。 「どうかした? もう次の授業始まるけど」 ベンチに座ってまたまったりとし始めた平介が首を傾げて言う。確かに普段の海藤ならば、チャイムの音を聞いた途端に教室へ向かって走り出してもおかしくない。それくらいに授業をサボってしまったことにたいして罪悪感を抱いたことだろう。 平介の不思議そうな表情に唇をへの字に曲げて、立ち上がった。遥か上方に見えたような気がした先輩の頭は、今やもう海藤のいくらも下にある。 「今行きますよ。先輩こそ次の授業も出ないつもりですか」 「そうだねえ。いい天気だしねえ」 「だから何度も言うようですけどあなたのそういうところがですね! ……もう、いいです」 今日は講釈をする気にもならず、軽く頭だけ下げてその場を後にすることにした。なんだか今朝から調子がよくない。おかしな夢を見たからだろうか? 足を一歩踏み出す。途端に、くんと後ろに引っ張られる感覚。振り返って視界に入ってきたのは、海藤の裾を引く指と、やはり眠たそうな双眸。 「怪我、気を付けて」 ああ、と思う。 たくさん難癖つけてきたけれど、平介に、彼の友人たちに優しくしてほしかったわけではないのだ。彼の従兄弟に、その他彼の周りを取り巻く人たちに、情を返してほしかったわけではなかったのだ。 海藤に、向き合ってほしかった。言葉をかけてほしかった。自分と同じだけの執着を返してほしかった。この感情に名前なんてないけれど、ただ、ただそれだけだった。 報われないなんて思いたくない。思った分だけ思われたい。ただ、本当にただ、それだけ。 不機嫌を装って背を向ける。平介はきっとのほほんと笑っているのだろう。海藤のことなど何も気にしていないという風に、けれどもしかしたら、ほんの少しは気にかけてくれているのかもしれなくて。それでもやっぱり、海藤の考えはほとんど伝わっていやしなくて。 「怪我をしたのは僕じゃありませんよ!」 言葉だけ捨て置いて、今度こそ歩き始めた。 夢の中の子どものことを思う。一人ぼっちで泣いていた、かわいそうな子ども。彼に差し伸べられた掌のについて考える。その手が、先ほど海藤を引き留めた手と同じであればと、そう思った。 END. 2014/09/13 |