夕轟きの抱擁 日が沈むのが早くなった。瞼に焼き付きそうな空の赤さにふとそう思った。 その日の仕事を一通り終え、ようやく息を吐くことができたのは肌を刺す冷気に身を震わせるようになってからだった。近頃は朝夕の冷え込みがひどく、如何な体力に自信のある時雨といえど上着を羽織らなくては外を出歩くことも出来やしない。 日が沈み始めれば、風が吹く度に身を縮こまらせずにいられないほどだ。冬の訪れに舌打ちをしたいような気持ちになりつつ、しかし寒いからという理由で務めを放り出すわけにもいかない。五本刀の頭領が気温の差に負けてなどたまるか。 恨みがましく木々の向こうに隠れ往く夕日を睨み付ける。少々の悩み事ならば吹き飛んで行ってしまいそうな真っ青な空は、いつしか熟れた無花果の断面のように真っ赤だ。いっそ禍々しいほどの朱に、時雨はついに舌打ちをした。 「京一郎に会いてえ……」 半ば無意識に呟いたのは、あまりに女々しい言葉であった。 時雨が、かわいいかわいい目に入れてもいたくないほど大切な恋人と会わなくなってもうどれほど経つのだろう。考えたくもないが、臣によるとそろそろひと月ほどになるらしい。 ひと月前までは毎週のように逢瀬を重ねていた。いくら立場が違うとはいえ、京一郎は学生でありそれなりに時間をとることができた。彼が毎週末に五本刀の屋敷を訪ねて来て、一晩二晩甘やかな時間を過ごす。当然のようになっていたというのに、このひと月はなんだというのだ。 「論文がなんだってんだよ」 何やら学校のほうが忙しくなるという話は聞いていた。学生は学生なりに大変なのだろうとは思っていたが、それでもせいぜい二週間ほどのことだろうと高をくくっていたのだ。一度逢瀬を諦めればまた会えるだろうとそう思っていたのに。 ひと月。たったひと月が、気が遠くなるくらいに長いなどと馬鹿みたいだ。 無性に空しくなって、縁側に腰を下ろす。本日の務めは果たしているのだから誰に文句も言わせまい。頭領として胸を張っている常の姿はどこへやら、背中を丸めて小さくなる時雨の後ろ姿はどこか哀愁すら漂っている。 紺色と朱色の混ざり合う空。もう幾ばくもしないうちに星が瞬くようになるだろう、そしてまた夜が来て、一人さみしく布団をあたためることになるのだ。またびゅうと風が吹いた。心の臓にまで到達しそうな凍えに、舌打ちどころか重い重い溜め息が溢れそうになってしまう。 空の赤を眺めていると、炎を舐めたような気持ちになる。恋しさが胸を焼いて、そのまま焦げ付いてしまいそうになる。 夕日は、毒だ。 「おや、若ではありませぬか。自室に戻られたかと思うておりましたが、このようなところで如何なされました」 背後からかけられた声に、びくりと背筋を伸ばす。つい先ほどまで嫌というほど聞かされていた声だ、振り返れば、案の定臣が不思議そうにこちらを見降ろしていた。 「……臣か」 「臣かとは何ですかな、臣かとは。心ここにあらずでぼうっとされているようでしたのでお声掛けしたのですぞ。お疲れでしたら部屋にお戻りを」 「ああ、まあ、そのうちにな」 「……ははあ、分かりましたぞ。京一郎殿ですな」 笑いを含んだ声音で言われ、逸らしていた顔をくるりと後ろへ向ける。臣は悪戯を思いついたかのような笑みを浮かべ、時雨のもとへ歩んでくる。いやらしい奴だ、傷心な頭領に向かってにやけ面を向けて。内心そう吐き捨てても当然臣には聞こえはしない。 ぎしりと、臣が隣に腰掛ける。視線を向けるのもなんだか悔しくて、空ばかり眺めることにする。 「近頃お会いすることができずさみしいのでしょう」 「べっつにさみしかねえよ! 京一郎も俺も忙しいんだ、んなこと思ってる暇はない」 「では、拗ねておられる」 楽しげに言われぐっと言葉に詰まる。図星であった。 会えなくてつらいというのも本当。けれどそれより、自分よりも優先するものがあるということが悔しくかった。臣の言うとおりだ。時雨は拗ねている。 自分本位な話であるということは理解している。本当は、時雨の方から湯島を訪ねたっていいはずなのだ。けれど京一郎が時雨のもとを訪れることが当然のようになっていたのは、ひとえに時雨のあまりの多忙さと京一郎の気遣いのためである。時雨は大変なのだからと京一郎が譲歩し、気を遣い、少しでも顔を合わせられればと屋敷を訪ねてきていたのだ。 京一郎のほうに時間ができなければ、週末の約束は途絶えてしまう。当然だった。けれど、学業とはいえそちらを優先して時雨に会いに来ないことが少しだけ腹立たしくて拗ねてしまう。 ただの我が儘であり癇癪だ。拗ねるくらいなら自分から会いにいけばいいとも思いつつ、邪険にされるのがこわくて動けない。なんて情けない話だろう。 あまりに子どもすぎる自分の考えと、それを臣に見透かされていたという羞恥心に、時雨はたまらず膝を抱える。 「恥ずかしがることはありますまい。京一郎殿は若のそういったお考えも理解されておられましょう」 「余計に駄目だろそりゃあ! 俺は、こんな情けない男ぶりがあいつに知られてるなんざ考えたくもねえ」 「ならば、自ら京一郎殿をお訪ねになればよろしいでしょうが」 「……」 「まったく、何を突然弱気になっておられるのやら」 隣から聞こえる深い深い溜め息に、時雨は唇を尖らせる。 突然、今更、こんなふうに頭を悩ませるだなんて仕様もないことだなんてわかっているのだ。だというのに、おとなしく待つこともできず、だからといって強引に押しかけることも出来ず。悶々と愛人のことを考えて日々をやり過ごしている。 「夕日は、心を惑わせるんでしょうなあ」 臣の言葉に、ああそうかと声なく頷く。睨み付けていた庭の草木が赤く染まっていた。すべてすべて夕日のせいだ。心の内で大人げなく毒づく。 「おや」 臣が声を上げたのと同時、時雨はぱっと顔を上げた。きっと隣の男の耳にも届いたのだろう、屋敷を訪れた人物の足音が。 騒がしくしないようひっそりと、けれど急ぎ足で廊下を進む音。軽く地を蹴り、剣の心得のあるもの特有の足運びだ。 京一郎。ひと月ぶりの恋人の気配に、慌ただしく立ち上がる。隣で臣もまた立ち上がり、某は退散させていただきましょうと笑ったことにもたいして反応を返さず、そわそわと足音の近づいてくる方を見つめている。 今どのあたりを歩いているのだろう。あとどれくらいで姿を見せてくれるのだろう。速度を上げる脈拍に耐えられず、時雨は足を踏み出す。京一郎に会いたい一心で歩を進め、いつしか走り始める。 「わ! 時雨っ?」 角を曲がろうとしたところで、目当ての人物にぶつかりそうになる。かろうじて衝突する前に体を支えることができたが、相当吃驚したのか目を見開いている。 記憶よりも少し伸びた、頬に張り付く艶やかな黒髪。硝子細工のような瞳と、鮮やかな紅色を覗かせる唇。もう長く感じていなかった重さが、掌から伝わってくる。京一郎だ。苛立ちや悔しさや、諸々の感情がとけていく。ずっと、会いたかった人だ。 「京、一郎……」 「もう、廊下を走るのは感心しないよ時雨。僕だったからよかったけれど、子どもたちが見ていたらどうするんだい。君が模範にならなくちゃいけないのに」 「あ、ああ。すまん。怪我はないか?」 「大丈夫。そんなに急いでどうしたんだい、時雨」 「あー、お前の気配がしたから、ついな」 きょとんとしてから破顔する。久しぶりに見る笑顔だ。胸の奥から何かがこみあげてくる心地がして、時雨は掴んでいた京一郎の肩に力を込める。 今、京一郎に触れている。目の前にいて、言葉を交わしている。 「もう学校はいいのか?」 「うん。今日漸く一段落ついたところなんだ」 「今日だあ? おい、それなら家でゆっくり休んだほうがよかったんじゃないのか、疲れてんだろ?」 「いいんだよ、平気だ。時雨こそ仕事は?」 「俺ももう今日の分は終わってる」 よかった、と京一郎は安堵したように微笑んでいる。白い頬に夕日の朱がさして、どきりとするくらいに濃艶な雰囲気を醸し出す。 思わず見とれていると、京一郎が照れくさそうに視線を外した。彼の視線の先にあるのは今にも沈みゆこうとしている太陽だ。熟し切った無花果は、名残惜しげにその姿を隠そうとしている。空もまた徐々に朱よりも紺が勝りはじめ、夜が訪れようとしていた。 「実はね」 ぽつりと、京一郎が呟く。 「今日、来るつもりはなかったんだ。まだ少ししなくてはならないことが残っているし、時雨の仕事もあるかもしれないし。明日改めて訪ねてこようとね、思っていたんだけど」 「どうして、来る気になったんだ?」 「うん。夕日がね」 「夕日?」 よく分からず、京一郎の顔をのぞき込む。半ば抱き込むような形になりながら、時雨は京一郎の額に己の額を合わせた。擽ったそうに笑う姿がいとおしい。 「夕日がとても綺麗だったんだ。日が沈んでいくのを見ていたらなんだか、時雨に会いたくて会いたくてたまらなくなってしまって」 ゆっくりと瞼が閉じられて、時雨の肩に京一郎が頭を預けた。甘える仕草に胸がいっぱいになる。たまらず背中にまで腕を回し、ぎゅうと強く強く抱きしめた。 「俺もだ、俺も、京一郎に会いたくて仕方がなかった。日が沈むのが憎らしいくらいに、会いたかった」 「ふふ、なにそれ」 肩に添えられる掌。あたたかな温度と優しい声音に、くだらないことはすべて掻き消えていく。 さみしくなどない。拗ねてなどいない。悔しさも、焦りも、不安も、もう何もかもがどうでもよくなっていく。ここに京一郎がいて、彼のことがいとおしい。彼もまたそう思っているはずで、それだけでいいのだと、本心から思える。 ちらと視線を上げるともはや朱色はどこにもなく、ただ濃い青に塗りつぶされた空が静かに広がっているのみだ。ちかりと星の瞬くのが眩しい。 「夕方になると、恋心で胸が騒ぐものらしいよ」 いつの間にか京一郎も顔を少し上げて空を見ていた。どこかうっとりとした表情に、鼓動が早まっていく。 「それは夕方を過ぎてからも起こるのか?」 「さあ。どうなんだろう」 「俺はこのひと月、四六時中お前のことが恋しかったし会いたかったぜ。もちろん今もな」 「なっ」 「京一郎が夕刻に俺を恋しく思ってくれるんなら、今度は俺が会いに行く。この時間に」 あっという間に赤くなった耳を眺めながら、太陽よりも真っ赤だなんて茶化した言葉が頭に浮かぶ。けれど恥ずかしそうなそれでいて嬉しげな京一郎の表情に、笑い話にしてしまうのはもったいないと口をつぐんだ。 若干泳いだ視線がかちりと合う。薄暗い闇の中、囁くような声音が胸に染み入っていく。 「僕も、寝ても覚めても時雨に会いたかった」 だから、いつだって会いに来て。 夕日は毒だ。けれど解毒剤がこうして会いに来てくれるし、自ら会いに行くことだってできる。致死量にいたることは決してないだろう。恋しさに胸を焼かれ、そのまま燃え尽きてしまいそうなのだとしても。 時雨は京一郎の頭を抱えるように抱き寄せた。二人の胸を騒がせるものは、もはや互い以外には何もない。 END. 2014/05/04 |