散髪のススメ 目にはいった、という言葉がはじまり。子どもみたいに袖を引いて見ろと言ってくる彼は本当に我が儘でどうしようもない王様だけれど、彼に甘いと自覚がある僕には抗うことはできない。 どこ? なんて覗き込んで、涙の幕の張った瞳に一瞬見惚れてしまうけれど、その程度の攻撃、長年彼の隣を陣取っている僕に今更効くはずもなく。 「鳥井、髪を切ろう」 僕の言葉に、目を丸くした鳥井。ついで、心底嫌そうにこちらをにらみあげ、寝室へ取って返そうとする。 馬鹿だな、逃がすわけないじゃないか。痛いなんて心配だ。原因を取り除かなければならない。そしてそれをできるのは、僕しかいないんだから。 少々無理矢理肩に手を回せば、何十秒かばたばたしたけれど、諦めたように鳥井は力を抜いた。シャンプー前に力尽き、もうどうにでもしてくれと拗ねる猫のようである。 小さなペットならまだしもこの怪獣は、小柄とはいえ僕一人で散髪の準備からシャンプーからすべて行うわけにはいかない。なので当然、本人にも手伝ってもらうことになる。道具も鳥井の家のものを使うので、少しくらい無理にでも使用許可を得なくてはならない。 「鳥井、いいだろ? お前だって痛いだの鬱陶しいだの文句言ってたじゃないか」 もう一月ほど前からぐちぐちと言っていたのだ。愚痴りはしてもひきこもりの鳥井が積極的に美容院になんて行くこともなく、日毎前髪への不満は募るばかり。ならばとその不快感を取り除いてやろうと立候補すれば、この態度である。 「それとこれとは話が別だ、俺は自分が痛い思いをするより他人にべたべた触られるほうが我慢ならない!」 「僕でも?」 「坂木でも!」 「ふうん」 「だいたいお前の手先は信用できない。包丁も握れない奴が髪を整えるなんて手に余る。坂木、自分の技術家庭科に美術の成績、覚えてねえのかっ」 身体は暴れることを諦めたが口は鳥井らしくぐるぐるとまわる。焦れば焦るだけ饒舌になるなんて、嘘をつけない彼らしい。 場違いにも微笑ましい気持ちになって、僕は大きなタオルを広げる。てるてる坊主状態にした鳥井をつれてずるずると歩けば、カーテンの隙間からあたたかな日の光が差し込んでいる。よかった、素敵な散髪日和だ。 ベランダの、事前に準備した椅子に鳥井を腰かけさせる。頭に軽く乗せた手にすら怯えるのがもはや少し面白いが、まあしかたのないことか。 「坂木、お前、正気か」 若干青ざめた鳥井。しかし前髪が長く顔の半分も見えないのをいいことに、気付いていないふりで僕は手に持った鋏を動かした。しゃきしゃきと刃が予行練習をするたびに、ぴくぴくと指が震える。そんなに怖がることないのに。 「鳥井。僕、技術家庭科と美術の成績、忘れちゃったんだ」 黒く柔らかな髪を一房手に取る。誠一氏も年齢のわりに質のよさそうなたっぷりとした髪を持っていたし、まったく羨ましいことだ。僕は自分の父親を頭に思い浮かべて何となく自分の頭に手をやった。憂鬱である。 「だからね。僕の成績を覚えているらしい鳥井が、気を付けるしかないと思うんだ。いろいろと」 髪に刃を入れる。ぱさりと流れる髪の束。怯えた目をする鳥井。 「馬鹿なことはやめろ!」 田舎のおふくろが泣いてるぞとでも続きそうな悲鳴に思わず吹き出す。滝本と同職な鳥井というのも、面白いかもしれない。 結局、鳥井の前髪を綺麗に整えることはできなかった。吹き出した拍子に少し多めに切ってしまい、それをごまかすために何度か鋏を入れているうちになんとも不格好なことになってしまったのである。途中で異変に気付いた鳥井が僕を睨み付ける目が怖くて、中途半端なところで終えるしかなかった。 鏡を見て絶句した鳥井が爆発する前に、僕は近所のコンビニでシンプルな髪留めを買ってきて献上することにした。長さは多少ましになったが、ガタガタのド素人丸出しな前髪が案の定気に入らなくてたまらないらしく、ふんだくるようにして髪留めを持っていかれた。 今、鳥井の前髪はしっかりとななめに留められている。 「まったく信じられねえ」 「ごめんったら」 「いくら不快じゃなかろうが、技術のないやつに髪切らせるのがいかに危険かってのを再確認した。お前にはもう二度とうちの鋏は触らせねえ」 「もうしないよ」 鳥井が前髪についてぶつぶつ文句を言わなければね。心の中でつけたして、ご機嫌取りのコンビニのお菓子を食べる鳥井を見つめる。 前髪がどいて、まっさらな額が眩しいくらいによく見える。ノイズの入らない鳥井の顔は格別に綺麗だ。また髪が伸びてくるまではこのままだというので、それはそれで少しうれしいものがある。さっぱり顔が見えるというのもたまにはいいものだ。 「ところで鳥井」 「あ?」 「どうしてそんなに髪形にこだわるの。べつに誰が見るわけでもないのに」 僕がつれださなければ家から出やしない鳥井だ。前髪がちょっとくらい変だからって、人に笑われる可能性は限りなく少ない。 鳥井は一瞬きょとんとして、次にはばつが悪そうに目を逸らした。前髪がないとその様子も手に取るように見える。もごもごと珍しく言葉を惜しむ口も、少し赤みを帯びた頬も。 「誰って、お前が見んだろ」 投下された言葉に、今度は僕が口をつぐむ番。ああ本当に、猫みたいなやつ! END. 2014/01/23 |