cold morning

ANUNNAKI後





吉本は、しあわせだっただろうか?



温い眠気から顔を出して、意識がゆったりと浮上する。薄手の布団でも大丈夫なくらいあたたかくなってきたけれど、そのあたたかさは今は毒だ。起きたくない。動きたくない。俺の名前を呼ぶ兄弟たちの声も聞こえなかったことにして、ぎゅうっと瞼を閉じる。悪いがほっといてくれ、今日は仕事も休みなんだ。
ミルク色の視界。天国というのはこういうもののことを言うんだと思う。体はぽかぽかあたたかく、心地よい眠気が思考に靄をかける。すべてが幕の向こうのことのよう。
さらり、カーテンが揺れる音がする。鳥の鳴き声と静かな風の声。朝なんだなあ。兄弟たちも出払い、騒々しさのなくなった室内で、ぼんやりと夢を噛む。
ああ、これが、しあわせか。
のたのたと体を起こし欠伸をする。時計はすでに昼に近い時間を指しているが、飯を食う気にもならない。どうせなら昼食と一緒にしてしまえ、かったるい。ごきりと首を回して、布団の上で胡坐をかく。
さらり。静かな、静かな世界で、一人きりだった。なんて平穏なこった。
両手を伸ばして、掌に唇を落とす。たいしてやわらかくもない肉と、かさかさな唇の感触。これは朝起きるときに毎回している日課だ。あの冬の日から、欠かさずしている儀式。いつだったか一度泊まりに来た新田にこの儀式を見られたとき、あいつは祈ってるみたいだなんて柄にもないことを言っていた。俺はちがいねえななんて笑った。

掌から、ずっと感覚が消えなかった。人を殴ることなんて何度だってあったけれど、頭がひしゃげるくらいなんてのは当然はじめてで、そのショックもあってのことなんだろうと思う。けれどそれ以上に、忘れてはいけないと理解しているからでもあるはずだった。あいつを、吉本をころしたときのことを、俺は一生覚えているだろう。何かアクシデントが起きて記憶喪失になったとしてもあの記憶だけは絶対になくさない。そう断言できる。
煙草に火をつけて一口吸う。ああ、目覚めの一服はたまらない。カーテンが揺れる向こうに太陽が顔をのぞかせている。おいしそうな黄色の太陽だ。ぼうっと眺めながら、あれ、と、布団を体に巻きつけた。
おかしいな、もう春になるのに、どうしてこんなに寒いのだろう。あの冬の日は過ぎて、もう何もおそろしいものなどないはずなのに。寒くて寒くて、震えが止まらない。

「あ……?」

ぼたっと、手の甲に冷たい感覚。涙。俺、泣いてるのか。
気付けばもう止まらなくなって、続けざまにぼたぼたと涙が頬を伝っていく。まだ長い煙草を灰皿に押し付けて、たまらず嗚咽を零す。ちくしょう、いい年して何号泣してんだ。思うけれど、蛇口は馬鹿になったまましまりやしない。
かなしかった。かなしかったし、悔しかったし、さみしかったし、こわかった。
吉本を殺したのは俺だ、ぶん殴って、呼吸も心臓も止めさせた。今まで生きてきた中で一番の罪悪。人殺しになんて自分がなると思ったことはない、けれど、たしかに俺が手を下した。この手だ。この手で鉄パイプを振りかぶって、力の限り、あの茶色い髪に振り下ろしたんだ。
決して忘れないだろう。人を殺したこと。吉本が俺と共にあって、そして俺があいつのことを、とてもいとおしいと思っていたこと。
ぼたり、ぼたり。涙はとまらない。ここに吉本はいない。俺が殺したから。いくらあいつのことがほしかったんだと喚いても、俺が殺した吉本は、俺のもとにいない。
吉本は、しあわせだったのだろうか。最近ずっと考えている。あのはちゃめちゃで頭のねじがぶっ飛んだ男が死に際何を考えたのか、俺にはまったくわかりやしない。俺は吉本のことを一瞬でも理解できたことはなくて、もう本人に聞くこともできないのだから、永遠に闇に葬られたってことで。
けど、なあ、俺は幸せだよ。布団はあたたかいし、朝は静か。仕事は忙しいけれど仲間ともうまくやってる。家族との仲も良好だ。五千万は一銭だって使っていない。それでも毎日が満ち足りていると自信を持って言える。
吉本、俺の世界は優しい。だけどお前がいないから、すごくすごく、寒いんだ。そうならないように決して手放したくないと、失いたくないと、思っていたのだけれど。

「う、……ふ」

口元を両手で覆って、子どもみたいに蹲る。自分を守るみたいに丸くなる。けど、本当に守りたかったものはもうここにはない。俺はそれを知っていて、たくさんの朝を祈りと共に迎える。
吉本の死に、少しでも幸福がありますように。
カーテンがなびく。窓の向こうで誰かの笑い声が聞こえる。時計は昼過ぎを指していて、俺の部屋は、まだ寒い。





END.

2013/09/01

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