と その日からまたひと月ほど。相変わらず僕は先輩のことを探す毎日を過ごしていた。以前と違うのは、見つけると同時に視線を向けていると、先輩がはっとこちらに気付くこと。そしてやはり不快そうに顔を歪め、姿を消してしまう。 気持ちが悪いと思われただろうかという不安はあるにはあったけれど、もとから何の交流もなかったのだ。先輩は僕の名前も知らないだろう。少しくらい嫌悪感を持たれたところで、目が合うという至福と比べては何の苦痛でもなかった。あれからどうしても癒えず慣れてしまった頭痛でさえ、先輩を見かけたときには薄らぐようだった。 先輩を探していた。いつしか、あの、柔らかな髪に触れたいと思うようになっていた。気味の悪い人というイメージはまだあったけれど、それ以上にただ存在を感じていたかった。 いつものように視界の端で先輩を探しながら友人と笑いあう。友人はフラれて元気のなかった僕が楽しそうにしてることを不思議がっていたが、今では吹っ切れたのだろうと思っているようだ。心配をかけるのは本意ではなかったのでよかったと素直に思う。 その友人が、急に表情を曇らせた。僕の後ろを見て、何やら訝しげに目を細めている。 「なあ、後ろ」 「え?」 言葉に従って振り返って、呼吸を忘れるかと思った。ここ最近毎日のように姿を探していた飯嶋先輩が、笑顔で僕を手招いているのだ。夢かと思い、次には弾かれたように駆けだす。 「あ、あの! 飯嶋先輩、」 「ちょっといいかな?」 有無を言わせぬ台詞。凄みをきかせているけれど、初めて聞いた声に心臓がはちきれそうになっている僕にはあまり意味がない。 普段以上に作り物のような表情で先輩は僕の前を歩く。遠くからではわからなかったが、薄い薄いと思っていた背中は予想外にしっかりしている。ちゃんとこの人も男なのだ。僕より少し低い位置で、つむじがくるりと渦を巻いている。 「あのさ」 人気のない中庭でようやく振り向いてくれた先輩は、笑顔のまま口を開いた。僕の心臓は大きく脈打つ。 「君の彼女さんが、僕に文句があるらしくて少しいろいろあったんだ。それで、少し話があって」 「彼女が、ですか?」 「うん」 「その、すみません。なんで先輩のところに……」 「僕にはちょっとわからないよ。まあ、それはべつにいいんだ」 僕を糾弾するでもなく先輩は淡々と言葉を発する。あの飯嶋先輩と言葉を交わしているという事実と話の内容に、掌がじわりとしめっていくのがわかった。 静かな瞳が僕を見ている。それを僕は見つめ返している。現実味がなく、どこか恐ろしささえ感じられるような現状。近くで見る先輩は、やはり夢のように綺麗な人だった。僕はただ息を呑んで、言葉の続きを待っていた。 「人のことに首を突っ込むつもりはないけど、僕は君のことなんて知らないし巻き込まないでほしいんだ。だから、きちんと話し合ったらどうかと思って」 先輩の口から出たのは、冷たい声ばかりだった。 彼女が先輩に何かしたなんて思いもしなかったけれど、それもショックではあったのだけれど、何より僕のことを知らないという言葉が深く突き刺さった。そうだ、僕も先輩のことを知らないけれど、先輩はその比じゃない。僕と先輩は友人ではない。知り合いですら、ないのだ。 飯嶋先輩の視線が僕の肩あたりを彷徨い、笑顔が一瞬消える。ああこの表情も所詮偽物なのだなとぼうっと思った。本当の飯嶋先輩は、僕に見えるところにはいないのかもしれない。 再び僕を捉えた先輩の視線に不快感が混じっていたのは、多分勘違いではない。 「それと、どんな話を聞いたか知らないけど、僕のことあんまり見ないようにしてくれないかな。君の耳にした噂は、多分噂でしかないから」 それじゃあ気を付けて。 別れ際の言葉の際には僕の目を見ることもせず、先輩はいなくなってしまった。 一人残された中庭で、あれと首を傾げる。どうしたことだろう。頬を、ぼろぼろと涙がつたっていた。 決して認めるつもりはなかったのだけれど、飯嶋先輩への興味が普通とは違うということには気づいていた。同性に対して触れたいと思うことがどれほど普通ではないのか。僕は知っていたのだ。彼女への好意を語りながら頭の片隅に目も合わない先輩のことがあったのだと、僕はきっとずっと、知っていた。 関わるなと先輩は言ったのだ。迷惑だから近づくなと牽制されたのだ。僕は彼にとって、その他大勢の噂に踊らされる生徒たちと同じであって、好奇心もしくは嘲りの気持ちで持って見てくるひとりにすぎなかった。 僕は泣いていた。悲しくて悔しかった。もう僕が先輩の視界に入ることはない。綺麗で不思議で不気味な先輩は、決して僕のもとへはやってこない。 泣いて泣いて、また何日か学校を休んで。これほど落ち込んでいるのにどうしてか頭痛が治ったなと思っていたころ。 僕はようやく、元恋人がひと月ほど入院していたのだということを知ったのだった。 |