春待ちの子 桃木村に春が訪れようとしていた。まだいくらか寒さは残るが、日のあるうちは薄着で過ごしても問題ないくらいにはあたたかい。ずっと姿を見せなかった動物たちも村に下りてくるようになり、厳しい冬の終わりに、村人たちは神へ感謝を捧げなければと嬉しそうに言って回った。 京一郎の家へも、やけに嬉しげな村人が集まるようになった。今年で八つを数える京一郎には父が彼らと何の話をしているのかは理解しかねたが、「うたげ」という言葉には目を輝かせずにはいられない。宴の日はとても楽しい。村中から人がわらわらと集まって、みなが楽しそうに踊ったり歌ったりするのだ。おいしいものも食べられるし、夜まで出歩いていても誰にも怒られない。 そうか、宴があるのか。小さな胸を躍らせ、京一郎は縁側に座り微睡んでいるふりをして、父たちの会話にこっそりと聞き耳を立てる。 「そうか、今年も無事咲いたのか」 「ええ! 今朝見に行ったときには五分咲きってとこでしたんで、あと二日もすれば満開になるかと思います。そのころに宴を開くということで、話を進めても構いやせんかね」 「そうだな。では当日、備蓄を各々持ち寄るように伝えてもらえるかい。ああ、決して無理はしないようにとも」 「はい!」 いつしか話はどこそこの家の息子が大きくなっただの、どこそこの土地の開拓をどうするだの、もはや京一郎にはついていけないものになっている。父らの会話はまだまだ終わりそうにない。母は話にうなずいたりお茶を入れるので忙しそうだ。 京一郎は途端に退屈になってしまって、下駄をひっかけて庭を横切る。どこへ行かれるのですという使用人の言葉に、散歩へ行ってまいりますとだけ返し、走る。 春の空は言葉を失ってしまうくらいに青くて、顔を上げたまま足を進める。いくつか大きな雲が空を泳ぎ、なんて気持ちのよさそうなことだと目元を弛める。 向かう先は村の御神木の生える村の端だ。この村の名前の由来となったらしい、桃の木。何がそれほど神々しいものなのか京一郎にはわかりかねるのだが、禍福の起こるたびに供え物をする父の背中を見てきたからか、幼心に特別な木であるのだということは理解していた。今回の宴も、この桃の木へ無事に冬をこえられた感謝を伝えるために行われるのだ。桃の花が美しく開くのを合図に、村人の間に祝福の声が広がっていく。なので毎年、皆はこの花の蕾が色づくのを今か今かと待ち望んでいる。もちろん京一郎も。 柵に囲まれた桃の木は、随分と大きく京一郎を見下ろしてくる。村人の話していたとおり蕾はいつの間にかうっすらと開いていた。控えめながら微笑むように薄紅の花弁をほころばせ、ぽつりぽつり枝から身を乗り出している。 「わあ……」 視界を占める、青と白と薄紅。美しい光景に感嘆の溜め息を吐くことしかできない。と同時に、はやく満開になればいいのにと思う。 今日は花が咲いて、皆嬉しそうにしていた。春がきたから花が咲くのでなく、この花が咲くから春がくるのだとでも思っているように。誰もが春の訪れを心待ちにしている。だから、はやく咲けばいい。 「何してんだ、坊主」 突然背中からかけられた声に、びくりと震える。先程まで周りに人はいなかったはずなのだけれどと首を傾げ、知り合いかしらと振り返る。そして思っていたよりずっと近くで京一郎のことを見下ろしている男に、瞬きをひとつした。 男は、大きかった。四尺もない京一郎からしてみればたいていの大人は大きく見えるものだが、それを鑑みても。目を引く鮮やかな着流しに、風に遊ばせる長い髪。首が痛くなるほど上にある顔にはどこか胡乱気な表情が張り付いており、がっしりとした身体も相俟って威圧感がある。村中の人間からかわいがられている自覚のある京一郎は、はじめて自分に向けられる負寄りの感情にどきりと心臓を跳ねあげさせる。 恐れをにじませた顔をした京一郎に気付いたのか否か、男はふっと表情を和らげる。先ほどまでどこかの賊かと疑ってしまうほど剣呑な雰囲気を醸し出していたくせに、一瞬で掻き消えてしまった。むしろ楽しそうに笑みさえ浮かべる男に、京一郎は肩の力を抜いて首を傾げた。 「柊んとこの息子か。一人でこんなところまで何しに来た?」 「桃の木を見に来たんです。もうすぐ宴が行われると父らが話していたので」 「そうか、もうそんな時期か……。だがお前、一人で来るのは危ねえだろうが。誰か一緒に来てくれる奴ぁいなかったのか」 「みなさん、お忙しそうだったので。……あの、ぼくのことを御存じなんですか?」 「あ? ああ、ここいらでお前らの家のことを知らねえ奴はいねえだろ。しっかし、餓鬼のくせに型っ苦しい言葉使いやがるのな、京一郎?」 にっと悪戯っぽく笑いかけられ、もう一度体を固まらせる。京一郎が柊家の人間だと知っているのなら、少なくとも村に関係のある人間に違いない。しかし京一郎はこの男のことを知らない。生まれたときから村中の人間と顔見知りであるこの自分がだ、信用出来やしない。地主の一人息子を無法者がいったいどのように扱うかなど、京一郎には思い浮かびもしなかった。 思わず後ずさったのを見て、男は困ったように頭をかいた。黒と違った不思議な色の髪が指の動きに合わせてゆらゆらゆれて、数瞬見惚れてしまう。何とも言えぬくらい、綺麗だ。 「んな怯えんな。危害加える気なんぞ毛頭ねえさ」 それでなくともお前は柊の人間なんだから、と、何やら意味深に呟いて、男は桃の木を見上げる。つられて京一郎も男よりずっと上へ目を向けた。薄紅はさやさやと風と戯れ、先ほどよりもいくらか花弁が開いたように思える。 ――ああ、嬉しそうだ。 なんとなく思って、京一郎は怪しい男が横にいるのも忘れて、ふうわりと微笑んだ。 暫しの無言。幾度目かの温かな風が頬を掠めていったのに肩を竦めれば、男とぱちりと目が合った。男もまた、くすぐったそうに目を細めている。 「なに笑ってんだ?」 「春が来てくれて、よかったなと」 「春なんぞ、毎年向こうから勝手にやってくるだろう、殊勝に待たずともよ。そりゃあ、冬が終われば皆助かるんだろうが」 「ええ、ですが、春が来なくてはこの桃の花も咲きません。桃の花が咲かなければ、春は訪れていないのも同じなんです。この村にとっては」 「……へえ」 呆れとも困惑ともとれない溜め息にむっとしつつ、仕方ないかとも思う。春が来るから花が咲くのか、花が咲くから春が来るのか。聞くのもはばかられるほどに答えなど分かりきっている。それでも、桃木村にとっては後者が実なのだ。 桃の花が咲かなければ、春はこない。この村では。 じゃりと砂を踏む音がして、男が知らぬうちに屈みこんで京一郎の顔を覗いていることに気付く。こうして見ると顔立ちが整っているのがよくわかった。しかし目鼻の配置より京一郎の目を引いたのは、じっと合わせてくる瞳の色だ。髪の色と同様今まで見たこともないような不思議な色をしたそれは、京一郎に何かを訴えかけてくるようで。目を合わせているとそのぶんだけ、瞳を通じて京一郎の何かを読み下されていってしまう気がする。それでも顔を逸らすことはできない。 「あ、の」 「ああ、うん。悪かねえな」 「はい?」 「気にすんな。そうだ、いい子な京一郎にこれをやろう」 そう歯を見せて取り出したのは、小さなかわいらしい包みだった。かさりかさりと開かれて現れたのは透明な何か。それはと問う暇もなく、手ずから口の中に放り込まれる。 「むぐ」 「どうだ、うまいだろう」 「これは、飴ですか?」 「おう。とっておきの飴ちゃんだ。滅多に人にゃやらねえんだぞ、味わって食いな」 「甘いです」 「そりゃよかった」 屈託のない笑み。ほわりと胸があたたかくなって、京一郎は頬をほころばせる。 男からは普通ではないにおいがした。なにか、夢でも見ているような心地にさせられる。手を伸ばして触れたらその瞬間にどこかへ消えていってしまうのだと思った。いうなれば、異世界のにおい。それをかき消すように風が吹き、桃の香りがすべてさらって行ってしまう。 「さあ、そろそろ帰りな」 男の言葉に視線を巡らせると、あたりは夕闇に染められていた。春の日は、まだ短い。 髪をくしゃくしゃと掻き混ぜられる。男の手はあたたかかったけれど、それでも次の瞬間にはなかったものになってしまいそうで、京一郎はがじりと飴を噛む。 「まだ、帰りたくないです」 「親御さん心配してんじゃないのか? 急がないと夜が来ちまうぞ」 「でも、帰ったらあなたはいなくなってしまうでしょう?」 「……いなくなりやしねえよ」 大きな掌が頬を包む。思わず目を閉じると、額にあたたかな温度。ふわりと香ったのは、隣に立つ桃と同じ香りだった。 「またな、京一郎」 耳元を擽った声に慌てて目を開けば、まるで初めから何も存在しなかったとでも言うように男はいなくなっていた。幻のようだった。思って、口の中にまだ甘いものが残っていることに笑う。 男は、またな、と言った。ならばいつかどこかでまた見えることがあるのだろう。村の人間ではないようだったからすぐには無理かもしれないけれど、そのときにはまた、この飴をもらえるだろうか。あの掌で、頭を撫でてもらえるだろうか。 「京一郎!」 母の、己を呼ぶ声がする。空の色は重く紺色に変わりつつあった。顔を上げれば今度は紺の中に沈む薄紅が、まどろむようにちらりちらりと垣間見える。ただ、その花弁はもはや、満開と言えるまでに開き切っていた。 ああ、ようやく待ち望んだ春が来たのだ。桃木村に、春が来た。 それは、京一郎が大病をする二年前のこと。 今やもう記憶のかなた吹き消えてしまった、懐かしい思い出。 END. 2013/07/11 |