ネイビーブルーの指先 笑顔のむずかしさというものを、あるときまで来栖は知らずにいた。彼自身はわりとどんなときも苦も無く笑いを浮かべることができたし、彼が笑っていれば周りの人もたいていは笑顔を返してくれた。だから、笑うことの価値など知らなかった。 意味は知っている。幸福だとか、楽しさだとか、そういったものを表すものだ。けれど、幸せでなくとも楽しくなくとも笑うことはできる。だから簡単だと、特に理由なく笑うことなど簡単なのだと、思っていた。 「あれ、止んじまったのか」 言葉のわりに嬉しそうな声。つられるように顔を上げれば、確かに家を出たときには降っていたはずの雨がすっかり止んでいる。どんよりとした雲はまだ残っているけれど、その隙間から少し赤みを増した太陽が顔をのぞかせていた。 「明日は晴れっかな。洗濯物たまってんのどうにかしねえと」 「なんつうか所帯じみてきたねー紺野。ま、俺もいい加減家に引き篭もってんのにも飽きてきてたしよ、晴れてくれんのは万々歳だけども」 立てておいた傘を各々手に取って、自動ドアから外へ。冷房の効いた室内とは違いじめっとした空気が肌を撫でるが、その生ぬるさも雨の中歩くよりは幾分かましで、来栖は鼻歌でも歌いそうな気分で傘を振り回した。いさめる紺野も楽しそうだ。 雨が降っているから買い物に行こう。 普通だったら逆なのだろうが、逃亡生活を重ねている二人にとってはそれでよかった。人通りが少ない。傘をさすから顔が見えにくい。人目を避けられるというその点において、雨は都合がよかったのだ。 別々にならよくあるが、一緒に出掛けるのは久々だった。二人でいるとばれやすいだろうというのもあるし、もし捕まった場合どちらかが助けにいくこともできないからだ。外出するなら別々に。けれど連絡はこまめにとること。すぐ帰って来ること。行き先はきちんと告げること。まるで小学生だと笑ったのはどちらだったろう。けれどあいにく、二十をいくらか過ぎた男の話である。 水たまりを飛び越えて来栖が歩く。その少し後ろを、紺野が水たまりを避けながら歩く。会話はないけれどなんだか楽しい気分だった。紺野がすぐ手の届く場所にいて、空は晴れていた。 「夕飯どうするよ?」 買い物袋を持ち上げながら尋ねる。今日の食事当番は来栖だ、たまには紺野のリクエストを聞くのも悪くない。袋の中には、玉ねぎに、ニンジンに肉に。カレーくらいしか思い浮かばなくて、何を作るか考えてから買い物すべきだったと今更後悔する。 なんでもいいよ。おかしそうな声音。背後から投げかけられる言葉はおざなりに聞こえるけれど、そこに含まれた色はあたたかで、来栖はまた機嫌よく傘を振る。 「おっまえなー、そういうのが一番困るんだって母ちゃんに言われてこなかったわけ? せっかく聞いてやってんだから好物の一つ二つ言いなさいよ」 「材料買ったのはお前だろーが。何か作りたいもんがあって買ったんじゃねえのかよ?」 「いやあそれがね、なんっも考えてなかったんだわ。えへへへ」 「……」 「……カレーでいい?」 「おう」 すぐ横を車が通る。一瞬びくりとするけれど、乗っているのはいかにも免許取りたてのような若い女だ。胸を撫で下ろして、次に唇を噛む。 これから一生、こうやってびくびくしながら生きていくのだ。スーツを避け、ワゴン車に怯え、きっともうあの街に帰ることはない。来栖はそれでよかった。もとからあの連中を敵に回すのだと腹に決め、ちょっかいを出したのだ。冒険の代償だった。しかたがない。 けれど、紺野は? 紺野は本当にこれでよかったのだろうか? 自分と一緒に来る以外の選択肢はあった。世の中に満ち溢れる平凡な幸福を、大事に大事に守っていくことだって、できたはずなのに。 「紺野ー」 声は震えなかっただろうか。振り向き方は不自然でなかっただろうか。情けない顔を、してはいないだろうか。 一生懸命に貼り付けた笑顔は、次の瞬間には保てなくなる。 「なんだよ、来栖」 ああ、何といえばいいのだろう。噛み締めるような笑顔。隠そうとしたのに零れ落ちてしまった、幸せの欠片。無防備にゆるんだ口元といとおしさの溶かされた瞳が、来栖に向けられている。家族へ向けたものよりもきっとずっと甘やかな。 紺野は笑っていた。彼の後ろには沈みゆく太陽。瑠璃色のビロードが広がる中、溺れるように光を瞬かせている。紺野の顔には影ができて、それなのに眩しくて眩しくて、来栖は目を細めることしかできない。紺野は笑っていた。 「紺野さあ」 「うん」 「俺、お前が笑うの見んの、好き」 そっか、と喉を鳴らす。じゃあ俺が笑ってられるようにしろよ、なんて、頬を掻く。 来栖は笑顔のむずかしさを知らなかった。誰しもが彼に微笑んでくれたし、彼自身も笑うことが苦であったことなどない。だから笑顔の価値など、むずかしさなど理解せずにいたのだけれど。 それがどうだろう? たった一人の男が笑うだけでこんなにも胸を揺さぶられる。抱きしめて、抱きつぶして、大声でわめき散らしたくなる。互いの境界線が分からなくなるほどキスをして、抱いてしまいたくなる。そうして枯れるまで泣いてやりたいと思うのだ。 笑うことなんて、できない。 来栖は水たまりを飛び越えた。驚いた顔に体当たりして、この乱され切ってしまった心の責任をとるべき男に、理屈ではない悪態をつく。 「くそ! なんだよ紺野馬鹿! ふざけんなまじ!」 「はあっ? 喧嘩売ってんのか買うぞコラ」 「なわけねえだろだから馬鹿だっつってんだよこの紺野野郎が! いい加減にしろよ!」 「なんなんだよおい……」 強引に腕をとって歩き出す。落とした傘は見ないふり。 久々の外出は終わり、また幾日か家に引き篭もる生活がやってくるのだろう。けれどそんなことどうでもいいくらいに、いや、むしろ紺野とふたりでいられるのならばそれでもかまわないのだと、あわただしく帰路を辿る。 振り返ることはしない。作り笑いのひとつもできないつんのめったような顔は、またあとでいくらでも見せてやればいい。 行く先には、夜の入り口が開いている。けれどそのずっと向こうにはきっと、紺野の笑顔が待っているのだ。 END. 2013/09/01 |