夜のみなもと





悪夢を見ていた。
逃げ出したくてけれど逃げることはかなわなくて、ただただ怯えている夢だった。腕に抱きしめた大切なものは一つとして残らず、気付けば一人立ちすくんでいる。なくしてしまった守れなかったと嘆く夢。
恐ろしかった。恐ろしかったから目をつむって、早く目が覚めはしないかと祈っていた。こんなのは夢だ、悪夢だ。ありえてはならない。だからはやく、皆の待つ現実へ行かなくては。
耳を塞いで目を閉じて、ひたすらに朝を待っている。
かすかに香ったのは、柔らかな草の匂い。それが夢だったのか現実だったのかは、確かめようもなく。



「鴇」

名前を呼ばれて、鴇時はふっと意識を浮上させた。重たい瞼を無理やりに持ち上げぱちくりと瞬かせる。真っ暗だ。まだ目を閉じているのだろうかと混乱して、何度も何度も瞬きを繰り返した。けれどやはり、暗い。

「何してんだ? ……ああ、見えねえのか」

聞きなれた低く心地よい声が、いたわるようにかけられた。思案気にしてから、ごそごそと何やらしているらしい。
鴇時は虚空を見つめ思考を巡らせた。今の今まで自分は寝ていて、布団の上に横たわっている。さっきした声は露草の声だ。樹妖は眠ることがなく、露草は毎夜毎夜、退屈そうに鴇時の枕元に座り込んでいる。
朝になったら起こしてくれることはあるが、どうやらまだ朝には遠い時間のようだ。心配を、かけてしまったのだろう。先ほどまで見ていた夢を思い出してうっすらと笑う。
額を流れていった汗を拭った。ああ、あれは悪夢だった。
ぱっと、唐突に世界が目にはいってきた。橙色が闇に埋もれていた空間に灯り、大方のものを認識することができるようになる。その中でも気遣わしげにこちらをのぞき込む顔を目にすることができて、鴇時はほっと息を吐き出した。

「明かりをつけてくれたんだ、ありがとう露草。今夜は随分と暗いね」
「そうだな。雲が多くて月も見えやしねえ、風も湿っていやがるし明日の昼にも一雨くるぞ。……それよりお前、大丈夫か」
「え、何か迷惑かけた?」
「いや、そんなことはなかったが」

魘されてた、お前。
ぽつりと落とされた呟きに苦笑する。明かりに照らされた露草の表情は不機嫌そうであったが、心配しているのだということを隠しきれていない。露草は素直ではないが分かりやすいと、鴇時は思う。
提灯を持った手にかすかに触れる。特別温かくはないが安心する。

「なんともないよ。平気。ちょっと夢見が悪かっただけだから気にしないで」
「お前がそう言うんならいいけど、なんかあったらちゃんと言えよ」
「うん」

大地を思わせるような、深い声音。普段はどちらかといえば荒く激しい声を有している彼だけれど、まさに草木も眠る夜中になると、やわらかく静かな音になるのを鴇時は知っている。人の中にいることで気を張っているだろうから、人の気配が薄まる夜は過ごしやすいのだろう。夜の露草は、性格すら穏やかになる。
滑らかな掌に頬を寄せる。身長こそ鴇時のほうが大きいけれど、足や手の大きさは露草の方が勝っている。喧嘩もたいしてしたことがない、幼ささえ感じられる手では、闘い守る露草の手を超えることができない。
耳に押し当てた掌から、とくりと音がした。心地の良い音楽に耳を澄ませる。少ししてからなんだかおかしくなって、くすくすと笑い声をあげた。

「なんだよ」
「だって、おかしくって。ねえ露草、露草の体には血が流れているんだね。鼓動が聞こえる」
「あ? ……ああ、血じゃねえよ、俺は樹妖だからな。本体の中を流れてる水の音だろ」
「へえ、水? ああでもたしかに、こぽこぽとも言ってるかも」

とくん、とくん、こぽり。
低い振動が耳から伝わって、ゆったりと目を閉じる。まるで子守歌のように、鴇時の暴れていた心臓をなだめてくれているように思う。優しい音。露草の音だ。
居心地が悪そうに身じろぎするのにもう一度笑って、鴇時は露草の腹に抱き着いた。驚いて暴れる樹妖にぎゅうとしがみつく。顔は険しく口は悪い露草だけれど、こうして甘えてきている相手を無碍にすることができない性格なのだということを、鴇時は熟知していた。予想通り、多少文句の声は聞こえたけれどされるがままになっている。
厚い腹、この中に多くの命が流れ、彼によっていくつもの植物や動物が生かされている。彼を流れる水音は、生命の音だ。

「生きているんだね」

ぼそりと、口の中で呟いた。守らなくてはいけないものが、救い上げたいものがたくさんある。失いたくない。奪われたくない。だから足掻いてもがいて、決して悔いることのないように、逃げ出してしまわないように、必死で朝を待つ。
露草はしばらく不機嫌に黙り込んでいたけれど、しばらくするとあきれ果てたというような大きな溜め息を吐いて、鴇時の髪を掻きまわし始めた。手つきは荒い。だけれど傷つけることのないように、愛玩動物をかわいがるように、わしゃわしゃと手を動かす。
低い声が優しく響く。

「お前もだぞ」
「俺? 露草と同じってこと?」
「ああ。お前の中にも、水が流れてんだろう」
「水じゃなく血じゃないの。俺は人間だし」
「ふん。俺は血は嫌いだけどな、水も血も生きてる証だって意味じゃかわんねえだろ」

疑問符を浮かべる鴇時に、露草は幼子に言い聞かせるように続ける。

「生きてりゃそれでどうにかなる、鴇。お前の水を絶えさせんな、淀ませるな。流れを止めるんじゃねえ、そうすりゃ、何とかなるんだ」

真剣な声だった。けれど強く、生きろと言っている。背中を力強く叩かれているような気持ちになる。
諦めるな。前へ進め。不安になろうと決意が鈍ろうと、そうすればいつか道は開けると。そう、慰めてくれているのだろうか?
回した腕に力を込める。ぐえっと奇妙な声がしたが気にはしない。鴇時が抱き着いたところでどうにかなりはしないだろう、露草の中にもまた、途絶えることなく水が流れ続けているのだ。
ぽすんぽすんと頭を撫でられる。ゆっくりと瞼が下りてくる。心地の良い眠気が体を包み込み始めて、耐えきれず頭を露草の膝に落とした。何か不機嫌に喚いている声がする。けれどもう動くことすら億劫だ。きっとこの優しい樹妖は、ぐちぐち言いながらもしっかりと鴇時を布団に運んでくれることだろう。明日には暴言の一つや二つ吐かれるのだろうが、今はどうでもよかった。
こぽり。水が流れる。

「おやすみ、鴇」

声を最後に、眠りの底へ落ちた。今夜はもう、悪夢は見ない気がした。





END.

2014/01/23

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