万年筆はいらない 11巻のあたり 人だった。いくら、そばにいようと、何を助けようと、鴇時は人間であった。白紙の者であろうと、敵であろうと味方であろうと、大切であろうとどうでもよかろうと、鴇時は。 人間は死ぬものだ。醜くも血を垂れ流し、命を乞い、そうして死ぬものだ。その血肉は毒となり、露草ら樹妖を苦しめる。苦しめている自覚などなしに争う。そして妖を厭うのだ。だから、嫌いだった。なんて勝手なのだろう。姑息なのだろう。本当に汚らわしいのはそちらだと何度吐き捨てようとも、奴らは耳を傾けない。いや、そもそもこちらのことなど見えてもいないのだ。見えないものは存在しない。その程度のものだった、人間にとっての妖とは。 だから、鴇時が今様を救ったときの衝撃は計り知れないものだった。妖なんてどうでもいいだろう? 邪魔で、おそろしいだけだろう? なぜ救った、なぜ救ったのだ。 疑問は尽きない。何度自分に問いかけても堂々巡りで、本人は知らぬ存ぜぬで馬鹿みたいに笑っている。妖と人が同じ? たわけたことを。人をおちょくるのもいい加減にしろ。そう思う自分も確かにいるのだけれど。 鴇時の隣は、いきやすかった。当然のように背にかばった。親を守るように? 弟を背負うように? なんでもよかった。妖を、露草を救った鴇時のことを、守りたかった。それだけは間違いなかったのだ。 鴇時は、人間だった。人間というからには、彼も死ぬのだ。 「鴇!」 誰かの声が頭に響いた。言葉は理解しているし視界も良好だ。けれど、何が起こっているのか理解できなかった。 もはや見慣れた細長い身体に、おかしな色の髪。色の違う瞳は今は閉じられ、春を思わせる着物は今、赤に染まっている。血だ。樹を、土地を汚す血。鴇時の身体から、毒が流れ出していた。 名前を呼ぼうとして喉が枯れていることに気付く。駆け寄ろうとして膝が笑っていることに気付く。自分が恐れを抱いているのだと理解したとき、ようやく露草の身体は自分のもとに戻ってきた。崩れ落ちる社にも見向きもせず、誰だかの腕の中ぐったりとした鴇時に触れるために。 「鴇、おい鴇! なに寝てんだ起きろよ!」 「落ち着きなさい、あまり動かすと傷に」 「なに悠長なこと言ってんだ! こいつこんな血まみれで、鴇、おい、動けよ!」 「うるさいって言ってんでしょう!」 藍鼠の怒声に、はっと今度は意識が戻る。鴇時の肩をつかみ揺すぶっていた動きを止め、奪われるままに手を離した。医者が鴇時の様子を窺っているのを、見ていた。敵も社ごと大穴の底へ消え失せ、鴇時を心配した面々が近寄ってくる。誰もが焦燥を顔に浮かべ、彼の名前を呼んだり藍鼠の手伝いをしている。露草はそれを見ている。鴇時を、見ている。 顔は青白く、布に広がる赤との対比が綺麗だと、馬鹿みたいに考えた。手のひらを見る。赤に染まった手のひらを見る。血が生温かった。なのに肌はぞくりとするほど冷たかった。この温かな血が流れてしまうせいで鴇時の身体は冷たかったのだ。そう思うと、流れ出る血を止めるため首でもしめてしまいそうになる自分に気付かされて、あの医者に止められてよかったなと素直に思った。 ああ。鴇時は人間だった。 汚らわしい血が流れている。妖が嫌悪する、排除しようとする、人間なのだ。だから、死んでしまうのだ。人間は死んでしまうのだ。弱く、か細く、小さな命。醜く、勝手で、愚かな命。 どうして今まで忘れていたのだろう、実感することもなかったのだろう。露草が首を捻れば簡単に消えてしまう命なのだ。力も体力もないひょろひょろの身体で、なんとか立っている脆弱ないきもの。 置いていかないで。一人にしないで。一緒にいて。どうしていなくなってしまうの、消えてしまうの。どうして、どうしてどうしてどうして。狐の声が頭に響く。失う恐怖は、露草だっていやというほど知っていた。 人々の間、真っ白い顔が見える。紙みたいだ、なんて、ひどい皮肉。 「六合殿!」 声に引きずられるように鴇時の顔をのぞき込む。意識を取り戻したらしい彼は虚ろな目をしてはいたがきちんとこちらを認識しているらしい。相変わらず血が身体を濡らし肌も白いが、それでも生きている。鴇。喉が震える。腕が、指が、肌が、魂が、彼を求めている。生きている。ここにいる。ああならば今、抱き締めて確かめさせてくれと。 死なないで。そばにいて。どこにもいかないで。 恐怖と安堵に叫びだしそうになりながら、鴇時の肌に触れた。冷たいが、この中には血が流れているのだ。汚らわしい、けれどいとおしい血が。人間であるせいで、人間であるからこそ、血を流し呼吸を乱し、意志のある目で露草を見る。 その目を、口を鼻を耳を、腕も足もすべてすべて守りたいのだと言ったらどんな反応をするだろう。いとおしくて、だから失いたくなくて守りたくて、それを理由にそばにいたいのだと言ったら? 生き場所をなくさないためと自分に言い訳をして、慈しむこの感情を。 「鴇」 彼がか弱い人間でよかったと、はじめて思ったときのこと。 END. 2013/07/11 |