恋猫は未だ夢のなか





仮初の平穏が訪れて、いくらか時間が経った。相変わらず空環の街は薄暗く、影を帯びた景色は変わらない。それでも行方不明者の噂は以前と比べ格段に減り、春の暖かさにまどろむ人々には危機感など微塵もない。そうでなくとも、あやかしに食われるからと警戒するような人間は遠近家の者くらいしかいないのだが。
神社はいまだあやかしの巣窟となっている。秋良もその父もいい顔はしていないが、とりあえずの平和のためには目をつぶろうという意見で一致している。街が解放される機会を断ったのはほかならぬ秋良だ。後悔はしてはいなかったが。
季節は春だ。変化の季節だ。
学年が一つ上がり、秋良も灯吾も高校三年になった。由は暇さえあれば街に下りてくるようになり、何かと絡んでは腹が減ったと帰っていく。怪しさが失せたわけではない。それでも時間を共有していればそれなりに情もわくというもので、いつしか放課後や休日には三人(黒狐も含めれば四人)で顔を突き合わせることが多くなっていた。
受験勉強に手を付け始めている灯吾は時折集まりを抜けるようになり、必然的に秋良と由と黒狐で行動することになる。あきよしは勉強しないのというあやかしからの質問に、秋良はむっつりとして答えることはなかった。遠近家を継ぐのに大学進学は必要ではないというのをわざわざ教えるつもりにならなかったからであるが、学力があまり高くないことを知っている由と黒狐は生温かい笑みを浮かべ、それ以来受験の話を振ることはなくなった。はなはだ失礼な話である。
見かけ倒しの平穏。危ういバランスの上に成り立っている影の街。
ふと気が付いてみれば、取り返しのつかないところまで来てしまっているのかもしれなかった。



「また何か考えてるの?」

ほわほわとした声音で聞かれ、ふっと物思いから帰って来る。顔を上げれば出会ったころよりずっと眠そうな釣り目。近頃は気候も安定して暖かく、由は常に眠たげにしている。今も目が半分開いていない。ここまでぽやぽやとしていると、夕方に起きだしてくるのにある種の感動を覚える。
今日は、灯吾は補習があるとかで放課後の公園に現れることはなかった。黒狐も神社の神主に何事か頼まれごとをされたらしくついてきていない。薄暗い夕焼けの中ベンチに腰掛けるのは、珍しくも秋良と由の二人のみである。

「……俺が黙っているとイコール考え事をしているになるのか」
「だってほら、眉間に皺よってるからそうかなって。癖になるよー」
「させてるのは誰だと思ってる。俺だって何事にも悩むことなく日々過ごすことができるならばどれほど幸福だろうかと」
「あー、はいはい」

あからさまに面倒くさいという態度を見せ、ゆらゆらと手を振る。億劫そうにあくびをする仕草は、狐というよりは猫のようかもしれないとぼんやり思う。
考えなければならないことは山ほどあった。街を救うという約束をどう果たすのか。そのための力のつけ方。学生らしく将来への不安もあるし、あやかしのことを信頼しているわけでもないのでそちらへの注意もしなければ。
それに、となりの少年のこと。今にも瞼を下ろしてしまいそうな、子どものような無邪気な表情でまどろんでいる少年。いつからか心に居着いた少年。
恋かと問われれば首を傾げるしかない。これまでに経験してきた恋とは勝手が違っていた。胸の辺りがどきどきさわさわするような、落ち着かない感じはない。触れたいだとか高校生らしい欲求も伴わない。
ただこうして隣り合っていると、いや、そうでないときも、頭の中では由のことがぐるぐるとまわっていて、なんだか自分が自分でないような気がしてくる。自分たちはどうなるだろう、いつまでこうしてともにいられるのだろう。ぐるりぐるり、ぐるぐる。考えても詮のないことが溢れ出てきて、その対象が横にいるというのに目に入れることも少なくなる。
恋ではないのか。ならば、この傷口が疼くような気持ちはなんだというのだろう。

「あきよし?」

また思考の波に沈み始めていた秋良に気付いたのか、変わらず眠たげな由が覗きこんでくる。この街では見ない、金の瞳。綺麗だなと思って、そういえばこの色ももともとはあの英雄の持っていたものだったのかと視線を空へ向ける。
由から、彼の容姿は朱史の過去の姿を模倣したものであるという話は聞いていた。あのふてぶてしい態度の男は、本来この線の細い少年のような見た目であったのだ。そう思えば、何やら愉快な気持ちにもなる。
かつて街を解放しようと奮起していた男。今は土地に眠り、秋良が迎えに来るのを待っている。彼と交わした約束が、由への不明瞭な感情を自覚してしまうことへの邪魔をしていた。約束を違えないためにはあやかしを、ひいては由を街から追放する必要がある。しかし由がいなくなってしまっては、浮かび上がってきたこの焦がれるような感情が宙づりのままになってしまう。
悩んでいた。どうすればいいのかわからない。いや、最善は分かっているのだ。空環を今度こそ解放し、街のために尽力した英雄を讃え、あやかしのいない人だけの街を作り上げる。幼い頃からの目標で、それを叶えるための布石はいくつか打ってある。迷うことなどない。そのはずであるのに。

「ねえ」
「ん?」
「迷うことはないんじゃないの」

先程よりもしっかりした声音に視線を向ければ、にっこりと笑う由がこちらを見ている。どこか感情の読めないへらりとしたものではなく、慈愛に近いものがこもった笑顔。
どきりとした。言葉も、秋良が巡らせていた考えにたいするもののようで、知らず声に出してしまっていただろうかと喉を鳴らす。

「オレはね、自分の選んだ道を歩いてるあきよしがすごいと思うし、可哀想だなと思うよ。でも、それでいいんだとも思ってる。あきよし、迷わなくてもいいよ。どうしたいか、分かってるでしょ」

鼓動が早まる。呼吸がうまくできているのかわからない。
由はゆらりゆらりと微笑んで、言葉を紡いでいく。秋良が足を止めてしまっている思考の壁を今にも破壊しようとしている。しかも、自分にとっては不都合になるだろう方向に導こうとしているのだ。
細められた金色が直視できず、秋良は目を伏せた。それでも耳は少年の声を捉え続ける。

「まだ悩むっていうんなら、聞いてあげるよ。あきよしが欲しいと思ってるのは本当にオレなの? ね、オレにさがのさんを重ねてるとは、絶対に言いきれないの?」

声を出す間もなく、じゃあまた明日と由が駆けていく。先ほどより幾分か暗くなった夕暮れの中、細い身体が走っていく。その後ろ姿は人間離れしており、仕草こそ似てはいないが、再度眠り続けることとなった英雄の姿を秋良に思い返させた。
由ではなく、朱史を求めているのか? 由は朱史の代わりだと思っているのか? 朱史が戻ってくるのなら由はいらない? ならばどうして影の解放を躊躇っているのか。
思考はめぐる。答えは出ない。
自分を磨くために得た猶予を、悩むために使っている気がした。ススキ野原の英雄は今の秋良をどう見ているのだろう。わからないし、わかりたくない。こわくて、もう何も見たくない。
けれどまだ時間はあるのだと、そう自分に言い聞かせる。強い力を得た未来の自分がきっと答えを出してくれるはずだと。逃げていることになるのではとは、気付いていたが追及する勇気はなかった。
濃紺の世界の中、ぼうっと前を見つめる。細い後ろ姿は、とうに見えない。





END.

2012/10/08

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